■第8章 第3節:知らない言葉
■第8章 第3節:知らない言葉
夕方の営業を終えたあと、白花の薬屋の中は少しだけ静かだった。人の気配が抜けたあとの空気は軽いのに、どこか落ち着かない。今日一日のやり取りが、そのまま残っているような感じがした。「昨日の方がいい」「今日は軽い」「同じのある?」そんな言葉が頭の中で何度も繰り返される。
シャーロットはカウンターの奥で、町で買ってきた本を取り出した。布に包まれていたそれをほどく。厚い。表紙は少し擦れていて、何度も使われてきたものだと分かる。
「……これ」
ぽつりと呟く。
リナが横に来る。
「読むの?」
「うん」
シャーロットは頷く。
「ちゃんと作るなら、これかなって」
クロエが静かに言う。
「知識体系の補完です」
「そういうことね」
シャーロットは軽く笑う。
ページを開く。文字が並んでいる。びっしりと。今まで見てきたものとは違う。説明ではなく、記録に近い。
「……多いね」
ミアが横から覗き込む。
「読める?」
「……たぶん」
シャーロットは少しだけ目を細める。
一行ずつ追う。読めないわけではない。けれど、頭に入ってこない。
「基準配合……抽出比率……」
声に出してみる。
「……比率?」
言葉の意味は分かる。でも、それが何を指しているのかは分からない。
クロエが言う。
「量の固定です」
「固定」
「はい。同一条件で同一結果を得るための指標です」
「……なるほど」
少しだけ理解する。
だが、次の行を読むとまた止まる。
「温度管理……時間依存……」
「……難しいね」
リナが小さく言う。
「うん」
シャーロットも頷く。
今までやってきたことは、全部“なんとなく”だった。感覚で混ぜて、感覚で調整して、感覚で完成させる。それでもうまくいっていた。でも、この本は違う。“なんとなく”を許していない。
「抽出時間が変動した場合、効果に差異が生じる……」
シャーロットはそこで止まる。
「……時間」
クロエが言う。
「現在、計測していません」
「してないね」
「体感で処理しています」
「うん」
それが問題だと、今なら分かる。
ミアが首を傾げる。
「時間ってなに?」
「……どれくらい混ぜるか、とか」
「それいつも同じじゃないの?」
シャーロットは少しだけ黙る。
「……同じにしてるつもり」
「つもり」
クロエが言う。
「実際には変動しています」
「そうなんだ」
ミアはあっさり頷く。
シャーロットは本を見下ろす。
今まで気にしていなかったことが、全部書いてある。量、時間、温度、順番。どれも“同じにするため”のもの。
「……ちゃんとやるって、こういうことか」
ぽつりと呟く。
リナが聞く。
「分かった?」
「少しだけ」
正直な答え。
全部は分からない。でも、“何が足りなかったか”は分かる。
クロエが言う。
「再現性の確保には必要です」
「うん」
シャーロットは頷く。
ページをめくる。今度は図がある。薬草の種類と、その組み合わせ。どのくらい混ぜるか、どの順番で入れるか。細かく書いてある。
「……こんなに決まってるんだ」
「体系化されています」
「すごいね」
ミアが言う。
「でも大変そう」
「大変だね」
シャーロットは苦笑する。
今までのやり方に比べれば、明らかに手間が増える。覚えることも増える。でも、それで同じものが作れるなら――。
「……やるしかないか」
小さく言う。
リナが少しだけ不安そうに聞く。
「できる?」
シャーロットは少し考える。
「……分かんない」
正直に答える。
「でも、やってみる」
それで十分だった。
クロエが言う。
「補助します」
「お願い」
シャーロットは頷く。
本を閉じる。
全部理解したわけじゃない。ほとんど分かっていない。でも、方向は見えた。
「明日、試そうか」
リナが頷く。
「うん」
ミアも言う。
「やる!」
クロエは短く答える。
「問題ありません」
シャーロットはカウンターに手を置く。
(……ちゃんと作る)
その言葉が、今までよりも少し重く感じた。
白花の薬屋は、次の段階に入ろうとしていた。




