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かつて、その魔女を愛した悪魔へ〜Prologos〜  作者: 西瀬 零真


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3

*本作はオリジナル作品です。


いつもどおり、“彼”は食事を運んで部屋を訪れた。

私は悟られないよう、できる限り平静を装う。

そして、何事もなかったかのように、いつもどおりに振る舞った。

彼が静かに部屋を去り、食事を終えた後。


——いよいよ、作戦を決行することにした。


音を立てないよう細心の注意を払いながら、私はそっと扉を開けて部屋の外へ出た。

廊下には深紅のカーペットが敷かれ、薄暗いことを除けば、ごく普通の屋敷のようにも見える。


どうやら、私が過ごしていた部屋はこの階の一番奥に位置していたらしい。

このフロアにあるのは、上階と下階へ続く階段。

そして、廊下の反対側の突き当たりにある、もう一つの部屋だけだった。


私は、廊下をゆっくりと歩いた。


ところどころに、ひどく美しい花が飾られている。

プレートアーマーの甲冑(かっちゅう)が、不規則に並び立ち、

まるで無言のままこちらを見下ろしているようだった。


壁に掛けられた絵画もまた、不気味なほど精巧で、

今にも動き出しそうな気配を漂わせている。

美しいはずの空間なのに、どこか息苦しかった。


やがて、もう一つの部屋の前に辿り着いた。

恐る恐るドアノブへ手をかける。

固唾を呑み、意を決して扉を開くと……。

拍子抜けするほど、あっさりと扉は開いた。

どうやら、鍵はかかっていなかったらしい。


その部屋の中央には、一台のピアノが静かに佇んでいた。

誰が、この鍵盤に触れるのだろう。

……まさか、“彼”が弾くのだろうか。


トムソン椅子の上には、見慣れない少し変わった人形が、ちょこんと置かれていた。

表から見ると、どこか愛嬌のある雪だるまのような姿をしている。


けれど、裏側には太陽を(かたど)った奇妙なピエロの顔が描かれていた。

その表情はどこか不気味で、思わず背筋がひやりとする。


それなのに、表側の素朴で愛らしい姿を見ていると自然と頬が緩んでしまうのだった。

つい、その人形に触れようとした——その時だった。


「触るでない、人間風情が」


突然聞こえた見知らぬ声に狼狽し、

私は驚きのあまり後ろによろめき、その場に尻もちをついた。

早鐘のように打つ心臓を感じながら、怖ず怖ずと辺りを見回す。


「お前は何者じゃ」


どこから聞こえてくるのか分からず、声の主を探して視線を彷徨わせる。

そして、私は思わず目を見開いた。

——目の前の人形が、ぱちりと瞳を開き、

じっとこちらを見つめていたのだ。


「吾輩の問いに答えられんのか」


私は返答に詰まった。

自分が何者なのか。

まさに今、それを知るためにこうして手がかりを探している最中なのだから。

困惑しながらも、私はこれまでの事情を人形へ説明した。


「なるほどのぅ。

お前サンは、己が何者かすら思い出せぬ木偶(でく)(ぼう)ということか」


……少々、言い過ぎではないだろうか。

そう思わなくもなかったが、今の私には他に頼れる手がかりもない。

仕方なく、そのまま人形の話に耳を傾けることにした。


まず、この人形の名は《ゆきだるまサン》というらしい。


表側の愛らしい姿とは裏腹に、実に相反した奇妙な名前である。

率直に言って、変だ。


そして、ここは《魔界》。

さらに、“彼”は《中途半端な悪魔》なのだという。


なんにせよ、話を聞いたところで、今ひとつ要領を得なかった。

ついでに、自分のことについても尋ねてみたのだが。


「吾輩がお主のような脆弱な人間を知っておるわけがなかろうッッッ!」


ふんっ、と鼻を鳴らしながら、ゆきだるまサンは言い放った。

どうやら、筋金入りの人間嫌いらしい。

それ以上のことを尋ねても、ゆきだるまサンが答えてくれることはなかった。


私は気を取り直し、再び部屋の探索を続けることにした。


しかし、この部屋にはピアノ以外、これといって目ぼしいものは見当たらなかった。


「はぁ……」


ふいにため息がこぼれ落ち、その場にへたり込む。

何気なく顔を上げた、その時——

譜面台の上に置かれた黄金色の本が、月明かりを受けて静かに輝いていた。


不思議と心を惹かれた私は、その本をそっと手に取り、中を確かめてみることにした。


━━━━━━━━━━━━━━━


○月○日 十三夜


満月の夜、僕は運命の相手に出会った。

お互い、導かれるように強く惹かれ合い、

×××とは深く愛し合った。


そう。

愛し合っていた……はず。


ただ、ひとつだけ問題があった。

僕には、政略によって契りを交わした婚約者がいたことだ。

けれど、彼女は僕のことを「心」から愛していたように思う。


そう。

愛されていたはず……。


━━━━━━━━━━━━━━━


私は、静かに(ページ)(めく)った。


━━━━━━━━━━━━━━━


○月○日 十六夜


君に、運命の相手の存在を告げた。

君はひどく青ざめながらも、それでもなお、僕を祝福してくれた。


その表情に、形容し難い愉悦を覚えた。

