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第3話 線を引くということ

 線は、見えない場所に引かれる。


 神谷は朝の職員会議で資料を配った。紙は一枚。表題は簡潔だ。——購買利用に関する観測結果(中間)。


 項目は少ない。日付、時間、対象生徒、同行の有無、購入点数、支払い。余計な説明はない。誰が見ても同じ読みになる形に整えてある。


 ざわめきが小さく広がる。


「これ、何のための資料ですか」


 教頭が先に口を開いた。声は穏やかだが、問いは明確だ。


「事実の共有です」


 神谷は短く答える。


「“いじめ”という言葉を使う前に、何が起きているかを揃えます」


 資料の中央に、数行だけのまとめ。


 ——依頼は偏り、支払いは揃わない。

 ——任意に見えて、任意ではない。


 沈黙が一瞬だけ落ちる。


「それは……解釈では?」


 年配の教師が眉を寄せる。


「解釈に見える部分は削れます」


 神谷は頷く。


「残すのは事実だけで構いません」


 別の教師が口を挟む。


「でも、それだと“問題がある”前提で動いてるように見えますよ」


「前提は置いていません」


 神谷は資料を指で示す。


「同一人物への依頼集中。購入点数の偏り。支払いの不均衡。ここまでは事実です」


「その先をどう見るかは、これから決める」


 教頭が椅子にもたれた。


「で、どうするつもりですか」


「校内で完結させるか、外部に繋ぐかの判断をします」


 言い切る。


 小さなざわめきが広がる。


「外部って……警察ですか」


「可能性の一つです」


 間を置かない。


「まだそこまでの段階じゃないでしょう」


「段階は、行為で決まります」


 神谷は視線を外さない。


「“いじめ”でぼかすか、“強要”“恐喝”として扱うか。どちらで見るかの問題です」


 空気が一段冷える。


 沈黙の中で、佐伯が小さく息を吸う。


「……校内で対応できる範囲を、先に整理しませんか」


 言い方は柔らかいが、線を引こうとしている。


「例えば、生活指導としての介入とか」


「必要です」


 神谷は頷く。


「ただし、それで足りるかは別です」


 教頭が資料を机に置いた。


「保護者対応も考えないといけません」


「だからこそ、言葉を揃えます」


 神谷は一歩だけ踏み込む。


「“仲良くしましょう”では説明にならない」


「何が起きているかを、そのまま伝える」


 そこで会議は打ち切られた。結論は出ていない。だが、論点は固定された。


 “見て見ぬふりをするかどうか”。


 それだけが残る。


 昼休み。教室の空気は変わらない。笑い声があり、特別な緊張もない。


「今日、頼むわ」


 軽い声。


 石田が顔を上げる。視線が一瞬だけ集まり、すぐに外れる。


「昨日のやつ、良かったし」


「センスあるんだよな」


 笑いが重なる。


「おまえも別に嫌がってなかったじゃん」


 何気ない一言。


 石田は椅子を引き、立ち上がりかける。


 そのとき、教室後方の扉が開いた。


「ちょっといいか」


 神谷。


 空気がわずかに止まる。


「石田、今から来い」


 指名は一人。


「え、今?」


 小さな声。


「今だ」


 それ以上は言わない。


 石田は一瞬だけ周囲を見る。視線は合わない。誰も動かない。


 数秒のあと、歩き出した。


 廊下に出ると、教室のざわめきが背後に残る。


「今日も頼まれてたな」


 歩きながら、神谷が言う。


「……はい」


「今、断れるか」


 短い問い。


 石田は答えない。


 神谷は立ち止まり、視線を合わせる。


「ここで答えなくていい」


 一拍。


「ただ、選べ」


「選ばない状態を続けるのは、選んでいるのと同じだ」


 石田は視線を落とす。


 言葉は出ない。


「今日は行かなくていい」


 神谷は続ける。


「理由はこっちで持つ」


 それだけ言って、職員室へ向かった。


 教室に戻ると、石田の席は空いたままだった。


「どうする?」


「時間なくね?」


「別のやつ行けよ」


 軽い声。だが、どこか噛み合わない。


「おまえ行ってこいよ」


「なんで俺が」


 押し付け合い。


 同じやり取りのはずなのに、回らない。


「……いいよ、俺行くわ」


 一人が立ち上がる。


 財布を開き、顔がわずかに歪む。


「足りねえ」


「じゃあやめる?」


「いや、買うけど」


 小銭を集める音。


 初めて、“誰が払うか”が言葉になる。


 職員室。


 石田は椅子に座り、手元を見ている。


「さっきの、どう思った」


 神谷が聞く。


「……助かりました」


 小さな声。


「助かったなら、それでいい」


 踏み込まない。


「ただし、ここからは決める必要がある」


 石田が顔を上げる。


「続けるのか、やめるのか」


「やめるなら、やめ方を一緒に決める」


「続けるなら、その理由を自分で持て」


 短く区切る。


「どっちも選ばない、はなしだ」


 石田は唇を噛む。


「……やめたいです」


 はっきり言う。


 神谷は頷く。


「分かった」


「じゃあ、やめる」


「今日で終わりにする」


「どうやって……」


 不安が滲む。


「方法はこっちで用意する」


 神谷は机に手を置く。


「個人で受ける話じゃない」


「クラス全体の問題にする」


 その一言で、石田の表情が変わる。


「それ、大ごとになりませんか」


「すでになってる」


 即答。


「見えてないだけだ」


 放課後。教室の空気は、同じようで違う。


「さっきさ」


「神谷に呼ばれてたよな」


 視線が集まる。


 石田は席に座る。


「明日から、行かない」


 短く言う。


 一瞬の沈黙。


「は?」


「なんで」


「別に今まで通りでよくね?」


 言葉が重なる。


「おまえも別に困ってなかったじゃん」


「頼んでるだけだし」


「強制してねえし」


 その言葉で、空気が止まる。


 ——強制してねえ。


 どこかで引っかかる。


「じゃあ、やめればいいだろ」


 別の声。


「問題ねえじゃん」


 軽く片付けようとする。


 だが、誰も動かない。


 “いつも通り”に戻す方法が分からない。


 その夜、グループチャットが動く。


 ——明日、どうすんの

 ——まじでやめんの?


 既読が増える。


 答えは出ない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 もう同じやり方では、続かない。

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