第02話 冒険者クイナ
「一度見たものは、絵のように、頭に残る。一度聞いた言葉は、声のまま、残る」
—— 忘れない記憶
そこは、時計の音が、いくつも重なって聞こえる工房だった。
壁の一面に、そして棚のすべてに、大小の時計が、並んでいる。
振り子の音、歯車の回る微かな音。
そのどれもが、少しずつ、ずれた拍子で、それでいて、部屋全体が、ひとつの時を刻んでいるようだった。
クイナは、その音の中に、立っていた。
依頼を受けて、この工房に来てから、まだ、半刻も経っていない。
工房の主は、白髪の老職人だった。
作業台の前で、震える手を、組んでいる。
その向かいに、若い弟子が、立っていた。
まだ、少年と呼んでいい年頃で、唇を引き結び、床の一点を、見つめている。
「もう一度、確かめさせてください」
クイナは、静かに言った。
「消えたのは、お客さまからお預かりした懐中時計。亡くなったお父さまの形見で、修理のためにこちらへ。間違いありませんね」
「ああ」
老職人が頷いた。
「三日前に預かった。金の蓋の、古い品だ。それが、今朝、棚を見たら消えていた」
クイナは、棚に目を向けた。
預かり品を置く棚は、作業台の、すぐ脇にある。
布を敷いた段の上に、修理待ちの時計が、いくつか並んでいた。
その配置を、クイナは、目を細めて見た。
布の上に、うっすらと残る、品物の跡。
埃の積もり方。
左から二番目の場所だけ、布の毛羽立ちが、わずかに乱れている。
頭の中に、それを、そのまま写し取る。
メモ帳は、持っていない。
持つ必要が、クイナには、なかった。
一度見たものは、絵のように、頭に残る。
一度聞いた言葉は、声のまま、残る。
「ご依頼は」
クイナは、老職人に向き直った。
「外から忍び込んだ者がいないか、確かめてほしい。そういうことでしたね」
「ああ」
老職人が、重く頷いた。
「夜にこの工房へ入れるのは、私とこの子だけだ。私は、触っていない。なら、残るのはこの子しかいない。——だが」
声が、震えた。
「あの子は、やっていないと言う。私は、その言葉を、信じたいんだ」
「ぼくは、盗んでなんか」
弟子が、顔を上げた。
けれど、その目は、すぐに伏せられた。
「だから、あんたを呼んだ」
老職人は、組んだ手に力を込めた。
「自分の弟子を、自分の手で問い詰めることは、したくない。外から入った者がいるなら、それを見つけてほしい。あの子の無実を、確かめてやりたいんだ」
クイナは、まず工房の戸口へ、向かった。
錠前を、検める。
こじ開けた傷も、合鍵で開けたような乱れも、ない。
窓の留め金は、内側から下りた、ままだった。
外から忍び込んだ者は、いない。
依頼の答えは、それで、出てしまった。
残るのは、夜にここにいた二人だけ、という事実。
けれど、クイナは、まだ帰らなかった。
二人のあいだに、立ったまま、もう一度、工房を、ゆっくりと見回す。
観察した事実を、ひとつずつ、並べていく。
それが、いつものやり方だった。
作業台の上。
工具が、種類ごとに、整然と、並んでいる。
ただし、いちばん細いやすりと、小さな油差しだけが、定位置から、少し、ずれていた。
油差しの口の周りに、新しい油の艶が、ある。
弟子の指先。
爪のあいだに、わずかに、黒い油の汚れが、残っている。
今朝、洗ったばかりのような、ほかは、清潔な手なのに。
そして、工房の奥。
作業場と扉一枚で、仕切られた先に、ひと部屋ぶんの生活空間が、あった。
老職人はもう別に家があるのだろう、いま、そこに住み込んでいるのは、弟子のようだった。
寝台の脇に、布をかぶせた何かが、置かれている。
その布の端から、金色のものが、ほんの少しだけ、覗いていた。
クイナは、ひとつ、息を吐いた。
答えは、もう、出ていた。
「ひとつだけ、整理させてください」
クイナは続けた。
「『あの時計は、心臓の部分が、寿命を迎えかけている。盗んでも時計としての価値はない』。そうですよね」
「ああ、そうだが……しかし、なぜそれを」
「依頼を受けたとき、ギルドであなたの最初の届けを読みました。そこに、そう書いてありました」
老職人が、まばたきをした。
