祈りの歌
負け戦を終わらせる為に、俺は最後の一戦に打って出た。
一騎だけの出陣だった。
我も我もと勇む部下の戦士たちを退けて、俺はダレンの操るチャリオットに乗り込む。一族の者を無意味に死なせるつもりは無かった。もう負けたのだから。
眼前、横一線に広がる騎馬とチャリオットの群れを睥睨する。
無数の目が俺の動向を注視している、そう思うと口の端が上がった。
ダレンの肩を叩き合図を送り、降伏を宣言させた。
「火の塚の民は全て投降する! これから戦の終止符を打つ! 了解されたし!」
負けた側の言葉とは思えぬ口ぶりで高らかに叫ぶダレンに、ますます俺の笑みは膨らむ。
そして身を大きく乗り出して叫んだ。
「俺が火の塚の大黒熊、グエンだ! さあ、この首を取るのは誰だ! ただでくれてやるわけにはいかん。大熊の爪と牙にかかる覚悟で来い! 勇者を名乗る気概のあるものはどこにいる?!」
高笑い、敵の戦士を煽った。
剣を振りかざし怒号を上げて、ざわめく大群の中へと突き進んでいった。
すると、背後に何頭もの馬の嘶きと車輪の音を聞こえてくる。命令を聞かずに飛び出してきた馬鹿者がいるらしい。あれほど付いて来るなと言ったのにと苦笑した。
僅かな味方と無数の敵。
がむしゃらに剣を振るい敵の首を幾多も刈るが、次々湧いて出る敵の前に味方は一瞬のうちに数を減らした。
乱戦の中で十の首を取ったかという頃、俺は屈強な戦士の一太刀で地面に叩きつけられた。その上を敵のチャリオットが無慈悲に走り抜けていく。俺の足は粉々に潰されていた。
直に俺の首は、上位王の長槍の先を飾ることになるだろう。
さて、どんな顔で死んでやろうかと、俺は嗤う。
やっと終わったかと思う。
恐ろしくはなかった。死を前にして感じるのは虚しさだった。自分は生きている間に何かを成せたか。何かを得たか。
何もない。
愚かな男が、愚かに生き足掻き無様に死んでいく。それだけだ。
せめて、最期に彼女の声を聞けたなら、と思う。
たった一度聞いたあの歌声は、今でもしっかりと耳に残っている。彼女は俺にとって唯一の光だった。
ダレンが俺を呼んでいる。
僅かに残った部下が、懸命に盾になり俺を守っているようだ。死にゆく者を守ってもどうにもならんぞと呟くが、彼らはきかない。
ダレンらの気迫に押されたのか何か命令が下ったのか、取り囲んだ敵兵たちは動きを止めていた。
……谷そよぐ風が 祖の祈りの歌を 今日も我に運びくる
神は我らを見守り給う 約束の明日を与え給う……
低い耳鳴りの向こうから、歌声が聞こえたような気がした。
身体が氷に包まれているようで、痛みも感じなくなっていた。
自分が目を開けているのか、閉じているのかも、もう分からない。
……安らぎの朝と 穏やかな夜を 繰り返し与え給う
その愛に この身を捧げ 祈りを重ねましょう……
これは夢だろうか。
確かに聞こえる。ディーナの歌声が聞こえる。美しい歌声が聞こえてくる。
何という名の神かは知らぬが、俺の最期の願いを叶えてくれたようだ。
まるで、すぐ傍らで彼女が歌っているようだ。
「……ディーナ」
俺は愛しい女の名を呟いていた。
すると彼女が微笑んだ。
たとえこれが幻でも、彼女に側にいると思うと喜びに目が潤んだ。
彼女が俺の胸にそっと手を添えた。
暖かい……。
俺を見つめる彼女の瞳から大粒の涙が落ちてきた。熱い雫が、俺の頬を温めるように流れ落ちてゆく。
なんと幸せな夢だろうか。
俺はもう一度妻の名を呼んだ。
「ディーナ」
彼女の唇がゆっくりと動いた。
「……はい。ここにいます」