生まれて初めて抱くはずの感情なのに、

なぜかどこか懐かしく、胸の奥が甘く高揚していく。


その美しい顔を歪めてくれたおかげで、

僕はまだ、君に愛されているのだと実感することができた。


とても、いい日だ。


━━━━━━━━━━━━━━━


気持ち悪い。

そう思わずにはいられなかった。

言いようのない不快感が、胸の奥にじわりと広がっていく。

ところどころ、読めない頁や文字がある。

それでも私は、判読できる部分を追い続けることにした。


━━━━━━━━━━━━━━━


○月○日 下弦の月


おかしい。

君に——愛されているはずなのに。


いつも、何かが引っかかる。

やはり、何かがおかしい。


()()()()()()ではない。

けれど、君は。

君だけは。


僕を愛していてくれなければならない。


僕の記憶の片隅にある、

心の奥底に沈殿する一点の黒い闇。


︎︎ ︎︎ 「君が心から愛しているのは、

果たして本当に僕なのだろうか」


━━━━━━━━━━━━━━━


運命の相手とやらがいるのに、この日記の持ち主は一体何がしたいのだろうか。

再び頁を捲った。


━━━━━━━━━━━━━━━


○月○日 晦


元々、違和感はあった。


知らない思い出。

知らない約束。

知らない君。


もしかして、誰か別の……。


まさか。

本当は、いつも君の隣にいる×××……。


いや。

そんなはずはない。


君は、僕を愛しているんだ。


━━━━━━━━━━━━━━━


……静かに、頁を捲った。


━━━━━━━━━━━━━━━


○月○日 新月


君が心から愛する者は……×××だった。


——僕じゃない。


どうやら、違ったらしい。

裏切られた。

そう思った瞬間、×××の×××が鮮明に蘇った。


君が僕に向ける感情が、たとえ負の感情だったとしても構わない。


ただ、僕を見て。

僕だけを想い続けてくれれば、それでよかったのに。


……残念だ。


なら、()()も。

もう終わりにしようと思う。


━━━━━━━━━━━━━━━


……だいぶ読みにくいが最後の頁を開いた。


━━━━━━━━━━━━━━━


○月○日 満月


君には……

僕の元で、永遠に眠ってもらうことにした。


紅く滴るようなドレスは、

君の美しさをよりいっそう引き立てていた。

とても、きれいだ。


これで君は、()()僕だけのもの。


このまま君が僕に縛られ、

たとえそれが踠き苦しむ呪いのようなものであったとしても。


次に目覚めた時、

再び僕のことを想い、深く愛し続けてくれれば、それでいい。

それだけで、僕は幸せだ。


だって僕たちは……

運命の鎖で永遠に繋がれているのだから————


また×××で会おう。


おやすみなさい。



666回目の×××は失敗。

次の×××に期待しよう。


━━━━━━━━━━━━━━━


全くもって、よく分からなかった。


運命の相手がいるというのに、

「君は僕を愛さなければならない」とはどういうことなのだろう。


彼は、果たして誰を愛していたのだろう。


それに。

この日記の“僕”の運命の相手は、結局どうなってしまったのだろう。

色々と、気になる。


すると。

ガチャリ、と扉の開く音が響いた。

絵に描いたようにあたふたとしていると、


「おや。君が部屋の外に出るなんて珍しい」


“彼”だった。

怒られるかと思ったが、どうやらその様子はない。


“彼”は私の手にある日記へ目を向けると、何かを考え込むように黙り込んだ。

……申し訳ないが、そのフォルムでは何を考えているのか、まったく読めない。


「その日記……」


そこでようやく、私は他人の日記を勝手に読んでしまったことに気づき、今さらながら反省した。


「とても不快だろう?」


思ってもみなかった言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げそうになる。


「意気地なしで、みっともない男だろう」


「……はい」


思わず、素直に頷いてしまった。

すると、“彼”は「そうだろう。そうだろう」

と静かに頷いた。


それ以上は何も言わず、“彼”はピアノの前へ歩み寄り、何やら準備を始める。


気づけば、いつの間にかゆきだるまサンを手渡されていた。

私はそれをぎゅっと抱きしめる。

先ほどまで「触るでない」と騒いでいたというのに、今はやけに大人しく感じられた。


“彼”はそっと椅子に腰掛けると、静かに鍵盤へ指を置いた。


次の瞬間、澄んだ音色が部屋いっぱいに広がっていく。

とても美しい旋律だった。

まるで音そのものが、軽やかに踊っているかのようだ。


聞いたこともない。

知っているはずもない曲。


それなのに、なぜだろう。

どうしようもなく懐かしい。


繊細で優しく、それでいてどこか哀愁を帯びた旋律。

気づけば、無意識のうちに涙が頬を伝っていた。


そして、一つだけ分かったことがある。

——もしかすると、“彼”は悪い悪魔ではないのかもしれない。


今は、それが分かっただけで十分だった。


ここまでご覧いただき、ありがとうございます。

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