■第4章 第3節:新装・白花の薬屋(下)
翌朝、白花の薬屋の前には、いつもより少し早い時間から人の気配があった。
シャーロットは机の上を整えていた手を止め、扉の方を見る。まだ店を開ける時間ではない。看板は出しているが、午前の対応を始めるには少し早い時間だった。外の気配は一人ではない。重いものを運ぶような足音と、もう一つ、少し控えめな足音が混じっている。
「……もう来た?」
ぽつりと呟くと、後ろにいたクロエが外へ視線を向けた。
「二人です。片方は昨日の老人です」
「早いね」
シャーロットは少し驚きながら扉へ向かう。開ける前から、木材が擦れるような音が聞こえた。
扉を開けると、そこには井戸のそばでよく会う老人が立っていた。いつもより少しだけ背筋を伸ばし、両手で小さめの作業台を支えている。古い木材で作られているが、形はしっかりしていた。無駄な飾りはない。けれど、脚は太く、天板も厚い。見ただけで、今使っている机よりずっと安定しているのが分かった。
「おう、薬屋」
老人はいつも通りの調子で言った。
シャーロットは目を瞬かせる。
「本当に持ってきてくれたんですか?」
「昨日言っただろ」
「言ってましたけど……こんなに早いとは思わなくて」
「余ってる木で組んだだけだ。たいしたもんじゃねぇ」
老人はそう言うが、どう見てもその場しのぎには見えなかった。新しく作ったというより、ちゃんと使えるように直して整えたものに近い。天板の表面も軽く削られていて、手に刺さるようなささくれは見当たらない。
シャーロットは少しだけ言葉を失う。
「……ありがとうございます」
自然と頭が下がった。
老人は照れたように顔を背ける。
「礼は使ってから言え。合わなきゃ意味ねぇ」
そう言って、作業台を家の中へ運び込もうとする。シャーロットが慌てて手を伸ばす。
「あ、持ちます」
「いい。お前さんが持つと落としそうだ」
「そこまでじゃないですよ」
「見りゃ分かる」
あっさり言われて、シャーロットは少しだけ苦笑した。
クロエが横から静かに手を添える。
「支えます」
老人は一瞬だけクロエを見る。何かを感じたのか、少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。
三人で作業台を中へ運び込む。
今まで使っていた古い机を少し横へずらし、新しい作業台を部屋の中央寄りに置く。老人は位置を確認し、床の傾きまで見るようにしゃがみ込んだ。
「ここだな」
短く言って、脚の一つに薄い木片を差し込む。
それだけで、作業台の揺れが消えた。
シャーロットは思わず手を置いて軽く押す。
動かない。
昨日までの机とは全然違った。
「……すごい」
小さく声が漏れる。
老人は鼻を鳴らす。
「作業する台が揺れてちゃ話にならん」
「ほんとですね」
シャーロットはもう一度手を置く。
しっかりしている。強く押しても揺れない。天板も広く、火の器具と容器を置いても余裕がある。
「これなら、かなりやりやすいです」
「だろ」
老人は満足そうに頷いた。
クロエが作業台を見ながら言う。
「安定性が大きく向上しています」
「だよね」
シャーロットは頷く。
火の器具を移す。金属の容器を置く。陶器の容器も並べる。素材を入れた袋も手元に置く。
それだけで、作業場の形が一段変わった。
昨日までの“整えた机”ではない。
ちゃんと薬を作るための場所。
そう見えた。
「……本当に薬屋っぽくなった」
ぽつりと呟く。
老人は少しだけ笑う。
「ぽいんじゃなくて、薬屋なんだろ」
その言葉に、シャーロットは少しだけ返事に詰まった。
「……そうですね」
小さく答える。
自分ではまだ、どこか仮のつもりだった。始めたばかりで、道具も少なく、作り方も手探り。だから“薬屋っぽい”と思っていた。
でも、村の人から見ればもう違う。
ここは薬を渡す場所で、看板もあって、人が来る。
なら、それは薬屋なのだろう。
その事実が、少しだけ胸に残った。
そのとき、外で控えめな声がした。
「あの……」
シャーロットが振り返る。
扉の外に立っていたのは、最初に子供の熱で薬を求めてきた女性だった。腕には布に包まれた小さなものを抱えている。以前より表情は明るい。疲れは残っているが、最初に会ったときの切羽詰まった感じはなかった。
「おはようございます」
シャーロットが声をかけると、女性は少しだけ頭を下げた。
「おはようございます。その……朝早くにすみません」
「大丈夫です。どうしました?」
女性は抱えていた布を少し持ち上げる。
「これ、よかったら使ってもらえないかと思って」
シャーロットは首を傾げる。
女性は布をほどく。
中にあったのは、古い乳鉢だった。
少し欠けている部分はあるが、使えないほどではない。表面には細かな傷があり、長く使われていたことが分かる。手入れされていないわけではない。むしろ、大事に残されていたもののように見えた。
「……乳鉢?」
シャーロットが呟くと、女性は頷いた。
「昔、母が使っていたものなんです。薬師ではなかったんですけど、薬草を潰したり、湿布を作ったりしていて」
「そんな大事なもの、いいんですか?」
シャーロットはすぐにそう聞いた。
女性は少しだけ笑う。
「使わないまましまっておくより、ここで使ってもらった方がいいと思って」
その言葉は、強いものではない。でも、はっきりしていた。
「それに、子供の熱の時、本当に助かりました。お礼と言えるほどではないですけど……」
女性は少しだけ視線を落とす。
「ここが続いてくれるなら、その方が私たちも助かるので」
シャーロットは乳鉢を見る。