再び、美しく清らかな歌声が響きわたった。
高く低く、優しく切ない旋律。聞く者の心を一瞬で陶酔させてしまう、奇跡の歌声だった。
妖精が歌う、神への貢物だ。
三年前、森で聞いたあの歌だった。
ああ……
俺はしっかりと目を開いた。止めどなく涙が溢れてきた。
ディーナが歌っている。
胸の前で指を組み、天を仰いで歌っている。
手をほんの少し動かせば触れられる距離で、彼女が俺の為に歌ってくれているのだ。
耳鳴りは消え、彼女の歌声に俺は包まれていた。
得も言われぬ至福だった。
俺を赦してくれるのか、ディーナ。
彼女は歌い続ける。時折、横たわる俺を見下ろして、優しげな目をする。
俺は満ちたりていた。
もう何かを欲しいとは思わなかった。
彼女の歌声が戦場を包み込んでいるようだ。
こんなところに女が乗り込むとはバカなことをするものだ。無謀すぎる。
しかし、彼女の勇敢さに驚いているのか、歌に魅了されたのか、辺りは静まり返っていた。
荒くれた戦士達が次々にひざまずいてゆく。そしてまるで祈りを捧げるように頭を下げた。ポロポロと涙を流す者さえも。
なんという女なのだ。
ディーナは、俺とそしてここにいる全ての人間の為に歌い、戦いを止めたのだ。
たった一人で、歌だけで。
彼女の供をしてきたらしい従者も、泣きながら俺に頭を下げていた。
「……お方様はどうしてグエン様のもとへ行くのだと、歌わなければならないのだと仰られて……」
咎められると思っていたのだろう彼に俺は笑いかけた。
青ざめる男に、最後まで彼女を守ってくれと小声で託した。
「グエン様!」
ダレンが息も絶え絶えに悲痛な声をあげる。彼も肩からドクドクと血を流していた。
彼の他に生き残っている戦士はいないようだ。
「……上位王がすぐ近くに来ています。ディーナ様の歌に聞き惚れて……」
「……そうか。では、そこまで俺を連れていってくれ」
震える声を絞り出して命じた。
すると、ディーナは歌うのを止め、じっと俺を見つめた。潤んだ瞳が揺れていた。
ダレンは躊躇していたが早くしろと急かすと、俺の脇に腕を通して抱え起こした。
俺の足を気遣い、地面に擦らぬように必死に持ち上げながら運んでゆく。お前も怪我を負っているのだし俺は死ぬのだらか無用の気遣いだと言ったが、彼は粗末に扱おうとはしなかった。
歯を食いしばり黙って俺を運んでゆくのだった。
ディーナが、俺達の後に付いてきた。
戻るように言ったが、頭を振って側を離れようとはしなかった。
「ディーナ、お前には生きて欲しい」
「はい、そうします」
「……何をするつもりなのだ」
「貴方の最期を見届けたいのです」
翳りのない微笑みを浮かべて彼女は言った。その首には、妻の証の首飾りがあった。
彼女じっくりと見たの三月ぶりだということに思い至り思わず失笑する。そして、以前よりもふっくらとし艶ややかな顔になり、身体の肉付きも良くなっていることに今更ながらに気付き、ホッとした。
俺も微笑みを返した。
ディーナは歌で攻撃を止めた。
俺の首を取った後に、彼らが本当に剣を収めるか確認するつもりなのだろう。身につけた首飾りは、火の塚の一族としてこの戦いを本当に終わらせる覚悟の証なのだ。
止まらなければ、止まるまで歌い続けることだろう。彼女の神は戦を否定しているのだから。
俺たちの進む前が、左右に別れ上位王の姿が見えた。
彼の軍勢がずらりと並び、一斉に俺達に注目した。数えきれぬほどの兵士がいるというのに、誰もが沈黙していた。
騎乗した上位王がゆっくりと近づいてくる。
俺はディーナに囁いた。
