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第2話 観測という手続き

 事実は、言葉になる前からそこにある。


 神谷は昼休みの廊下に立っていた。購買へ向かう生徒の流れを、壁際から見ている。目立つ位置ではない。だが、視界は通る。


 同じ顔ぶれが、同じ時間に動く。


 列に並ぶ者。並ばない者。頼む者。頼まれる者。


 繰り返しの中で、偏りだけが浮かび上がる。


 石田は、今日も列の外にいた。手ぶらのまま、入口の横で待つ。やがて数人が声をかける。軽い調子で、短い言葉で。


「今日、頼むわ」


「昨日のやつ良かったし」


「センスあんじゃん」


 笑いが重なる。断る余地のない速度で話が進む。


 石田は一瞬だけ視線を落とし、うなずく。財布を確認し、列に入る。


 神谷はメモを取らない。


 必要なのは記録ではなく、構造の把握だ。


 誰が決めているか。どこで決まっているか。断る余地があるか。


 その三つだけを見る。


 購買の窓口で、石田は数を数える。パンと飲み物を選び、まとめて支払う。受け取った袋を持って戻る。手渡す。金はその場では揃わない。


「あとで」


 軽く言われる。


 石田は何も言わない。


 それで終わる。


 教室に戻ると、空気は元に戻る。笑い声があり、特別な緊張はない。


 出来事は残らない。


 残るのは、負担だけだ。


 午後の授業が終わる。チャイムのあと、ざわめきが広がる。


 石田は席に座ったまま、ノートを閉じる。視線は机の上に落ちている。


 前の席の生徒が振り返る。


「明日も頼むわ」


 軽い調子だ。


 石田は顔を上げる。


 言葉が出る前に、うなずく。


 それで終わる。


 放課後、神谷は職員室でノートを開いた。簡単な一覧だけを作る。日付、時間、関与した人数、支払いの有無。


 主観は入れない。


 入れれば、ぶれる。


 佐伯が横から覗き込む。


「それ、全部記録してるんですか」


「全部じゃない」


 神谷はペンを置く。


「偏りが見える分だけでいい」


 佐伯は少し眉を寄せる。


「でも、それって……証拠になりますか」


「証拠にするためにやってるわけじゃない」


 神谷は画面を閉じる。


「何が起きてるか、揃えるためだ」


 言葉は短い。


「“いじめ”って言うと、解釈が入る」


「解釈を外すと、行為だけが残る」


 佐伯は頷きかけて、止まる。


「……それで、どうするんですか」


「まだ決めない」


 神谷は椅子にもたれる。


「足りない」


「何がですか」


「本人の認識」


 それだけ言う。


 帰り道。石田は駅までの道を歩いていた。周囲に同じ学校の生徒はいるが、会話はない。距離が一定に保たれている。


 スマートフォンが震える。グループチャットの通知だ。


 ——明日も頼む

 ——昼、時間ねえから


 短い文が続く。


 石田は画面を見たまま、立ち止まる。


 指は動かない。


 既読がつく。


 それで十分だと判断される。


 ポケットにしまう。


 家に着くと、玄関の明かりがついている。靴が揃っている。いつもの光景だ。


 リビングからテレビの音が聞こえる。母親の声も混じる。


「おかえり」


 変わらない調子で言われる。


「……ただいま」


 返す声は小さい。


 食卓には皿が並んでいる。湯気が上がっている。


「今日、どうだった?」


 軽い問いだった。


 石田は一瞬だけ止まる。


「普通」


 それだけ答える。


 母親はそれ以上聞かない。会話は別の話題に移る。


 言えば終わる。


 そう思う。


 母親は気づく。無理に明るくするか、過剰に優しくするか、そのどちらかになる。


 そうなれば、家の中の空気は変わる。


 冗談も減る。言い合いもなくなる。


 “普通”がなくなる。


 それは避けたい。


 「いじめられている」と口にした瞬間、それが事実になる気がした。


 “いじめ”。


 その言葉は、どこか雑だ。


 弱い者いじめ。


 そう呼ばれることもある。


 その側に置かれる。


 それを認める形になる。


 言葉にした途端、そこに固定される気がした。


 言葉にしなければ、まだ違う形でいられる。


 そう思ってしまう。


 食事が終わる。皿を流しに運ぶ。


 リビングの明かりは変わらない。


 変わっていないのは、そこだけだ。


 自分の中で何かが変わっていることには、気づいている。


 気づいているが、言葉にはしない。


 できない。


 夜。ベッドの上でスマートフォンを開く。


 グループチャットは動いている。


 ——明日、パンな

 ——飲み物も


 短い文が続く。


 石田は画面を見たまま、何も打たない。


 既読だけが増える。


 それで会話は成立する。


 目を閉じる。


 断ればいい。


 そう思う。


 だが、どう断るかが分からない。


 断ったあとの形も、分からない。


 分からないまま、朝になる。

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