~ 僕の長いお休み ➁ ~
~ 僕の長いお休み ➁ ~
田舎の夏はセミの鳴き声がうるさい……
8月にもなると暑さも厳しくなりセミの大合唱が一際、大きくなる時期である。
だが、この鳴き声が夏本番が来たという事を実感を感じさせ、同時に今が暑さのピークであるという事も教えてくれるのである……
そして、当然であるが平日は母は仕事、絵梨香は夏休み中も部活で学校である。
ここまで暑いと流石の父も日中は鍜治場には入らずに他の事をしている。
なので、昼間から僕が気兼ねなくバイオリンの練習をするようになると、何故か今年の我が家だけに秋が訪れたかのように庭の木からセミの鳴き声が消えた。
練習を始めて早2ヶ月以上が過ぎ……なんとか"ドレミファソラシド"の音階らしきものが出せるようなってきていた。
目下の僕の目標は"きらきら星"を下手なりにでも弾けるようになることである。
そんな、8月の初めの週の金曜日の午後6時過ぎ……
僕は夕食の準備をしていると部活から帰ってきていた絵梨香が風呂から上がってくる。
相変わらずパンツ一丁で肩からバスタオルを掛けただけの姿である。
僕はもう諦めているので絵梨香の姿を気に留めることも無い。
絵梨香は食器棚からガラスコップを取り出すと冷蔵庫の中の麦茶を注ぎ一気飲みし一息つくとソファーに座る。
「兄さん……今日の夕食は何……」
タオルで頭をシャカシャカと拭きながら訪ねてくる。
「今日は暑いからな……」
「素麵と天婦羅にするつもりだ」
「天婦羅のネタは鱚と小エビと烏賊……」
「それに、茄子と獅子唐……薩摩芋と蓮根だ」
僕が天婦羅のネタを言うと絵梨香がニッコリと笑う。
何故なら、絵梨香は薩摩芋の天婦羅が大好物なのである。
「薩摩芋の天婦羅……いいわねぇ」
「ところで……母さんは、いつ帰ってくるの」
絵梨香が問いかけてくる
「母さんは明日の夕方ぐらいになるとメールが来てた」
「日曜と月曜日が休みになるようだ」
僕が答えると絵梨香がソファーの横に置かれているドライヤーで髪の毛を乾かし始める。
絵梨香は髪の毛が長いので夏場は昔から更衣室ではなくエアコンの効いたリビングでソファーに座ってゆっくりと髪の毛を乾かすのである。
暫くすると父がリビングに入ってくる。
「おお……絵梨香、帰ってたのか……」
父はソファーに座って髪の毛を乾かしている絵梨香の方を見て言う
「ワシも風呂に入ってくる」
そう言うとパンツ一丁の絵梨香を気にすることも無くリビングを出て行く。
昔から、絵梨香はこの調子なので父も全く気にも留めていないのである。
ある意味、全く年頃の女として扱われていないのであるが本人は全く気にしていないというより気付いてもいないようである。
髪の毛を乾かし終わるとTシャツ(当然ノーブラ)に短パン姿になる。
「ねぇ、兄さん、来週の話なんだけど……」
「イベントは8月12日~15日までなんだけど……」
絵梨香はそう言うと媚びを売るかのような眼差しで僕の方を見る。
「ああ……分かっている」
「電車の指定席もとってあるし……」
「12日と13日の2日間でホテルの方も近場を押さえてある」
僕がそう言うと絵梨香は嬉しそうな表情になる。
コミケは4日間の日程で開催されるのだが、女性向けは12日と13日の2日間であり残りの14日と15日の2日間は男性向けなのである。
因みに、12日は女性向けアニメ物の日であり13日は女性向けゲーム物の日に分けられている。
この日程のおかげで14日には自宅に帰れるので、父の母方の御先祖様の墓参りはいく事が出来き罰当たりな事はしなくて済むのである。
父の実家の方には行ったことが一度もないし、母の方にはそんな習慣すらない。
「ありがとう……兄さん……」
「1つ頼み事があるんだけど……いいかな……」
そう言うと絵梨香は少し言い難そうに僕の様子を窺っている。
僕には何となく絵梨香の頼み事が分かる。
「例の買い物の事だろう……」
僕がそう言うと絵梨香は首を横に振る。
僕は予想が外れてホッとすると同時にとてつもなく嫌な予感がする。
「なんだ……その……頼み事ってのは……」
僕は恐る恐る絵梨香に尋ねる。
「あの……じつは……その……」
絵梨香は言い難そうにしている。
「何だ……僕に出来る事なら協力するぞ……」
僕は絵梨香に話すように促すと……
「兄さん……8月13日の1日だけ……私と一緒に……」
「サークル参加でコスプレして同人誌の売り子して欲しいのっ! 」
絵梨香の言葉に僕の頭の中は一瞬で真っ白になり固まってしまう。
「へっ……今何と……言った……」
