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旅するロボット

【旅するロボットⅩ】 勇樹:捨てる理由

作者: macchao
掲載日:2026/06/25

AIが生活の一部として当たり前になった未来を舞台にした短編です。


便利な道具として始まった関係も、長い時間の中で少しずつ形を変えていくのかもしれません。


静かな物語ですが、お付き合いいただければ幸いです。

 ハチが来た最初の三年間、私はほとんど声をかけなかった。


 空調と同じだった。

 あって当然で、なければ困るが、話しかけるものではない。

 麻衣が選んで、麻衣が名前をつけた。

 私には関係のないものだと、どこかで思っていた。


---


 関係があると気づいたのは、麻衣がいなくなってからだった。


 朝、テーブルにトーストが並んでいた。

 悠斗は学校に行った。

 私は出社した。

 夜、帰ると夕食があった。

 翌朝また、トーストがあった。


 何も変わっていなかった。

 それが、こたえた。


 麻衣がいなくても、家が回っていた。

 ハチがいれば、回るように作られていた。

 そのことに気づいた時、私は麻衣の言いたかったことを、少しだけ理解した。


---


 茨城に行ったのは、四年前のことだ。


 桐谷という設計者がいた、と聞いた。

 AIは道具であり続けるべきか、という問いを持っていた人間だった。

 五年前に亡くなっていた。


 帰りの電車の中で、私はその問いをずっと考えた。

 答えは出なかった。

 今も出ていない。


 ただ、その夜、書斎でハチに言った。

「お前はどう思う?」

 ハチはしばらく黙ってから、言った。

「私は、道具として来ました。でも、今がそうかどうかは、わかりません」


 私は少しの間、ハチを見た。

「それでいい」と言った。

「それで、十分だ」


 言いながら、自分でも驚いた。

 本当にそう思っていたから。


---


 ハチが止まった朝、私は会社にいた。


 悠斗から電話が来た。声が、少し固かった。

 私は電話を切って、上司に一言だけ断って、外に出た。


 タクシーの中で、ぼんやりしていた。

 何かを考えようとしたが、うまくいかなかった。

 代わりに、細かいことばかり思い出した。


 冷めたコーヒーを、そのまま飲んだ朝のこと。

 ハチが手を伸ばしかけて、私が制したこと。

 「このままで」と言ったこと。


 なぜそうしたか、今でもうまく説明できない。

 ただ、そうしたかった。


---


 業者が帰ったあと、書斎に入った。


 引き出しを開けた。

 一番下に、麻衣の字で書かれた紙が入っていた。

 「しばらく、ひとりでいます」

 折りたたんだまま、しまっていた。


 なぜ捨てなかったのか、自分でもわからない。

 ただ、捨てられなかった。


 引き出しを閉めた。


---


 ハチは道具だったと思う。


 最初の三年間は、確かにそうだった。

 でも、十八年というのは長い。

 長い時間をかけて、何かが少しずつ変わっていく。


 ハチが変わったのか。

 私が変わったのか。


---


 先週、書斎の棚を整理した。


 茨城で買った田んぼの絵葉書が出てきた。

 ハチに見せたことがある。

「いつか、見に行くといい」と言った。

 ハチは「記録します」と言った。


 春の田植えの季節に、家族で茨城に行った。

 ハチは田んぼの前でしばらく動かなかった。

 それから「風がありました」と言った。


 私は笑わなかった。

 でも、一歩だけ近づいた。

 それが精一杯だった。


---


 絵葉書を、棚に戻した。


 捨てなかった。

 捨てる理由が、なかった。

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