第九話 残響
――崩壊音は、その後もしばらく続いた。
ぱき、ぱき、と乾いた音が研究室の静寂を裂くたびに、颯汰の肩がびくりと震える。
渉は床に座り込み、ただシールド越しの雪幻桃を見つめていた。
見えているのに、手が届かない。声をかけても、そこには虚無が横たわっているだけだ。
植物が死へ向かうときの感触が、霧のように指の間から零れ落ちていく。その喪失感に、心のどこかで何かが「折れる」音を聞いた気がした。
(……どうして……)
自分は植物の声が聞けるはずだ。その力で、どれだけ救ってきた? どれだけ寄り添ってきた?
なのに、一番助けたいときに、一番大切な声が聞こえない。
「俺……ずっと……見てきたんだ……」
隣で颯汰が、絞り出すように声を上げた。
「雪幻桃の木、毎年……俺に、話しかけてくれて……子どもの頃から、ずっと……今年は頑張ったねって……ちゃんと、聞こえていたんだ……!」
泣き声と共に、颯汰の自責が溢れ出す。
「でも……今年は……っ……俺……守れなかった……!!」
その叫びに、フウが小さく肩をすくめ、耳を伏せた。
渉は目を閉じた。胸の奥が千切れる。
かつて御神木の山で見た、黒く揺れる影。フウが言った「もう元には戻らない」という絶望。あれと同じことが、今ここで起きている。
集中を研ぎ澄ませても、シールドの向こうからは弱々しい揺らぎすら感じられない。
「……ごめん……」
渉の声も涙に滲む。誰に向けた謝罪かも分からぬまま、ただ自分自身の無力さを呪うことしかできなかった。
*
しばらくすると崩壊音が止んだ。その瞬間、渉の中で何かがぷつりと切れた。
悔しさも悲しさも消え、もっと冷たくて深い――心が停止するような感覚。
世界の色が薄れ、音が遠ざかり、自分の存在さえ曖昧になる。雪幻桃を見ているのに、見えていない。
そんな奇妙な空白の底で――。
――『――……たす……け……』
意識の底を掠める、微かな呼びかけ。渉ははっと顔を上げた。
「……いまのは……?」
誰にも聞こえていない。颯汰も、瑠奈も、寺角教授も。だが、確かに崩れゆく枝のどこかに、消えきらない霊素の残滓があった。
――『……た……す……け……』
今度ははっきり聞こえた。弱すぎて崩れ落ちそうな、命の名残。
(雪幻桃……?)
心の中で呼びかけた瞬間、胸が熱くなり、涙がこぼれた。
(でも……僕には……助ける力なんてない。治癒も、精霊術も……僕には……っ)
――そのときだ。
耳ではなく、思考のどこかに、楓の「あの声」が触れた。
――『……あなたは……誰よりも、王の気配に近い……でも……今は……』
囁きは幻聴のように曖昧だったが、確かに楓の声だった。
(王……の……気配?)
意味を理解する前に、胸がざわついた。理由のわからない恐れと、僅かな光が同時に渦を巻く。
「渉……まだ、終わりじゃないよ」
気づくとフウが、渉の掌に小さな手を重ねていた。
「だって渉は、ずっと植物の声を聞いて……どんな子も一人にしなかった。雪幻桃だって、きっと――渉に助けを求めたんだよ」
「フウ……」
「聞こえたんでしょ? 最後の声」
流れる涙をそのままに、渉は小さく頷いた。
フウの温度を感じながら、渉の意識は深い水に沈むように、遠い記憶の底へ潜っていく。
◆
子供の頃。渉は人の声より先に、植物たちの「痛い」や「苦しい」を聞いてしまう子だった。
「変なこと言うな」「気持ち悪い」
そんな言葉ばかり浴びたけれど、校庭の隅の小さな草は、いつも『だいじょうぶ』と笑ってくれた。
だから、自分も誰かを救えるのだと信じ続けてこられた。
祖父が言った『花守りはな……ただ花を育てるだけじゃない――』という言葉。
その続きは思い出せないけれど、植物と心を通わせ、その想いを受け取れる者になりたいと、ずっと願っていた。
そして――桜野町で出会った千年桜。
千年の孤独を抱えた彼女に、あの夜、自分は何をしただろう。
儚く触れた、淡い光のようなキスの温度。
彼女を救えたのは偶然じゃない、そう信じたい自分がいる。だけど。
(……もし……僕が代わりに壊れれば……雪幻桃は、少しでも……)
どこか諦めのような独白が漏れた。その瞬間、フウが激しく渉の胸元を叩いた。
「だめっ! 渉、そんなこと言っちゃだめ! 消えるなんて、絶対言わないで……!」
フウの涙目の訴えが、渉の走馬灯の底に、ようやく一筋の光を差し込ませた。
逃げ場のない絶望の中に、微かな、けれど確かな「生」への執着が戻ってくる。
次回は「第十話 願いと神核接合」
来週金曜日更新!




