或いはそれは何かの目覚め
「とうさまぁっ、とうさまッ! おててつないでーっ! 」
ああ、夢だ。妾は夢を見ている。世界を知らず、世間を知らず、無知で素晴らしかった頃。夢だと一瞬で分かってしまう程、追い求めて失ってしまったもの。失うからこそ夢だと分かる。分かってしまう。
「アニェ。そんなにはしゃいでは転んでしまう」
父様は決して暇ではなかった。むしろ、物心ついた頃から家にいる時よりもいない時の方が遥かに長かった。額縁の上でしか見た事のない母様は美しく、柔らかそうにしている事以外分からない。だからこそ父様が一番身近で、世界の大部分を占めていた。
あまりに忙しい父様に、小さかった妾は駄々をこねた。家に乳母や使いの者はいたが、そんなものよりも父様と一緒にいたかった。気を引いて欲しいが故に真面目に勉強や鍛錬も頑張ったし、構って貰えるように困った事をしたりもした。
それでも、父様は厳しそうな表情を和らげて笑って許してくれた。この時だって、そんな習慣のひと時で手にしたお出かけだった。大好きで仕方がない父様と手をつないで引っ張って、これから行く先全てに胸を膨らませて。ごつごつとした豆だこばかりの父様の手を握っては嬉しくて笑っていた。
お忍びで入った町でいっぱい店を見て回った。全然似合わない帽子や服を着た父様に笑って、食べた事もないご飯を食べて、のどかな広場で走り回って、全てが幸せいっぱいで。これ以上は何もいらなかった。妾の世界。
偶然。それはきっと必然のようにも思える。妾達はたまたま出会ってしまった。いや、出会わない方が珍しかった。
「とうさま……あれ、なぁに? 」
それはいわゆる奴隷だった。みすぼらしい服装に、満足に食事を手にしていないやせぼった身体。精気を根こそぎ奪われた瞳。捕らえて逃げられないように結ばれた呪印の彫られた首輪。主人と思わしき者が満足についてこない奴隷に、鞭で折檻をしていた。
「あれは奴隷だよ。僕達が攻め込んで滅ぼした国の人だ」
「どれい? どうしておいぬさんでもないのに、首輪をつけてるの? どうして鞭でたたいてるの? そんなことしたらいたいよ? いたいことはしたらいけないってならったよ? 」
「……アニェ。君はまだ知らなくていい」
「あのひとないてるよ。いじめちゃだめだよ。とめなきゃ」
走り駆け寄ろうとする妾を、父様は腰を下ろして両肩に手を置いた。
「それが当たり前なんだよ、アニェ。あの人は僕たちに負けた。彼個人が負けたかは知りえないけど、負けた国の人だったんだ。だからしょうがないんだ。そうであるんだから」
「ひどい……」
そう答える妾に、父様は凛々しく整った表情を歪ませる。
「………。アニェ。どうか君はその気持ちを忘れないでくれ。僕は、僕はそれが出来なかった」
「とうさま……? どうしてそんなにかなしそうな顔をするの? 」
この時の妾はきづいておらなかったのじゃが、父様はきっと泣いておった。それを見せまいと懸命に笑って、妾を安心させようとしていた。
「大丈夫さ。なあに、他にもいっぱい面白い所はあるよ。さあアニェ、行こう」
ごつごつとした男っぽい手で引っ張られている筈なのに、その瞬間だけは何物にも言い難い気持ちじゃった。引き離される景色をいつまでも、いつまでも妾は見ていた。豆粒ほどの小ささになっても、いつまでもいつまでも。
思えばこの時からじゃった。妾が誰もが幸せになるべきじゃと唱え始めたのも。最初は同情から始まった。今も同情かもしれぬ。それでも父様は見守ってくれていた。けれど父様は妾と違って全てを憎み、全てを壊し、全てを奪っていった。妾に見せる表情とはまったく異なる父様は確かにいた。悪魔じゃと。強奪の魔王、外道の魔王、妾の知らぬ父様へ名付けられていた。
世界は生まれ変わる。否、これが幸せな夢である筈がない。あの頃を思い出すという事は、幸福であると同時に悪夢でもあるのだから。
時は過ぎて、妾は魔王の名を襲名出来る程成長していた。胸ばかりは一向に育たなかったが、努力していなかった訳ではない。そんな妾に伝わって来たのは二つの報告。朗報と、悲報だ。
「父様が、勇者を討たれた!? 」
「はい。……ですが、申し上げにくい事ですが。お父上である魔王様はかなりの重傷を」
「治療魔法は使えないの!? 」
