妄走先
男の毎日はひどく単調で、着実に心を蝕むような苦痛を伴っていた。
生きるためだけの食事、息の詰まる満員電車、希望を見出せない数字の入力と、融通の利かない機械的な指示。
気持ちがすり減るばかりの現実は、この男にとって直視できるものではなかった。
だから彼は、脳内に秘密の避難場所を作った。
最初は空を飛ぶ、無人島で過ごすといった簡単で都合のいい白昼夢を見ていた。
だが、そのせいで現実が余計に苦痛となって、空想の世界をより精巧なものへ変えてしまう。
緑豊かな無重力の浮遊島、心地よい音楽が流れる灰色の都市、白と黒の幾何学模様が続く部屋、波が穏やかで温かい海。
いつしか、想像の世界は百を超えていた。世界はそれぞれが独立し、彼が思い立てば、いつでも好きな場所に生き来することができた。
上司に罵倒されている最中も、意識の八割は静寂の都市にあり、人類の文明跡を観光して回る。
他人の苛立ちが飽和する電車内では、温かい水中を優雅に泳いで、色とりどりの魚たちと冒険に明け暮れる。
彼はこれを、逃避ではなく移動と呼んだ。肉体を現実に残し、意識だけを別へ移す。それは、近所のコンビニへふらっと向かうくらいの、日常的な行為だったのだ。
移動を繰り返すうち、彼は空想内の世界と世界の間に道を繋ぐ方法を身に着けた。青く光る海底の洞窟に入れば、次の瞬間には、全く関係ないはずの大空を舞っているという、切り替えの技術である。
おかげで、現実で過ごす一秒の間に、数十もの世界を巡ることが可能となった。
脳内は、無数の世界が互いにトンネルで結ばれた迷宮となり、世界を増やすたび、彼は意識の奥底へ深く潜っていく快感を知った。
そんなある日、果実が熟すように、彼を現実に繋ぎ止めていた細い糸が、音を立てて千切れた。
ひどい事件に巻き込まれたわけではない。いつものように頭の痛いことが起きただけだ。
電車に乗り、叱責され、ため息をついた。たったそれだけのことであるが、彼の中に溜まっていた鬱憤が、現実の世界に見切りをつけたのだ。
アパートへ帰宅した男は、靴も脱がずに自室のベッドへ倒れ込んだ。これからのことを思えば、床の汚れなど、もはやどうでもよいのである。
そして、目を閉じるとともに意識を自由にする。
普段なら尿意や空腹、目覚まし時計といった現実の重りが、彼を引き戻す。
けれどその夜、彼は全てを手放した。
これまで構築したどの世界よりも深く、より良い理想が支配する空間。そこへ至るため、絡み合うトンネルをいくつも抜け、奥へ奥へと一心に進んだ。
男は二度と目を覚まさなかった。
数日後、無断欠勤を不審に思った上司の通報により、自宅で倒れている男が発見された。
呼吸も脈拍も正常で、点滴で栄養を補えば内臓機能も回復した。
しかし、どんなに刺激を与えても、意識だけが一向に戻らない。植物状態とも脳死とも異なり、脳波計は微弱ながら規則的な波形を描いていた。
外部に一切反応しない奇妙な状態に、医療機関は特殊チームを編成し、最新鋭の技術で脳のスキャンを行った。
画像が出力された時、全員が言葉を失う。
男の脳には、小さな『穴』が無数に空いていたのだ。大脳皮質から中心に至るまで、穴が網の目のように張り巡らされている。
壊死や萎縮、出血の跡もない。
あたかも生まれつき存在したかのような、滑らかなトンネルだった。
さらに奇妙なことに、それらのトンネルはすべて、脳の最深部、ぽっかりと開いた球状の空洞へ収束していたのである。
モニターに映し出された網目状の構造を見て、チームの一人がうわ言のように呟いた。
「まるでアリやハチの巣のようだ」
その発言は本質をよく突いていた。
男は自身の脳組織を消失させながら、頭の中に居場所を構築していたのである。
想像の世界を創るたびに空間が生まれ、世界を繋ぐ移動経路もまた、シナプスを無効にしてトンネルを掘った。
妄想という精神活動が、肉体という器を直接的に食い破っていたのである。
男は、今も健康に生きている。
ベッドで呼吸器に繋がれ、定期的に寝返りを打たされながら、ただじっとそこにある。
だが、あの無数の穴の奥、中心に穿たれた空洞の中で、男が今どのような世界を見ているのか。あるいは、何も見ていないのか。それは誰にもわからない。
ただ、今にも目を覚ましそうな血色のいい顔が、空想の世界の豊かさをありのまま示していた。