「では、見届けてくれ」
「……はい」
俺は上位王の面前にでた。
じっと俺を見つめる王の表情は真摯で、これ以上の血は望まぬと告げているのが分かった。
ダレンに抱えられるようにして地面に腰を落とすと、激痛が脳天まで駆け上った。砕けた足が悲鳴を上げている。
それでも懸命に跪く姿勢を取る。上位王が首を落としやすいように。
馬を降りた上位王がゆっくりと頷いた。
剣を握り直すその腕は細く噂通り軟弱そうだ。腰の入らぬ構えから武芸に疎いことも解る。彼では一刀で首を落とすことは不可能だろう。
そして、おそらくは初めての斬首なのだ。青い唇を一文字に結んでいる。しかし彼の濁りのない目は強い意志を燈していた。人好きのする良い顔だ。
俺は上位王に微笑みかけた。
遠慮は要らぬ、そう伝えた。
苦痛を覚悟しなければならないようだが、これまでずっと胸の痛みに耐えてきたのだ、何ほどもこともない。
若い上位王が全てを終わらせてくれる。
俺の起こした無為な戦いを。そしてこの島の乱世を。
と、ディーナの腕がふわりと俺の肩に巻き付いた。
背に熱い雫が落ちてくる。
彼女のぬくもりが幸せすぎて、彼女の心を確かめることなど恐ろしくてできそうにない。
俺を本当に赦してくれるのか。
情けをかけてくれるのか。
聞きたくても聞けず、別の問いかけをする。
「これで、お前の復讐は果たされるか?」
「……いいえ。まだです」
「欲深いな。俺と同じだ」
「はい。今度は私が貴方を攫います。戦のない所へ……それが私の復讐です。……私の歌にまるで子供のように頬を染めて、瞳を輝かせていた貴方が…………大好きだったのですよ……」
何ということ。
ディーナの優しい声に、眼の奥がグッと熱くなる。
やはり俺は愚か者だった。
沈黙を貫くことで、お前は自身をも罰していたのか。
俺に与えた罰はそのままお前にはね返り、二人して牢獄に繋がれていたのか。
一族の犠牲の上に築く幸せなど砂上の楼閣だと知って、俺と共に罪を背負って……。
取り返しのつかぬ過ちに苦しんでいただろうに、なんて甘やかな復讐をするのだ。俺を安らかに送くろうなどと。
「……ディーナ」
「今の貴方は、あの時の顔をしています」
ああ……。
ひれ伏してしまいたかった。
――あなたにその資格があれば、いつかきっと……。
ようやくその資格を得たのだな。
「帰りましょう……」
ディーナの唇が俺のそれに触れ惜しむように離れてゆくと、愛しい彼女の歌声が俺の胸を揺さぶった。
高く切ない旋律を、とうとうと歌い上げるディーナ。
俺の肩を抱いて離さいない。背に張り付いたまま、歌い続ける。
だから強引に彼女の腕を引き剥がし、ダレンと従者に委ねた。
震えるディーナの指が、俺の頬を撫でるようにかすめて去ってゆく。
愛おしさと後悔と寂しさがないまぜになって、また涙が一滴こぼれた。
ディーナ。
あの日、お前の愛に気づきこの身を捧げていれば…………お前を泣かせはしなかったものを。
歌は途切れない。
お前の言うように、俺はあの日に帰ることができるのだろうか。
俺を赦してくれたお前を信じよう。
……その愛に この身を捧げ 祈りを重ねましょう……
ディーナの歌以外は、何も聞こえなかった。美しい旋律が俺の罪を清めてくれているように思える。
振り上げられた上位王の剣が、陽の光を集めてキラリと輝いた。
だがその後は、もう俺に目には上位王も敵軍勢も映らなかった。
あの日の森の光景に包まれて、ディーナとただ二人見つめ合っていた。
木漏れ日が揺れて、俺の妖精が俺だけに微笑み、終わらぬ歌を歌い続けていた。