「残念ながらかなり傷が深いらしく……」
「ッ」
駆け出していた。宰相の仕事を投げ出し、嫌に鳴る鼓動を抑えながら。
「父様、父様ぁっ! 」
豪華なベッド、というよりは治療行為がしやすいようにされた簡易的なベッドで父様は横になっていた。決して顔色が良いとは言い難く、異様なほどに白みを帯びている。まるで、化粧をしているかのようにも見えた。表面的には怪我は一切ないように見える。けれどそれは表面だけだ。魔法によって取り繕われているものの、治される前は目も当てられないほどの怪我をしていたのだろう。
妾が呼びかけたからか、開けられたドアの音が煩かったからかのかは分からないが。父様は閉じていた目を開いて、ゆっくりとこちらへと視線を向けた。
「父様……ッ」
嬉しかった。もしかしたら、と思っていたからこそ。
けれど、おかしかった。
「――クララ。ああ、もう迎えに来てくれたんだね」
「父様……? 」
それは、母様の名。陽気姫クララ・サリーの名前だった。
何故、今。
「死んだらキミが来てくれると思ってたよ。良かった」
「父様、何を言っているの……? 」
「もう二度と会えないと思っていたけれど、本当に、良かった……」
ポタリ、ぽたり。一度として見た事の無い涙がベッドにシミを作る。
父様の瞳は既に"わたし"を映してなんていない。"わたし"の姿に母様の姿を重ねている。
陽気姫である母様に似ている"わたし"に。
「ようやく、ようやく君の仇が取れたんだ。あれほど君は僕にそんな事をしないでって言ってたけれど」
「……」
「憎まず、恨まず。誰もが幸せになれる未来を君はいつまでも望んでいたね。……死ぬ直前になっても。でも、僕は駄目だった。そう仕向けたヤツらを許せなかった。君が思う程僕はできた人じゃなかったよ。その真反対になるような事ばかりしてしまった。きっとあの子の住みずらい世界になる。……それだけは、心残りだ、なぁ。魔王にならず、普通に、暮らしてくれれば」
「父様、わたしは……、私は気にしてなんていません。大丈夫です。私は魔王になる事を苦になんてしていません。むしろ誇らしく、必ず太平の世を成し遂げます。必ず」
きっと聞こえてなんかいない。もう既に父様の身体はボロボロで、チーズのように穴だらけになってしまっているのだろう。けれど、どうせ夢見心地でいるのなら、最後は幸せのままでいさせたかった。
届いたのかは分からないけれど。父様は最後に口元をほんの少し、見ていなければ気づかない程小さく笑みを描かせた。
「……アニェ、どうか、幸せに。愛しい僕たちの娘」
「はい。どうか安らかにお眠り下さい。父様。わたし……妾は、魔王の力を引き継ぐのじゃ。じゃから、どうか安心して」
妾は父様の手を握りながら、伝えた。途中でゆっくりと力が抜けていって、落ちていこうとするのを力強く掴んで。
「妾は魔王の名を継ぐ者。正当なる継承者。真なる者よ、どうか世に混乱と破滅をもたらす力を分け与えよ」
その呼びかけに意味はない。先代が死んでしまえば力は次代へと受け継がれる。けれども妾は宣言せずにいられなかった。少しでも父様の魂が留まっているうちに。
悲しんでなどおられなかった。魔王が死に勇者が死に、そうなれば即座に次代の者が生まれるか呼び出されるか。そのどちらかだ。そうなれば一刻も早く立て直し、攻め立てた者が優位に立つ。この状況すら武器にしなければならない。この感情すら武器にしなければならない。
だから、少しだけ泣いてしまう器の小さな妾を許して下さい。
―――嫌な夢じゃ。いやな、夢。追憶するだけの夢。覚悟を思い出させるだけの夢。
「馬鹿な、馬鹿なああああッ! 『ハーミット、ハーミット、ハーミットォオオオオッ! 』」
スクラダの得意とする植物があの男を閉じ込める。焼き斬ろうとするには苦労するほどの厚みを持った植物は円状にひしめき合っていた。
けれど彼は意図も容易く斬り伏せ出て来る。禍々しい植物達を柔らかなステーキにナイフを入れる様に。
「一度出した技は二度通じるわけねえだろ。ましてやそれが魔法だっていうんなら猶更な」
「ふざけないでくださいッ。魔法が二度通じないですって!? 包囲された魔法が力量だけで吹き飛ばされるなどと、ありえるわけがないッ」
