心してゆるす
静寂の中、私たちはようやく向かい合った。
彼は私の前で、力なく項垂れている。
無理もないことだ。
今日、私がどんな思いでここに来たのか、その重みを誰よりも理解しているのは、他ならぬ彼自身なのだから。
「もう、責めるつもりはありません」
第一声、私はできる限り穏やかに語りかけた。
再び、不自然なほど深い沈黙が、二人の間に横たわる。
このような場合、言葉というのは簡単に出てこないものらしい。
私の妻が自ら命を絶ってから、どれほどの年月が流れただろう。
彼が妻の心を容赦なく踏みにじり、あのような暗く冷たい絶望へ追いやったのだと知ったとき、私の中でどす黒い炎が燃え上がった。
彼女は優しい人だった。ゆえに、脆かった。
彼の身勝手な振る舞いや、言葉の刃をすべて抱え込み、誰にも助けを求めることができないまま、ひっそりとこの世から去ることを選んだのである。
社会は誰も彼を裁かなかった。
確たる証拠がないからと。
なるほど、それなりの地位に登り詰めた人は、世間での立ち回りもお手の物らしい。
周囲の人はみな、妻がその性格ゆえ、孤独に思い悩んで首をくくったのだろうと、神妙な顔で語った。
私に残されたのは、行き場のない怒りだった。
夜ごとの嗚咽、胸を掻きむしりたくなる喪失感。
それらはやがて、涼しい顔をして生きる彼への純粋な憎悪に変わった。
あなたを呪い、彼女が味わったのと同じ、いやそれ以上の苦しみを与えてやろうと、どれほど凄惨な報復を夢想したか知れない。
私は呼吸を深め、気持ちを落ち着けた。
彼が微かに揺れたように見えた。
私の一挙手一投足が、少しずつ彼の良心に突き刺さっているのだろう。
「人を憎むということは、恐ろしいことです」
私は慎重に言葉を継いだ。
「憎悪は、他ならぬ自分自身の魂を削り、腐らせていく。あなたを憎んでいる間、私はまるで暗闇の底をのたうち回る亡霊のようでした。妻の死を悼むことすら忘れ、ただあなたへの復讐心を酸素に呼吸をしていた。けれど、ある時ふと気付いたのです。私のそんな生き方を、彼女は望んでいないのだと」
彼はもう弁明すらしようとしない。
じっと黙り込んだまま、わずかに震えている。
その痛々しいまでの姿を見て、私は自分の決断が正しかったと思った。
彼の沈黙は、今まさに後悔の念に押し潰されそうになっている証なのだ。
「憎しみの連鎖は、どこかで終わらせなければならない。誰かが鎖を手放さなければ、誰も救われないのです。だから、私はあなたを赦すことにしました。心の底から」
その言葉を口にした直後。
ふっと、長年私を縛り付けていた重りが解け落ちたような気がした。憑き物が落ちたとは、まさにこういうことを言うのだろう。
体内で渦巻いていた腐臭が消え、肺の奥まで新しい空気が入ってくる。
少し前までの私なら、悪人を赦すなど絶対に無理だと考えていた。
悪は罰さなければならない。
しかし、人を赦すという行為は、これほどまでに尊く、何より自分自身を救済するものだったのだ。
私の心は、かつて味わったことないほどの静寂と安らぎに満ちていた。
「もう、お互いに自由です。あなたがこれ以上、罪悪感に苦しむ必要はありません。私もまた、前を向いて歩いていきます」
私はゆっくりと立ち上がり、彼に背を向けた。
足取りは驚くほど軽く、まるで生まれ変わったかのような心地だった。
すべて、終わった。
私は今日、つらい過去を乗り越えたのだ。
部屋を立ち去る前、私は最後にもう一度だけ振り返った。
彼もまた、全てのしがらみから解放されたかのように、宙に浮き、ゆらゆらと揺れていた。