僕は何かの聞き間違いだと思い問い直す。
「だっだから……コスプレして同人誌の売り子して欲しいの」
「お願いっ! 兄さんっ!! 」
絵里香はそう言うと僕に向かって両手を合わせる。
「ちょっと待て……絵梨香……」
「どうして、そんな事になるんだ……」
我に返った僕は冷静になり絵梨香に事の経緯を尋ねると……
絵梨香のオタ友の2人は予てからサークル活動に参加していて本格的な同人誌を毎回発行しており、この夏もコミケットに参加して販売する予定でサークル参加も決まっていたのだが……
2人ともその日に用事が出来てしまい、どうしても参加できなくなってしまったので代理の人を探してあったのらしいが……
(絵梨香のコスチュームを作ってくれたオタ友)
昨日の夜に、その代理の2人から怪しい病(コ〇ナ)に罹患してしまい参加できなくなってしまったと連絡があり……。
それで急遽、絵梨香に"代理でサークル参加してくれないか"とつい先ほど電話で直接、頼み込んできたそうだ。
絵梨香の話を聞いた僕は一呼吸して心を落ち着かせ冷静さを取り戻すと絵梨香に話しかける。
「絵梨香……2つほど質問していいか」
僕がそう言うと絵梨香は小さく頷く
「そのサークルの同人誌と言うは……」
「その……例の女子向けの"薄い本"とやらなのか……」
僕の1つ目の質問に絵梨香は視線を逸らすと小さく頷く。
「そのサークルに男はいるのか……」
僕の2つ目の質問に絵梨香は視線を逸らしたままで少し躊躇うと首を横に振った。
「全員……女子なんだな……」
僕がそう言うと絵梨香は小さく頷く。
「流石にそれはハードルが高すぎる……」
「悪いが他を当ってくれないか……」
僕は心を落ち着かせ冷静に答える。
「そこを何とか……」
「それにね……サークル参加だと……」
「直接、会場に入れるのよ」
「あの"炎天下"で長蛇の列に並ばなくていいのっ! 」
絵梨香の言葉に僕は一瞬だがピクリと反応してしまう。
そんな僕の素振りを絵梨香が見逃すはずがなかった。
「絵梨香……自分の買い物はどうするんだ……」
僕が買い物の事を尋ねると絵梨香はニヤリと笑う
「大丈夫よ、兄さん……」
「それに関しては……心配ないわ……」
「ただし、"サークル参加"すればの話だけど……」
絵梨香の言葉に僕の貧乏性の脳味噌は無意識のうちに"薄い本"を買わなくて済むのとコスプレして売り子するのとどちらが得なのかという虚しい計算をしてしまう。
"この前みたいに変装して"不審者"扱いされたり……"
"周りの女子の堪えがたい視線に晒されないのなら……"
"それに、あの列に並ばなくても済むし……"
"コスプレして売りする方が……お得か……"
僕の脳細胞は究極の損得換算のために高速演算を繰り返して、1つの大きな懸念事項と最終結論をはじき出す。
「分かった……売り子を手伝うよ」
僕が売り子を手伝う事を了承すると絵梨香は嬉しそうに笑う。
「ただ……1つだけ、どうしても聞きたい事がある」
「この返答によっては、この話はご破算だ……いいな」
僕が真剣な表情で言うと絵梨香の顔から笑みが消えて不安そうな表情になる
「あの……なんだ……」
「僕も"Tバック"を穿かないといけないのか」
僕の質問に絵梨香の表情が固まる。
「ぶっ! はっはっはっ!! 」
絵梨香は堪え切れずに大笑いする。
「大丈夫だよっ! 兄さんのはコスはそんなのじゃないから」
「明日、午前中に"アッちゃん"家に来てくれるの」
「コスのサイズ合わせよ……」
絵梨香はそう言うとゆっくりと僕を頭の天辺から爪先まで見る。
「兄さん……"アッちゃん"と体型も背丈もそんなに変わらないから……」
「そのままで全く問題なく着れると思うよ」
そう言うと絵梨香はニッコリと笑う……その純粋な笑顔は僕の心にある大きな古傷を更に広げるのであった。
「えっ……明日って……いつ連絡したんだ……」
「絵梨香……お前、初めから……」
僕は絵梨香の方に疑惑の視線を向けると"ヤバッ"と言う表情になり僕から視線を逸らす。
初めから僕の思考と行動パターンを完全に見透かしていた絵梨香の女としての狡賢さに感心すると同時に自分のこの性格が悲しく思えるのであった。
父が風呂から上がってくるとね3人で素麵を啜りながら天婦羅を食べる。
絵梨香は上機嫌で薩摩芋の天婦羅を殆ど1人で食べてしまうのであった。
同人活動などしたことも無い僕は、いきなりコスプレして売り子をするというハードルの高い愚かな選択をしてしまうのであった。
~ 僕の長いお休み ➁ ~
終わり




