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感情の道標―8

 校庭の見える風通しのいい渡り廊下を抜けて校舎へと飛び込み、ドタドタと自分たちの足音だけを鳴らしながら誰もいない廊下を駆け抜けて、幅広く感じる階段を二段飛ばしで駆けあがっていく。無我夢中で走ってはいたものの、右手の感触だけは確かに感じていた。

 俺たちは自分たちの教室――特進クラスへと戻ってきた。

 もう見慣れてしまった誰もいない教室。今となっては生徒の多い教室を見る方が稀だった。

 息を切らせて教室の扉をくぐった俺たちは、二人ともヨロヨロと自分の席へと座った。


「く、黒屋って、結構足早いんだね」

「はぁっはぁっ。へへ、こんな俺でもな、テメェより、いいとこあんだよ。っはぁ……」


 こんなに全力で走ったのはいつ以来だろうか? さすがに息が途切れそうだ。

 教室の中央に隣り合って陣取っている俺と白崎は、教室の天井を見上げながら呼吸を整えようとしていた。


「これでよかったんだろ? これがお前の望みなんだろ?」

「うん」


 白崎の手を引いて、自分たちを傷つける人間なんて誰もいない空間へと逃げ込んだ。恐怖するものから逃げるのは正解からかけ離れているのだろうが、白崎はそれを望んだのだ。

 そして俺は、白崎の望みを叶えよう――そう望んだのだ。


「でもどうして? どうして黒屋は私を連れ出してくれたの?」


 無垢な瞳が俺を見て心の内を探ろうとしている。


「ああ……多分だがな、おまえが本当に俺を必要としているんだってようやく気付いたからだ」


 俺の価値を見出した人間に対して、正直な気持ちを伝えておいてもいいだろう。


「口では遠ざけようとしていても、誰かを助けてやりたい、誰かを支えてやりたい、誰かと一緒にいてやりたい――そんな想いが俺の心の片隅にあったのかもな。特進科の連中が悩んだり苦しんだりする表情を見る度に、自分には何ができるのかを考えてしまっていた。思い返しても、割と自分からアクションを起こしていたような気がするしな」


 赤石の時も、青野の時も、黄地の時もそうだった。阪無に言われて渋々行動していた時もあったが、それは、本当は自分にも価値があるのだと周囲に誇示してやりたい気持ちが、自分の心の片隅にあったからかもしれない。


「俺なんてそうだが、不良なんて奴らは出来損ないの集まりだ。勉強だスポーツだ人間関係だ、いろんな事でうまくいかなかった奴がそれをきっかけに愚図り出す。自分の人生になんの意味があるのかって斜に構えて敵をつくる。ああいうのは……誰も必要としないんなら自分はどう生きたって自由だろ? って意味の行動なんだ」

「でも、私には黒屋が必要」

「そうだな。さっきおまえが泣いてた時、自分の中で何かが弾けて動いたんだ。そしたらよ、いてもたってもいられなくなって、今想像してる未来を手に入れるためにもがいてやろう――とか考えて自分に自信を持っちまった。……久しぶりかもしんねぇなぁ。こんなに心が突き動かされたのはよ」


 情動があんなにも自分を奮い立たせるとは知らなかった。あのまま終業式が始まるまで突っ立ってるだけじゃなく本当によかったと今では思っている。


「だから俺は、俺を必要とするお前をあの場所から連れ出した。あんなクソみたいな気分にしかなれねぇ終業式なんて、出なくてもいいんだ。まともに生きてくには型にはまって苦しむ必要もあるかもしんねぇけどよ。それが正解だなんて俺は思わねぇ」


 普通へ繋がる出口なんて探さなくていい。出口へ繋がる正解の道を俺は選ばない。そういう生き方だってあってもいいだろう?


「苦しかったら逃げればいい。お前はずっとそうしてきたんじゃねーか」

「うん。悲しいのがあんなに辛いだなんて久しぶりに感じた。今までなら悪口なんて聞こえてきてもなんでもなかったのに、黒屋と一緒にいたいって気持ちが生まれてからずっと、周りの目が気になり始めたんだ」


 白崎はずっと感情という機能を停止させる事によって外界からの干渉をすべて受け流していた。誰も何も感じなければ、心が動かなければストレスなんて言葉は生まれない。普通科の連中ではないが、白崎はまさに機械人形を体現しようとしていたのだ。

