心にただいま
お店の皆との飲み会の帰り道、へべれけになったミケさんに肩を貸して歩くのは終電前の大通り。頼れるはずだった男性二人はこれから一勝負してくるとダーツバーに消えていき、凛子さんはそのまま別の友達と飲む約束があるからと繁華街へと消えていく。
そうすると私がミケさんの面倒を見る他なく、駅に同居人が迎えに来てるんですと言われるがまま、駅までの道を歩いていた。
「小鹿さんは可愛いですねー」
食べちゃいたいですなんて、とろりとした目を向けられて、どうにもこうにも落ち着かない。
隣から香るのは私の知らない、甘ったるい桃のフレグランスで、同じ女性のはずなのにどきどきしてしまう。はいはいと適当に会話を流して歩いていれば、彼女は頬を膨らませて拗ねていた。
「流石に冗談ですよー」
「流石に冗談だって分かってます」
それよりも私はミケさんを無事に届けなければならないのだから、せめて大人しくしていて下さいと足を進めると、彼女はにっこり、微笑んだ。
「小鹿さん、人間らしくなりましたねー」
「人間、ですか」
ふわり、夜風が髪を揺らすと彼女は気持ち良さそうに目を瞑る。
「人間らしくなった、って言っちゃうと変ですけど、でも、色んな顔するようになったと思うんですよ。仲良くなったから、ってそんな理由じゃなくて、私達の関係云々よりも、小鹿さん自身が変わった、みたいな」
そう思いませんか、と目を開いた彼女は段々と酔いも醒めてきたようで、私に掛かる体重も減り、先程より随分と歩きやすくなった。
「そうですね。変わった、ってよく言われますよ。それはミケさん含む、皆のお陰ですね。だって私、ミケさんに背中を押してもらえなかったら、彼とお付き合いする事はなかったと思います。だから感謝してます」
ありがとうございますと最後に付け足せば、ミケさんは頬を染め、それから照れたように頭を掻いた。
「感謝されるとやっぱり嬉しいです。でもね、それは小鹿さんが信じて、実行したからこその結果ですよ。それに――」
突然、たたたと駆け出したミケさんは横断歩道の手前で止まり、こちらに向き直って歯を見せ笑う。
「私も小鹿さんに感謝してる事があるんです。日本に来てから、初めて仲良くしてくれた女の子は小鹿さんでした。一緒に帰ったり、ご飯を食べに行ったり、すっごく楽しいです!」
いつもありがとうございます――そう言った彼女の後ろの交差点、信号の色は赤。街のネオンは緑に青。
なのに彼女の瞳は黄色く輝き、私を真っ直ぐ見つめてた。
今ならきっともっと、仲良くなれるんだ。そう思った私は彼女に駆け寄り、手を差し出す。
「これからもよろしくお願いします。ミケちゃん」
信号はもう青。ミケちゃんはこちらこそと私の手を握り、そうしてそのまま走り出した。
「よーし! 小鹿ちゃん、走りましょー!」
「あ、ミケちゃん待って――」
走らなくても終電には間に合いますよ、そう言っても彼女はお構いなし。
二人分のヒールの音、楽しげな笑い声と共に駆ける終電前の駅前は、いつも見ている景色とは全く違う。
酔っている事も、足がもつれそうになっている事も気にせずに、ただただ私達は駅までの道を一気に駆け抜けた。
駅の中、階段を降りてすぐの所でミケちゃんは立ち止まる。視線の先には黒髪をオールバックに纏めた背の高い男性の姿。
ミケちゃんがじゃあまた、と手を振れば、男性は何かに気付いたように視線をこちらに向ける。
ああ、なるほど。きっとこの男性が彼女の同居人なのだろう。
また遊びましょう、なんて私も同じように手を振って別れてすぐ、後ろから聞こえてきたのは二人のやり取りだった。
酔い過ぎだと呆れる男性と、へらへらと謝るミケちゃんはとても仲が良さそうで、私は急に一文さんに会いたくなってしまうのだ。バッグから取り出した携帯電話で、会いたくなっちゃいましたと送ったメール。
返事はすぐに返ってきて、開けば駅で待ってろと一言。
嬉しさで顔が綻び、幸せで胸がいっぱいになる。乗り込んだ最終電車の中、私は逸る気持ちを抑えられず、これは間違いなく恋なのだと改めて実感するのだった。
午前零時四十七分の駅前。迎えに来てくれた一文さんは、会うなり私の頭を撫でてきた。
「こんばんは、詩歌ちゃん。急にどうしたんだ、酔っ払っちゃったか?」
「いいえ、メールを送った時には大分冷静でしたよ。なんというか、急に会いたくなっちゃって……っていうのでは、だめですか?」