「そして、あなたはこうも言いました。『あの子に、この時計を丁寧に磨き上げることを指示した。せめて見た目だけでも整えてあげたかったからな』と」
弟子の肩が、小さく震えた。
「この子は」
クイナは、奥の寝台に目をやった。
「夜なべで、それを直そうとしていたのではありませんか」
布をめくると、そこに、あった。
金の蓋の、古い懐中時計。
分解されかけた中身が、小さな部品ごとに、布の上へ、几帳面に並べられている。
「外から入った者は、いませんでした」
クイナは、老職人に向き直った。
「そして、これは——盗みでも、ありません」
クイナは、弟子へ目を移した。
「この子は、あなたに褒めてもらいたかった。だから、自分の手で直して、驚かせるつもりだった。——ただ、黙って持ち出したことだけが、間違いでした」
クイナは、もう一度、預かり品の棚に目を戻した。
「私がこの工房に入ったとき、棚の布は、左から二番目だけ、毛羽立ちが品物の形に乱れていました。時計がそこから動いたのは、ごく最近です。昨日、あなたが仕事を終えたあとでしょう」
弟子が、小さく頷いた。
「盗む人は、跡を荒らすか、跡を隠します」
クイナは、静かに続けた。
「あなたは、ただ持ち出しただけ。だから、何もかもが、そのまま残っていました」
工房に、時計の音だけが残った。
「……ごめんなさい」
弟子が、絞り出すように言った。
「師匠が、毎晩あの時計を見てため息をついてたから。ぼくが直せたら、って。勝手なことを、して」
老職人は、しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと、寝台のほうへ歩み寄り、並べられた部品を、のぞき込んだ。
震えていた手が、そっと、少年の頭に、置かれた。
「……この部品では、直らん」
しわがれた声だった。
「明日からだ。明日から、部品の作り方から、一から教えてやる。……赤字の仕事になるがな」
クイナは、それ以上は、何も言わなかった。
答えはもう、二人の、ものだった。
工房を出るとき、老職人が呼び止めた。
「あんた、ずっとメモも取らずに、私の話を聞いていたな」
不思議そうな顔だった。
「届けの文句も、ここの様子も、そっくりそのまま。どうやって、覚えている」
「見たもの、聞いたことは、忘れないので」
老職人が、感心したように言った。
「それは、得難い才能だな」
クイナは、少しだけ、目を伏せた。
羨ましいと言われたことも、ある。
けれど、忘れられないというのは、いいことばかりでも、ない。
そんなことを、ふと思ったが、口には、出さなかった。
---
冒険者ギルドの建物に着く頃には、空が、傾いていた。
通りには、夕暮れの色が、落ち始めている。
受付の窓口に、見慣れた顔が、あった。
クイナへの依頼を、いつも通してくれる受付嬢。
指名依頼が多いクイナにとっては、ほとんど、担当のようなものだった。
「おかえりなさい。時計工房の件、どうでした」
「解決しました」
クイナは、依頼の控えを窓口に置いた。
「盗難ではありませんでした。報告書は、後ほど」
「またですか」
受付嬢は、半ば呆れたように笑った。
「あなたが行くと、たいてい『誰も悪くなかった』って結末になりますね」
「観察し確認した事実が、答えを示しただけです」
クイナは、控えめに言った。
「……私は、ただ、並べただけ」
報酬を受け取り、控えに、署名をする。
いつもの、静かな、手続きだった。
帰ろうと背を向けたとき、受付嬢が、思い出したように声をかけた。
「あ——そうだ。あなたに、また指名依頼が入っていますよ」
クイナは振り返った。
「ほら、定期的にあなたを名指しでくれる、あの商会。黒い噂もない、堅いところ」
受付嬢はそう言いながら、一通の依頼書を取り出した。
「あの商会から、また」
クイナは、その依頼書を、受け取った。
これまで、何度も、自分を指名してくれた、商会のものだ。
——どんな依頼だろう。
窓の外で、街灯が、灯り始めていた。
初日は4話連続掲載中で、3話目は18時に公開予定となっています。
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