模範解凍
微かな振動と共に、視界を覆っていた霜が溶け落ちていく。
肺になだれ込む空気はひどく冷たくて、わずかにオゾンのような匂いがした。
「おはようございます。バイタル、脳波、細胞組織の活性度、すべて基準値内。懸念されていた凍傷も見られません」
頭の中に響くクリアな音声。
固く結んでいたまぶたを開けると、淡いブルーの照明が網膜を突き刺した。続けて、体を包んでいたゲル状の保護液が、足元の排出口へゴポゴポと吸い込まれていく。
試しに指先を動かしてみる。関節の軋みはあるが、この程度ならじきに馴れるだろう。
首を回すと、頸椎が渇いた音を立てた。
どうやら、無事に覚醒できたらしい。
ハッチがスライドして開き、室内の空気が流れ込んでくる。まだ嗅覚が目覚めていないせいか、古い和室のような、どこか懐かしい香りがした。
私はそばの手すりを掴み、ゆっくりと身を起こす。
長い眠りで筋肉は幾分か衰えているようだが、自力で立つ分には問題なさそうだ。
「本日は晴天。外の気温は摂氏二十二度に保たれています」
案内の音声に続いて、部屋の壁面パネルが一斉に透化し、外の景色が眼前に広がった。
思わず、手すりを握る手に力が入る。
そこには、見渡す限りの摩天楼がそびえ立っていた。ガラスと鋼鉄、そして未知の素材で構成された流線型の建物群が、太陽を反射してキラキラと輝いている。
何より関心を引いたのは、その高層ビルの間をビュンビュンと駆け抜けていく光の帯。
紛れもなく、タイヤを持たない車が空を飛んでいる。
子どもの頃、SF雑誌の挿絵で見た景色が、そっくりそのままあった。
推進器から青い光の尾を引きながら、何百、何千という車体が空を行き交う、まるで映画の中のような光景。
「現在地は第三十一番居住区。西暦で換算しますと、あなたが眠りに就いてから、およそ三百年の時間が経過しています」
見えない案内役が、滑らかな口調で告げる。
私はよろよろと前へ歩み出て、冷たい窓ガラスに額を押し付けた。
すると、すぐ目の前を、つややかな赤い車体が横切っていく。風を裂くかすかな走行音が、ガラス越しにも伝わってきた。
見ろ、あの滑らかなコーナリング!
なんて無駄のない軌道!
たまらない。何もかもが、思い描いていた未来そのものだ。
「素晴らしい」
ひび割れた声が出た。喉が酷く渇いているが、もはや些細なこと。
「ええ、素晴らしい時代です。疾病の約九割は克服され、人の労働も多くが自動化されました。社会が頭を悩ませていたエネルギー問題も過去のものです」
私は深く頷いた。
馬鹿げたギャンブルだと笑った友人たちの顔が脳裏をよぎる。彼らは何も知らず、とっくに土の下で眠っていることだろう。
未来へ行くという夢を追った私だけが、空飛ぶ車が行き交うユートピアに辿り着いたのだ。
あの冷たいカプセルに入るため、人生のほとんどの時間を金策に費やした甲斐があった。
私は窓にへばりつき、颯爽と飛んでいく車の群れをいつまでも眺める。
本当に、子供の心に戻った気分だ。
いずれ私も、あれに乗れるだろうか。
いやその前に、冷凍保存から目覚めたことを世間に発表すべきだろう。すでにコールドスリープなど当たり前の技術かもしれないが、まあそれも過去人なりの滑稽さがあって面白いじゃないか。
とにかく、この景色を肴にすれば、かつて飲んでいた安酒でも最高級ワインに早変わりするだろう。
「それでは最後に一つ、確認をお願いいたします」
唐突に、視界の中央に半透明の四角いウィンドウが浮かび上がった。まばたきをしてもそれは消えないため、どうやらウィンドウは目の中にあるらしい。
空飛ぶ車の群れから目を離し、私は視線の先に表示される文字に焦点を合わせた。投影された文字は、明朝体によく似た、ひどく事務的なフォントである。
『本映像は、細胞解凍プロセスの致命的なエラーにより、蘇生が不可能と判断されたお客様へ提供される、せめてものお詫びプログラムです』
文字列の端で、緑色のゲージが表示されていることに気が付いた。
それは砂時計の砂が落ちるよりも早く、みるみると幅を減少させていく。
『お客様の脳内シナプスから抽出した「最も望ましい未来像」をベースに構築された仮想現実はいかがでしたでしょうか。弊社の手違いにより、お客様の肉体は現在、修復不能な細胞壊死の段階に入っておりますが、このプログラムを通じ、少しでも穏やかな最期を迎えられましたら幸いです』
私は理解したくないあまり、反射的にウィンドウをかき消そうと目をこするが、それは落ちないシミのように付きまとった。
『なお、本サービスは特別補償枠として適用されるため、ご遺族様への追加請求は発生いたしません。ご安心くださいませ』
私が読み終えると同時に文章は消えた。夢の景色だけは、まだそこにある。
「ご満足いただけましたか」
問いかけてくる音声は、相変わらず淀みなく機械的な親愛に満ちていた。
そこで、もう一つ気が付いた。
この案内音声も、いやにハッキリ聞こえると思ったが、部屋ではなく、私の頭の中で響いているものだったのだ。
視界の端で光るタイムリミットゲージが、残りわずかを示す赤色へ変わる。
窓の外では、見事なフォルムの銀色の車が、綺麗な弧を描いて空の彼方へ消えていくところだった。
口の中の渇きが、急速にひどい冷たさへ変わっていく。声を出そうとしたが、喉はもう動かなかった。
ああ、せっかく未来へ来たのというのに、あの安酒の味が恋しい。
せめて今は、遠ざかっていく憧れの青い光を、一秒でも長く見つめていよう。