作業台とは別の意味で、胸に残るものだった。
老人の作業台は、店を支えるもの。
女性の乳鉢は、薬を作る手を支えるもの。
どちらも、必要なものだった。
「……ありがとうございます」
シャーロットは丁寧に頭を下げる。
「大事に使います」
女性はほっとしたように笑った。
「はい」
クロエが乳鉢を見て言う。
「素材処理の精度が上がります」
「だよね」
シャーロットは乳鉢を両手で受け取り、新しい作業台の上にそっと置いた。
不思議なくらい、そこに馴染んだ。
まるで最初から置かれる予定だったみたいに。
老人が横から覗き込む。
「いいもん持ってきたな」
女性は少し照れたように笑う。
「古いものですけど」
「古い方がいいこともある」
老人は短く言う。
「手に馴染んでる道具は、雑に作った新品より使いやすい」
シャーロットは乳鉢の縁にそっと触れる。
確かに、冷たいだけの道具ではない感じがした。
「……使ってみてもいいですか?」
女性は頷く。
「もちろんです」
シャーロットは素材袋から葉を数枚取り出す。昨日までなら指で潰すか、簡単な道具で押しつぶしていたものだ。
それを乳鉢に入れ、ゆっくりとすり潰す。
手に伝わる感触が違った。
均一に潰れていく。香りの出方も穏やかで、強すぎない。力の入れ方も調整しやすい。
「……すごい。全然違う」
思わず声が漏れる。
女性は少し嬉しそうに笑う。
老人は腕を組んで頷く。
「道具ってのはそういうもんだ」
クロエも静かに見ている。
「処理のばらつきが減ります」
「うん、分かる」
シャーロットはすり潰した薬草を見る。
昨日までより細かい。だが潰しすぎてもいない。ちょうどいいところで止めやすい。
これだけで、仕上がりが変わる。
劇的ではない。
でも、確実に。
「……これなら、もっと安定するかも」
ぽつりと呟く。
老人が作業台を軽く叩く。
「台も揺れねぇしな」
「はい」
シャーロットは頷く。
火の器具。
新しい容器。
作業台。
乳鉢。
一つずつ揃っていく。
それは贅沢な道具ではない。高級でもない。けれど、今の白花の薬屋には十分すぎるくらいだった。
「……なんか、もらってばっかりですね」
シャーロットが小さく言うと、老人は鼻を鳴らした。
「薬もらってるだろ」
女性も頷く。
「そうです。助けてもらってます」
シャーロットは少しだけ黙る。
助けているつもりはあった。
でも、返ってくるとは思っていなかった。
しかも、こういう形で。
クロエが静かに言う。
「循環しています」
「循環?」
シャーロットが聞き返す。
「あなたが渡したものが、別の形で戻っています」
その言葉に、シャーロットは乳鉢と作業台を見る。
薬を渡した。
それが、作業台になって戻ってきた。
乳鉢になって戻ってきた。
それはお金とは違う。でも、確かに店を支えている。
「……そっか」
小さく呟く。
そういうものなのかもしれない。
店というのは、自分だけで作るものではないのかもしれない。
来る人がいて、渡すものがあって、返ってくるものがある。
その全部で、少しずつ形になる。
シャーロットは新しい作業台の前に立つ。
火の器具を置き直す。
乳鉢を手元に置く。
容器を並べる。
素材袋を左側に置く。
自然と配置が決まっていく。
今までよりずっと使いやすい。
「……これ、かなりいいですね」
シャーロットが言うと、老人は満足そうに笑った。
「使って直すところがあったら言え」
「はい」
女性も少し安心したように言う。
「役に立ちそうでよかったです」
「すごく助かります」
シャーロットは素直に答えた。
少しして、老人と女性は帰っていった。
扉が閉まる。
家の中に静けさが戻る。
けれど、さっきまでとは違う静けさだった。
シャーロットは作業台の前に立ち、しばらく何も言わずにそれを見ていた。
クロエが横に立つ。
「良い環境になりました」
「うん」
短く答える。
言葉にすると軽くなる気がした。
それくらい、今の変化は大きかった。
昨日、自分たちで買ってきた道具だけでも十分変わった。
でも今日、村の人たちが持ってきたものによって、さらに“ここらしい”場所になった気がした。
ただ整えたのではない。
人の手が入った。
それが、妙に嬉しかった。
シャーロットは乳鉢に残った薬草を見て、少し笑う。
「……せっかくだし、作ってみようかな」
クロエが頷く。
「確認するべきです」
「うん」
シャーロットは新しい作業台の前に立つ。
乳鉢で薬草をすり潰し、金属容器に移す。水を加え、火の器具で温める。陶器の容器で冷ます。
その流れが、驚くほど自然につながった。
昨日までより、ずっと楽だった。
出来上がった薬は、見た目にも少しだけ整っている。
色が揃い、香りも落ち着いている。
特別なものではない。
でも、普通より少し良い。
それくらいの仕上がりだった。
「……うん。いい感じ」
シャーロットは小さく頷く。
クロエが言う。
「安定しています」
「それが一番だね」
シャーロットは容器を机に置く。
作業台は揺れない。
乳鉢は手元に馴染む。
火は安定している。
容器も使いやすい。
白花の薬屋は、また一段ちゃんとした場所になった。
大きな変化ではない。
でも、確実に違う。
シャーロットは小さく息を吐く。
「……今日から、もっとちゃんとできそう」
クロエは静かに答えた。
「はい」
その返事だけで十分だった。
白花の薬屋は、村の中で少しずつ形を変えていく。
シャーロットひとりの場所から、クロエと並ぶ場所へ。
そして今は、村の人の手も少しだけ入った場所へ。
まだ小さい。
まだ始まったばかり。
けれど、その小ささが、今はとても心地よかった。