私の機嫌を伺うような、機嫌を取るような聞き方に、さっきのメールはもしかしたら我儘だったかも知れないと心配になる。一歩下がってごめんなさいと謝れば、一文さんは私の手を取りニッと笑う。
「駄目な事なんてあるもんか。メール、嬉しかったよ。ほら、一緒にお散歩しよう」
そうして繋いだ一文さんの手はミケちゃんの手とは全然違う、ごつごつした男性の手。
そんな当たり前の事を感じながら一文さんと並んで歩く春の夜は、初めて会った時と比べるとずっとずっと暖かい。
僅か数ヶ月の間にすっかり変わった私の世界は、どこまでも私に優しくて、今まで生きていた世界とは全く違う、とても生きやすい世界だった。
「詩歌ちゃん、もうすっかり春だな」
「春ですね――」
ポッカリ月が出た夜に、並んで歩く線路沿い。向かう先はいつもの角の自販機で、繋いだ手から伝わる体温も、隣から聞こえる息遣いも、何もかもが愛おしい。
「今度一緒に梅でも観に行こうか」
そろそろ見頃のはずだから、と一文さんは私を見る。
そういえば初デートは最寄り駅周辺だったし、電車に乗ってお出掛けというものはした事がない。そんなデートのお誘いが嬉しくて二つ返事で了承すると、エスコートは任せてくれ、なんて、彼は得意げに笑うのだった。
ふらり、ふらり、遠回りして辿り着いたいつもの自販機の前。いつものように差し出されたココアを受け取ると、一文さんはいつものようにタバコを取り出し火を付ける。
「ホットココアの時期ももうすぐ終わりかな」
「まだまだ終わりませんよ。それに、アイスココアが自販機に並んだら、それを買ってもらいます」
一文さんもそうしていたでしょう、と笑えば、どうしてそれをと彼は首を傾げる。
「ずっと見てたから、知ってるんですよ。一文さん、いつも同じ飲み物を飲んでました」
「そっか。詩歌ちゃんはよく見てたんだなー。二時間ドラマの刑事みたいだ」
塀に置いた缶コーヒーのプルタブを、器用に片手で起こした一文さんはからからと笑い、それから私の頭を撫でた。
そう、ずっと見てた。でも今はただ見ているだけじゃない。
ただただ眺めるだけの存在だった、ただの日常の一コマに存在していただけの“おじさん”は、今は私の恋人で、彼の名前も、職業さえ知らずに毎日色々な想像をしていた私は今、その彼の恋人なんだ。
そして、関係が変わっても、私がずっと一文さんの事を見ている事に変わりはない。それはちょっとした変化も見逃したくないから。
それは何かあったら声を掛けて支えてあげたいから、そしてもっともっと仲良くなりたいからで、私が一文さんの事を好きで好きでたまらないからなんだ。
「ねえ、一文さん」
「どうした?」
「小さい頃、初めて会った時に一文さんが読んでいた本を思い出したんです。これ、中也の詩集でしょう?」
都会の明るい空の下、私はバッグから一冊の詩集を取り出した。
それは先日、一文さんが書いた本と一緒に購入したもの。毎日読み進めていたんですと伝えれば、よく覚えていたなと一文さんは目を見開く。
「思い出したのは最近なんです。なんというか、一文さんに一篇だけ読んでもらった詩がとても印象的だったので、思い出せました」
「そこまでいくと俺の方が覚えてないな。何を読んだんだ? サーカスか?」
「いえ、月夜の浜辺でした」
私達が生まれるずっと前、若くして亡くなった詩人の詩。どこか寂しげで感傷的、情緒溢れる彼の詩は、幼い私の胸の奥深くでひっそりと眠っていたのだ。
「そうか、覚えていてくれたのか。嬉しいな」
「おおきくなったらよむね、って約束しましたから」
褒めて下さい、と一文さんに強請ってみれば、一文さんはよしよしと私の頭を撫でてくれる。
「詩歌ちゃん、もうひとつ約束を覚えているか?」
どこか遠いところを見つめながら、一文さんはぽつり、呟いた。
約束、何か大事な約束をしていただろうかと考えてもちっとも思い出せないもので、ごめんなさいと謝ると、彼はタバコの火を消して、私にぴたり、くっ付いて囁いた。
「おおきくなったらおにいさんとけっこんする、って。言わなかったか?」
「へ? あ……」
数秒、時が止まっていた、気がした。ああ、小さい女の子とはなんと大胆なものだろう! 全く身に覚えのない約束なのに、全身がカッと熱くなる。恥ずかしさで目を合わせられないし、なんと返せばいいのかも分からない!
