エピローグ―1
時は流れ、俺たちは卒業の日を迎えていた。
三月の青空は冷たいイメージを抱かせる。雲一つない晴れ渡る空は不可解なくらいに青い。どうしてこんな空を見上げていると、どこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな不安感が押し寄せてくるのだろうか?
「黒屋君! どうしてあなたはこんな日まで私の話が聞けないのっ!」
名指しで呼ばれて窓の外を眺めていた俺は前を向く。教室には五つだけの机と椅子が等間隔に並び、右から赤石、白崎、俺、青野、黄地という順に並んでいた。生徒全員の胸には丁寧な加工の施されたコサージュとブートニア、机の上には卒業証書の入ったワニ柄の賞状筒が置いてある。
「へいへいすんませんねぇ。勉強のし過ぎで逆に頭がバカになったもんで」
「まったく……でも、本当によくがんばったわね」
怒っていた阪無は表情を一転させ、呆れたような笑いを見せた。
俺は白崎の助力もあって地方の大学への進学を決めていた。日夜勉強三昧で白崎につきっきりで教えてもらい、なんとか大学受験にこぎつけたのだ。白崎は俺の勉強を四六時中見ていて自分の勉強なんて全くしていないにもかかわらず、しれっと同じ大学に合格しているもんだから本当にこいつは人間かと、冗談交じりにそう思う。
「みなさんも、それぞれ希望していた進路に進める事を、心から祝福します」
いつもよりパリッとしたレディーススーツを身に纏う阪無は、安心したようであり、どこか物悲しいようでもある優し気な顔で俺たちを褒め称える。
「赤石君。あなたはとても誠実な人で、一番自分自身に戒めを課していたのだと思います。その誠実さが時に自分を苦しめ、もうどうしようもなくなって怒りに支配されてしまった時もありましたね。でもそんな経験があったからこそ、誰かに救われるという想いの尊さを身に染みて感じたのではないかと私は思います。これから出会う誰かを、思いやりの気持ちを持って支えてあげてくださいね」
「はい。阪無先生。一年間ありがとうございました」
生真面目な赤石は、立ち上がって阪無にお礼を述べた。清々しいその顔には満足のいく高校生活が送れたと、そう書いてあった。
「青野さん。あなたは誰よりも相手の気持ちを汲める優しい心の持ち主でした。その感受性の強さに自身の心を何度も締め付けてきたのでしょう。ですが、素直な気持ちで悲しみを表現できる人間はこの社会で本当に一握りだけです。恥ずかしがらないで構いません。どうか、これからの人生を胸を張って歩んでいってください。私はあなたのような生徒を受け持つ事が出来て、本当に誇りに思っています」
「せんせぇ……。ありがとぉ……っ。先生のおかげでっ、わたしっ、ここまでがんばれたよっ! ……今まで本当にっ、お世話になりましたっ!」
金髪ギャルが顔の化粧なんて気にもせず泣きじゃくる。最近になってようやく慣れ始めた青野の泣き声が今日で聞き納めとなると、ほっとするような寂しいような、別れという現実を嫌に体感する。
ひとしきり泣き叫んだ青野は机の上へと顔を伏せた。
「黄地さん。……正直最初はちょっと怖かったけれど、この教室で一緒に過ごしていく内に、あなたが心の底から人生を楽しもうとしているのだと伝わってきました。あなたは辛くて悲しい心を、明るく楽しい心に変えられる強い人間です。このクラスの皆のようにあなたを理解してくれる人たちが、今後きっと現れるでしょう。その人たちが弱っている時、あなたの強さを分けてあげてください。そうすればきっと、あなたの周りは笑顔で満たされるでしょうから。このクラスに笑顔をくれて、本当にありがとうございました」
「ふふっ――はいっ! 先生。このクラスに入って二年半。私はとても楽しくて幸せでした。こちらこそ、いつも笑顔でいさせてくれて本当にありがとうございました! ハハハハハ!」
普通より人数の少ない教室で、黄地は高らかに笑い声を上げる。卒業の日にも笑顔を絶やさないそのスタイルはいかにも黄地らしい。もう明日にでもこの教室からは誰もいなくなる。こうして少しうるさいくらいは我慢してやろう。
「白崎さん……まず初めに謝らせてください。本当にごめんなさい」
阪無は深々と白崎に向かって頭を下げた。その姿を見た白崎は首を傾げる。
「入学してからすぐ白崎さんはこの特進科にやってきました。特進科を任された身である以上、どんな生徒がいても卒業まできっちり支えてあげよう――私はそう決意を固めていました。でも、この三年間で私はあなたに何もしてあげられませんでした。教育者としていち生徒とまともに向き合えないまま、瞬く間に時間だけが過ぎていき、気がつけばもうあなたはこの学校を去ってしまいます」
顔を上げた阪無は胸中を白崎へと語る。阪無の表情には悔しさが滲んでいた。