その間にもスクラダは細かな『ハーミット』を彼へと差し向け、後ろから前方から真横から迫った物を見る事すらなく壊す。壊す。壊す。斬られ落ちても再生しては彼を追いかける。
彼は近くにあった木々へと飛び移り、太い幹を盾のように使い捨てては斬り捨てていった。植物が植物に向かって攻撃しているかのようにも見えるその姿は不可思議な物を作り出していた。
遂にはスクラダの疲労によって追撃は一旦停止する。その折を見て彼は飛び降りて来る。
「俺には初見以外通用しねえよ。応用しようがなにしようがな」
「そ、そんな話があってたまるかぁっ! 」
「『天上天下』。このスキルは見た物を全てを盗み出して、全てを奪い取る力。お前が俺を倒すには初見一撃必殺で倒すしかないんだよ」
「『ガントレットパープル』!! 」
彼が話している最中に、スクラダは魔法を唱え攻撃する。スクラダの背後から現れた気味の悪い植物が、何かを吐き出し高速で撃ち出される。妾ですら目で追うのがやっとの速度で向かった小さな物を、彼は意に介していないといわんばかりに全てを落とす。戦場でよく耳にする甲高い金属音が五回響き渡り、接触した場所から火花が飛び散っていた。
「説明してる最中に攻撃する奴、俺以外にいたんだな。それにしてもその植物銃弾みてえに高速で撃ち出せるみたいだけどよ、どっからそういう発想得てるんだ? 魔法を使うからには元となった想像の余地ある事象があるはずなんだが。こっちの世界には銃でもあるのか? 」
にやにやと隠し切れない笑みを浮かべる彼に、スクラダは追撃の手を緩めない。或いは、もうそれを思考するほどの落ち着きを失っているのかもしれなかったが。
「う、嘘だ。嘘だ、嘘だぁあああッ。『ラフレシアァぁぁあああッ』!! 」
地面に一輪の花が咲き誇る。それは瞬きするよりも早く分裂して生え、一斉につられるようにして咲き散らす。可憐だとか綺麗だとかと思う暇も無く、有り得ない増え方に生理的な嫌悪が先立つ。
「今度は何だ? ………あ、ああ。そういう、ことか」
強烈な甘い匂いが薫ると同時に、彼はその場で地面へと倒れ込む。その姿を見てスクラダは歓喜の表情を浮かべた。
「ふ、ふははははッ! この花には強力な睡魔を引き寄せる匂いがあるんですよ! いくらあなたが強く……とも」
けれどその天下は一瞬にして奪われる。彼は何事も無かったように、少し気だるげに昼寝をしたかのように起き上がって来た。
「俺が一瞬眠らされるなんて、やるなあ。うん、今のは初見殺しくさかった」
「な、ど、なんで……? 」
「ごめんな。俺色んな呪いとか加護にかかってるせいで、こういう状態異常系はあんまり効かねえんだ。風邪とか自分の中からやる奴はどうもそれには不随しないみたいだけどな。不便なんだぜこれ。サキュバスのお姉さんの『魅了』とかにもかかりずらいしな」
理不尽。その言葉が似合う。
不治の病や天変地異や、神の御業に近い不条理。勝負に、否、一方的な虐めにしかなっていなかった。
その事実に気づいたスクラダは端麗な顔を、粘土細工のように歪ませる。
「まけ、負ける。私が、この私が……? ゆる、許さ、ゆるされる訳が無いっ。私は五帝の一人なんだッ! お前みたいな人間に負けるべき才能ではないのだッ!! そうだ。そうとも、私は、最強なのだから」
『助けてやる。俺の全てを以て、俺の全てに賭けて』
………。
安い言葉じゃった。安い男の安い三文芝居。小さな頃父様に読んでもらったお伽噺に出て来るような、不出来な御話。
あの時妾は確かに死ぬ訳にはいかなかった。何者に変えても生きる必要があった。だからこそなりきった。
じゃが、あの男は妾のそれを演技じゃと言った。媚びへつらうなら全てを投げ出せと。そして何を想ったか妾の契約の魔法を結んだ。隷従を意味するそれは主人の命令には絶対服従を意味している。事実上の奴隷宣言にも等しい。
……でも、何故か"わたし"はそれを命令する気にはならない。意志を縛り行動を縛る事が出来る筈なのに。"わたし"はそれをやらない。
なんでだろう。何故じゃろう。ただ、軽口を叩き合えたのは父様以来で、懐かしいからなのからだろうか。そうなのじゃろうか。
きっと、心地良いからなのかもしれない。
ああ、本当に嫌な夢じゃ。




