第5話 止まったあとの揺れ
止まったものは、そのままではいられない。
講演の翌日、教室は静かだった。騒がしさが消えたわけではない。ただ、どこかに余白ができている。
石田の席の周りは、前日よりも距離がある。誰も露骨に避けてはいない。だが、近づく理由もない。
昼休み。購買へ向かう生徒の流れは変わらない。
ただ、石田は列にいない。
「……どうする?」
小さな声が上がる。
「今日は各自でいいだろ」
「そうだな」
すぐに決まる。
当たり前のことのはずなのに、どこかぎこちない。
石田は教室に残っていた。机に向かい、ノートを開いている。ページは進まない。
やめた。
それだけのはずだった。
だが、空いた場所に何も入らない。
——やめればいいだろ。
あの言葉が、頭の中で繰り返される。
やめた。その先は、自分で埋めるしかない。
扉が開いた。
「石田、いいか」
神谷だった。
「はい」
石田は立ち上がる。
職員室に入ると、佐伯も席にいた。
「座っていい」
神谷は短く言う。
石田は椅子に座る。背筋が少しだけ固い。
「昨日のあと、何かあったか」
「……特に」
言葉は少ない。
「頼まれたりは」
「ないです」
神谷は頷く。
「じゃあ、今は止まってる」
一拍置く。
「その状態をどうするかだ」
石田は視線を落とす。
「……正直、楽です」
小さく言う。
「でも」
言葉が続かない。
「でも、何だ」
神谷は急かさない。
「……なんか、変で」
石田は指先を見たまま言う。
「今まで普通だったのが、急に変わって」
「普通に戻る気がしないです」
神谷は少しだけ頷いた。
「普通は、元に戻らない」
石田が顔を上げる。
「変えた時点で、別の状態になる」
短く言う。
「それを選んだのは、おまえだ」
責める調子ではない。ただの事実だ。
「……はい」
「その上で、どうするか考える」
神谷は机に手を置く。
「一人でやる必要はない」
そのとき、職員室の空気がわずかに動いた。
入口の方で、誰かが立ち止まっている。
女子生徒だった。顔色が悪い。視線が定まらない。
「……あの」
声がかすれる。
佐伯がすぐに立ち上がった。
「どうしたの?」
近づく。
「保健室、行こうか」
女子生徒は首を振る。
「違くて……」
言葉が途切れる。
周囲の視線が集まる。
神谷が立ち上がる。
「ここで話せるか」
短く聞く。
女子生徒は一瞬だけ迷い、頷いた。
「……ちょっとだけ」
空いている席に座る。手が震えている。
「どうした」
神谷の声は低い。
女子生徒は口を開き、閉じる。呼吸が浅い。
「……生理、二ヶ月来てなくて」
沈黙。
「検査、したんです」
喉が鳴る音が小さく聞こえる。
「陽性で」
空気が止まる。
佐伯が一歩近づく。
「……妊娠、ってこと?」
小さく確認する。
女子生徒は頷く。
石田は動けなかった。
現実感が追いつかない。
「相手は分かってるか」
神谷が聞く。
女子生徒はすぐに答えない。
数秒のあと、首を縦に動かした。
「……同じクラスの」
言葉が途切れる。
名前は出ない。
「無理に言わなくていい」
神谷は遮る。
「まず、体のことを優先する」
佐伯がすぐに言う。
「一緒に病院、行こう」
「保護者には——」
女子生徒が首を振る。
「まだ、言ってないです」
声が震える。
「言えなくて」
沈黙が落ちる。
神谷は一歩だけ近づく。
「一人で抱える話じゃない」
はっきり言う。
「ここで止める」
女子生徒は何も言わない。ただ、目を伏せる。
佐伯が肩に手を置く。
「大丈夫」
短い言葉だった。
「一緒に行こう」
女子生徒は小さく頷いた。
二人が職員室を出ていく。
扉が閉まる。
残った空気は、さっきまでと別の重さを持っていた。
石田が、ようやく口を開く。
「……断れなかったんですか」
自分でも驚くくらい、まっすぐな言葉だった。
神谷は椅子に座り直す。
「別の話に見えるか」
静かに聞く。
石田は迷う。
「……いや」
完全には言い切れない。
「つながってる」
神谷は短く言う。
「断れない状況は、形を変える」
石田は息を呑む。
頭の中で、昨日の講演の言葉が浮かぶ。
——断れない状況を作った側に責任がある。
それが、別の意味を持ち始める。
「……俺のとは、違いますけど」
かろうじて言う。
「違う部分もある」
神谷は認める。
「だが、“断れない”という点では同じだ」
石田は黙る。
言葉が出ない。
「だから分けて考える」
神谷は続ける。
「一つずつ処理する」
机の上に視線を落とす。
「混ぜると、全部が曖昧になる」
職員室の時計が音を立てる。
時間だけが進む。
その日の午後、教室の空気はさらに重くなった。
何かが起きていることは分かる。だが、何が起きているのかは共有されていない。
言葉がない。
だから、想像が広がる。
グループチャットが久しぶりに動く。
——なんかあった?
短い一文。
既読が増える。
だが、答えは出ない。
誰も確かなことを持っていない。
それでも、不安だけが共有される。
放課後。神谷は職員室で記録をまとめていた。
購買の件は止まっている。
だが、別の問題が動き始めている。
“断れない”という一点で、繋がる問題。
佐伯が戻ってきた。表情は硬い。
「病院、行ってきました」
短く言う。
「どうだった」
「……確定です」
神谷は頷く。
「相手は」
「まだ話せてません」
佐伯は椅子に座る。
「でも、たぶん……」
言葉を濁す。
確証はない。だが、心当たりはある。
神谷はそれ以上聞かなかった。
「順番にやる」
それだけ言う。
問題は増えている。
だが、処理の仕方は変わらない。
線を引く。
名前をつける。
一つずつ扱う。
それだけだ。
その夜、石田はスマートフォンを見ていた。
グループチャットは動かない。
静かなままだ。
昨日まであったものが消えている。
代わりに、別のものが入ってきている。
説明できない不安。
言葉にできない違和感。
画面を閉じる。
何も解決していない。
ただ、見え方が変わっただけだ。
それでも、戻ることはできない。
見なかったことには、できない。