「何もしてあげられないまま、あなたの卒業を見送らなければいけないのは本当に悔しいです。でも、私は教師であなたは生徒。授業をこなすだけしかできなかったただのいち教師に、これだけでも言わせてください。――卒業、おめでとうございます」
無理矢理笑っているようなそんな心苦しい表情で、阪無は白崎の門出を祝った。
「先生、私また先生に会いに来ます」
「え?」
「私もこの三年間心を殺したまま生きていて、学校なんて当たり前に必要な道――ただの通過点でしかないと思っていましたが、そんな当たり前に学校生活を送れていたのも先生のおかげなのだと、今では感謝の気持ちでいっぱいです」
白崎が無表情に語っていく。それをこの教室にいる誰もが真剣な眼差しで見つめる。
「私も先生の苦しむ心に気づいてあげられなくて、本当にすみませんでした。、こんな私を三年間、面倒を見てくれてありがとうございました。……そして、これからも先生とお話がしたいので、また先生に会いに来たいです。その時は私たちが三年間話せなかった事やできなかった事をやってみたいのですが……駄目でしょうか?」
「白崎さん…………駄目じゃない。私もまた白崎さんに会いたいわ。今度はあなたの事をもっと教えてください」
瞳を潤ませながら阪無は白崎に向かって微笑みかけた。
「はい。これからもよろしくお願いします。阪無先生」
白崎も阪無を見て微笑んだ。
白崎と阪無は単なる生徒と教師の関係だったかもしれない。しかし、その繋がりができた時、二人の間には縁が生まれた。それはお互いの存在を忘れない限りどこまでも続いていくものなのだろう。これからは生徒と教師の関係ではなく、また違った繋がりが二人を向き合わせるのだ。
「ちなみに、その時はこの人もついてくるので」
白崎が俺の腕を抱きつくようにがっしりと掴んできた。
「お、おい!」
「ふふっ。そうね。今度はインスタントじゃなく、ちゃんと豆を挽いたコーヒーを淹れながら待ってるわよ。黒屋君」
「ほぉ。そりゃ楽しみっす。じゃあ話の種として、先生の悩みでも聞かせてくださいよ」
「悩み?」
すぐ横にある白崎の頭の上にクエスチョンマークが見えた。
「そっ、それは言わなくていいから! あなたの心の中にしまっておきなさい! ……まあ強いて言えば、そろそろ彼氏が欲しいとか……別に悩んでるわけじゃないけど……」
最初は慌てふためいた阪無だったが、最後の方は恥ずかしそうにしつつ自分の髪をクリクリと指で回しながら、ぼやくように何かを言っていた。
実際のとこ大体の内容は聞こえたが、まあ今突っ込むのはやめておこう。今度また白崎と会いに来た時にでも聞いてやるか。この人もぶっちゃけ美人だし、そん時には彼氏できてるかもしんねぇからな。
「おほんっ。でもま、黒屋君にもお世話になったのは事実ね。意外だったけど、あなたが割と面倒見がいい人でよかったわ」
「いや、別に面倒見がいいっつーわけでも……」
「あらそう? あなたが何かしらの問題に顔を出すと結果的にいい方向に進むような気がするから、私的にはもっと他人と積極的に関われば多くの人を幸せにできると思うのだけれど。あなたにはきっと、その人には見えない何かを見つけられる力があるのでしょうから」
今みたく阪無から向けられる期待のこもった目を、俺はこの一年間で何度も見てきた。この目を見る度に、自分の内にある可能性が芽生え始めるのだ。……もしこの何気ない仕草になんらかの策謀が含まれていたのだとしたら、俺はまんまとこの人の教育路線にのっけられてたって事になる。今更だが、それはそれで釈然としないな。
「けっ。そんなもん俺が見つけたって、俺にはどうしようもないっすよ。結局のとこ、自分の事情なんて自分にしかわかんねぇんだから」
「そうかしら? でもま、あなたの良い所は白崎さんが一番よく知ってるんじゃない?」
「はい。よく知ってます」
「いや、自慢げに言うんじゃねぇ。俺の事なら何でも知ってます、みたいに言うんじゃねぇ」
人数の少ない教室に笑いが起こる。俺以外の五人の笑い声は喜びに満ちていた。
穏やかな時間がゆっくりと流れていくような微笑ましい教室に、今自分はいる。一年前なんかじゃ想像もしていなかったが、この意外と居心地の良かった場所との別れに一抹の寂しさを覚えていた。
「それではみなさん。最後になりますが、あなたたちは様々な苦しみを乗り越えてきた私の自慢の生徒です! 欠陥クラスなどと揶揄されていた私たちではありましたが、私はあなた達を自信を持ってこのクラスから送り出せます! これからもあなたたち自身の個性を充分に発揮して、幸せに生きてください」
そして、教師は涙を頬に伝わせながら、最後の言葉を俺たちに贈る――。
「特進科の皆さん――改めまして、卒業おめでとうございます」