おろおろと言葉を探していれば、私以上に焦った様子の一文さんがすまんすまんと謝っていた。
「あれ、どういう……?」
「詩歌ちゃん、その、すまない。今のはちょっとした冗談だ。そんな約束はしていないから安心しろ」
「冗談?」
「ああ、冗談だ。ごめんな」
聞き返した言葉への返事に、そっかそっかと安心する。
冗談なら良かったと胸を撫で下ろす。しかし同時に、どこか寂しい気持ちになり、私の胸はきゅんと鳴いた。
「もしそう約束していたとしたら、一文さんは約束を守ってくれましたか?」
零れ落ちた言葉に見えたのは、私の願望、欲望だった。約束が本当だとして、一文さんが約束通り私と結婚してくれれば、なんて。まだ早いのはわかってるのに。
「そんな約束守るつもりなんてさらさらなかっただろうな」
二本目のタバコに火を付けた一文さんは、ふうと白い息を吐く。一瞬、聞くんじゃなかったと思った。でも、当たり前と言えば当たり前なのだ。
「そうですよね。そんな約束したとしても本気にする訳――」
「でもそれはあくまで当時の俺ならだ。今は違う」
そこから一文さんは畳み掛けるように、言葉を紡ぐ。
「もう詩歌ちゃんは大人だ。結婚だって出来るし、その意味だってわかってるだろう? 詩歌ちゃんは成長した。性格良し、器量良し、どこの誰よりも良い女なんだよ。……俺は、今の詩歌ちゃんとなら、すぐにでも結婚したい」
どきどきと心臓は忙しなく動く。
顔が、体が熱い。
だって、一文さんが言っている事は――
「それは……プロポーズ、ですか?」
恐る恐る、そう聞いてみれば、一文さんは照れたように頷いた。
「まあ、そうなるな」
ああ、ああ、プロポーズだなんて、そんなの断れる訳ないじゃない!
「嬉しいです。私も――」
「待った」
そうしたいです、と言うつもりが、一文さんの指で唇を抑えられ、続きの言葉が出てこなくなってしまう。
それから一文さんは私の髪をくるくると弄びながら、続きをゆっくり話し出す。
「詩歌ちゃん、ありがとな。でも、まだ焦らなくていい。まあ、俺としては、早いなんて事はないと思ってるんだが詩歌ちゃんはまだ若い。もしかしたら、もしかしたら気持ちも変わっちまうかも知れない。だからな、俺は詩歌ちゃんに猶予をやる。また一年後、今度はしっかりプロポーズするから、その時に答えを聞かせてくれ。断っても期限を伸ばしてもいい。ただ、了承したらそれが最後、俺は詩歌ちゃんを一生離さないつもりでいるから、覚悟しておけ」
見上げた一文さんは、優しげな笑みを浮かべながら、緩々と私の頬を撫でていた。
「楽しみにしてます」
ゆっくり顔を近付けて、唇に軽くキスをする。
すると一文さんは応えるように私を掻き抱き、深く深くに侵入し、それから少しして唇が離れてく――
「詩歌ちゃん。続きは、どうだ?」
悪戯っぽく笑う一文さんの言葉の意味ならすぐにわかった。首を横に振る訳も、断れる訳もなく、私はひとつ頷いて
「夜は家族と外食なので、お昼までなら……」
と答えるのだった――
タバコの火を消し缶を捨て、並んで歩く夜の街。静まり返った住宅街、動いているのは私と一文さんの二人だけ……そう考えると不思議なもので、同じ時間を生きている事が嬉しくて、私の心は安心するのだ。
「家に着いたらココアでも飲むか」
「はい」
「そんでデートの計画でも立てよう」
「はい!」
一文さんに見せるのは私の、とびきりの笑顔。
幸せな時間が嬉しくて、繋いだ手が離れないようにきゅっと固く握り直せば、一文さんはくつくつと喉を鳴らして笑い出す。
「そんなに強く握らなくても解けないから平気だよ。ちゃんと繋いでおくからな」
ああ、幸せ、幸せです。一文さん、私が生きてきたどの時間よりも、ずっとずっと楽しい毎日をありがとうございます――
私の居場所は四畳半の小さな部屋と一階のリビングに、二駅離れたバイト先。それから今いる一文さんの部屋と私の特等席である一文さんのすぐ隣。
彼の隣で何をする訳でもなく甘え、甘えられ、幸せな時間が過ぎていく。それは間違いなく恋人同士の甘い時間で、私はその中でひっそりと、自分の人間らしい心の帰還を祝っていたのだ――