■第5章 第3節:朝の判断(下)
乳鉢の中で潰した薬草は、昨日のものとはわずかに違う香りを持っていた。強すぎず、しかし薄くもない。朝に採ったばかりの葉の湿り気が残り、指先にまとわりつくような感触がある。シャーロットはその感触を確かめながら、力を少しだけ抜いた。潰しすぎない。形を残しすぎない。その間で止める。
「……これでいける」
小さく言う。
クロエが横で短く答える。
「許容範囲内です」
「その言い方やめて」
シャーロットは少しだけ笑うが、手は止めない。乳鉢から容器へ移し、水を加える。火はない。だから、時間をかけて均す。焦らない。急ぐ理由はない。今は“崩さないこと”の方が大事だ。
リナがその様子を見ている。昨夜よりも目がはっきりしている。疲れは残っているが、意識は落ちていない。
「……さっきと違う」
ぽつりと呟く。
「少しだけ変えてる」
シャーロットは答える。
「朝だから?」
「それもある」
それ以上は言わない。全部説明しても、意味は薄い。感じてもらえればいい。
容器の中の液体を軽く揺らし、状態を整える。濁りは少ない。色も安定している。
「……これ」
リナに渡す。
リナは迷わず受け取る。昨夜のようなためらいはない。動きは落ち着いている。
ミアの口元へ。
少しだけ。
止める。
呼吸を見る。
また少し。
その繰り返し。
「……飲めてる」
リナが小さく言う。
「うん」
シャーロットは頷く。
ミアの喉が動く。無理はしていない。体が受け入れている。
シャーロットはそのまま様子を見守る。数回繰り返したあと、リナが手を止める。
「……これでいい?」
「うん、それでいい」
シャーロットは短く答える。
「やりすぎない方がいい」
リナは頷く。
それで十分だ。
ミアの呼吸はさらに安定している。昨夜の荒さはもうない。完全ではないが、落ち着いている。
「……繋がってるね」
ぽつりと呟く。
クロエが答える。
「維持されています」
シャーロットは小さく息を吐く。
ここまでは予定通りだ。
問題はここから先。
持ち直した後、どうするか。
シャーロットは少しだけ視線を落とす。床に置かれた袋、空に近い容器、薄くなった食べ物の跡。
生活が戻っているわけではない。
ただ、止まらなくなっただけ。
「……リナ」
「なに」
リナが顔を上げる。
「このままだと、また同じになる」
シャーロットは静かに言う。
リナはすぐには答えない。
言われなくても分かっている顔だった。
「……うん」
小さく頷く。
「どうしたらいいか、分かる?」
リナは少しだけ考える。
それから、ゆっくりと首を振る。
「……分からない」
それが普通だ。
まだ子供だ。
背負うには大きすぎる。
シャーロットは一度目を閉じる。
(全部は無理)
それは分かっている。
この村全部を立て直すことはできない。
今すぐどうにかできる規模じゃない。
でも――
(見える範囲)
ここは、その中だ。
シャーロットは目を開ける。
「……一つだけ決める」
小さく言う。
クロエが静かに視線を向ける。
リナも同じように見る。
「ここ、止めない」
それだけだった。
大きなことは言わない。
でも、意味は重い。
リナの目が少しだけ揺れる。
「……止めない?」
「うん」
シャーロットは頷く。
「ミアが落ち着くまで、ここにいる」
リナは言葉を失う。
驚いている。
でも、否定はしない。
「……いいの」
「いいよ」
シャーロットは短く答える。
「そのために来た」
それは半分本当で、半分違う。
素材を探しに来た。
でも、今はそれだけじゃない。
「……でも」
リナが言いかける。
シャーロットはその言葉を待たずに続ける。
「全部はできない」
はっきり言う。
「村全部は無理」
リナは黙る。
それは分かっている。
「でも、ここはできる」
シャーロットは静かに言う。
「ここは見えるから」
その言葉に、リナの視線が止まる。
理解しているのか、分からないのか。
でも、否定はしない。
クロエが小さく言う。
「範囲の固定です」
「その言い方やめて」
シャーロットは少しだけ笑う。
だが、意味は同じだ。
範囲を決める。
そこに集中する。
それが一番現実的だ。
シャーロットは立ち上がる。
「……少し動く」
リナが顔を上げる。
「どこ」
「近く」
シャーロットは答える。
「食べ物、少し探す」
リナは少しだけ目を見開く。
「……あるの」
「分からない」
シャーロットは正直に言う。
「でも、探す」
それだけだ。
確実な保証はない。
でも、何もしないよりはいい。
クロエが準備に入る。
袋を確認する。
道具を整える。
無駄がない。
シャーロットはもう一度ミアを見る。
呼吸は安定。
熱はゆっくり下がっている。
「……いける」
小さく言う。
リナに向けて。
自分に向けて。
「少しだけ離れる」
シャーロットは言う。
「すぐ戻る」
リナは何も言わない。
ただ、ミアの手を握る力が少し強くなる。
「……待ってる」
小さな声。
それだけだった。
シャーロットは頷く。
「うん」
それ以上は言わない。
言葉を足すと、軽くなる。
クロエが扉の方へ向かう。
シャーロットも続く。
外に出る前に、一度だけ振り返る。
小さな部屋。
二人の影。
静かな呼吸。
「……行ってくる」
短く言う。
リナは小さく頷く。
その動きで十分だった。
扉を開ける。
外の光は少し強くなっている。
朝が進んでいる。
シャーロットは外へ出る。
空気を吸う。
冷たい。
でも、動いている。
「……次だね」
ぽつりと呟く。
クロエが答える。
「はい」
その一言で十分だった。
ここから先は、“繋ぐ”から“広げる”へ。
少しずつ。
無理なく。
見える範囲で。
シャーロットは歩き出す。
その一歩は、昨日よりも確かだった。