 しかし、俺が白崎に関わり始めてから白崎の感情は動き始めた。


「悪意というほどでもないかもしれないけど、周りの人たちから陰口を言われながら生きるのはすごく不安だった。さっきは本当に涙が止まらなくて、苦しかった」


 白い天井から目を離し、白崎は身体ごとこっちを向いた。それに合わせて俺も顔だけを白崎へと向ける。


「でも黒屋が手を引いて私をあの場所から連れ出してくれた。黒屋の握ってくれた手だけに集中して、目的地も何もわからないまま全力で走ったのはすごく気持ちがよかった」


 白崎は嬉しそうに自分の右手をチラリと見た。


「ありがとう黒屋。一緒に走ってた時、私は確かに幸せを感じてたよ」


 感情の色を取り戻した白崎の笑顔に、俺は口を開けたまま見惚れていた。


「だけど……黒屋と同じ道を私は歩けないんだよね?」

「あ……」


 それは卒業後の進路の事を言っているのだろう。この学校を卒業すればその先は自らの選んだ道を進んでいく。俺も白崎も。


「黒屋には黒屋の道がある。自分で決めた道を進んでいく。そうなんだよね?」

「ああ、そうだ」


 俺はなんの迷いもなく頷いた。頭の中にはもう自分の答えが出ていたから。


「じゃあやっぱり――」

「俺は大学に進学する事にした」

「え?」


 変わってしまった俺の進路を聞いて白崎は虚を突かれたような目で俺を見る。


「どっか遠くに行こうかと思ってる。誰も俺を知らない、周りの目なんて気にならない辺境の大学にでもな」


 どうせ俺は自分の人生をろくに考えもしないで決めてしまうろくでもない男なんだ。だったら、自分の人生を必要とする人間にくれてやろう。

 だが白崎に就職をさせるというのは俺が白崎の人生を奪っているのと変わらない。それならば、俺が白崎に歩み寄っていけばいい。


「そ、そうなんだ……」

「そうなんだ……じゃねぇ! …………お前もついてこいって言ってんだよ」

「え? 私もついていっていいの?」

「てか、元々俺についてくるつもりだったんだろうが。だがまあ、まず俺が大学なんて行けるかどうかわかんねぇから、これから真面目に勉強しねぇとな」

「私が教える! だから行こう。やっぱり私、黒屋と一緒にいたい」


 白崎は立ち上がり私にも協力させて欲しい、と懇願してくる。そんな情緒のせわしい白崎を見て、俺は思わず笑ってしまった。


「……? 黒屋?」

「ああ、いやな。お前も随分と表情のコロコロ変わる奴になっちまったな」

「黒屋のおかげだよ」

「裏を返せば俺のせいとも言えるな。これからはめんどくせぇ事も辛い事も受け入れてかなくちゃいけねぇんだからよ」

「うん。でも、私はやっぱり、これが本当の私だと思うから。そ、その……黒屋と一緒なら乗り越えられると思うから」


 椅子に座る俺を見下ろしながら、白崎は顔を紅潮させている。どうやら羞恥心も復活させてしまっているらしい。こんなに赤くなっている白崎を見るのも初めてだ。


「く、黒屋は……私をどう思ってる?」

「あ? いや別に、感情表現の下手くそな女子くらいにしか思ってねぇけど」

「そうだけど……そうなんだけどそうじゃなくて、私黒屋に言ったよね? 黒屋の事が好きだって。黒屋は私の事、女として好き?」


 そう言えばあの時、俺は白崎に好きじゃないって言ったんだったか。まだ自分の気持ちが固まってなくて白崎を突き放す言葉しか浮かんでいなかったのだが。


「べ、別に嫌いじゃねぇよ。むしろ……」


 目鼻立ちは整っているものの、背も小さくて女の魅力として大事な胸なんか無いに等しい。ショートヘアの銀髪と真っ白な肌は人目を引くが、それは決して触れてはいけないと思わせるような危うさにしか見えない――そんな白崎ではある。

 しかし、今にも透明な風となって消えてしまいそうな儚い存在感。なんの価値もないと思っていた俺の人生を必要とする心からの叫び。新しく生まれ変わろうとする隠されていた確かな感情。

 俺も白崎を見ていて何も感じていないはずがない。最初白崎に感じていた不安が、今では期待に変わっている。

 これは恋なのだろうか? そうであってそうでないような、白崎に対して複雑な気持ちを抱いているのは間違いない。


「…………わかんね」

「え?」

「だからわかんねぇって。お前が好きかどうかなんて考えた事ねぇし」

「でも、むしろ…………って今結構考えてた」

「考えた結果結局わかんねぇんだよ。揚げ足取ろうとしてくんじゃねぇ」


 口元が緩んで嬉しそうにしている白崎にそう言ってやった。

 くそっ。ちっとばかし情緒豊かになったからって、この俺を見下すなんざ一年くれぇはえぇんだよ。くそっ。


「ふふっ。怒ってる黒屋、おもしろい」


 感情の再生した白崎は人を愛しようとも、愛されようとも考える。

 誰かのための何かでありたい――普通とはそういうものだろうか?


「俺のなんの役にも立たねぇ人生でいいんなら、お前にやるよ。そんかわりお前のまっさらでなんもねぇ人生を、俺によこせ」

「うん。喜んで」


 無表情に――ではなく、この世界のどこかで普遍的に生きる少女のように白崎は笑った。


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