感情の道標―5
――私が心の情動を封じ込めたのは小学六年生の頃。それまではごく普通の女の子で家族三人幸せに暮らしてた。
学校が終わると私は友達と楽しく遊んでた。遊び疲れた身体で家に帰りつくとおいしそうな晩御飯の香りが玄関まで漂っていて、私はいつもテーブルの前に座ってお母さんが料理をつくり終えるのをお腹を空かせながら待ってた。
晩御飯が出来あがる頃にお父さんが仕事から帰ってきて「腹が減った」とよだれを啜りながら私の隣に腰を下ろす。お母さんは毎晩、二人の食いしん坊がお腹を空かせて待っているのを困ったように笑って、テーブルの上をおいしそうな料理で埋め尽くしていた。
私が学校での出来事を面白おかしく語って、お父さんがその話を聞いて大袈裟に驚いて、私たちのやり取りを見たお母さんが優しい顔で微笑む――おいしい料理との相乗効果で、三人で囲む食卓はいつも笑顔で溢れてた。
そんな笑顔でいられる時間は当たり前で、いつまでも普通に続いていくんだって私は信じて疑わなかった。三人でずっと、手を繋いでずっと一緒に歩いていけばいつまでも、どこへでも行けるんだって――。
だけど、そんな幸せな家庭に終わりを告げるかのように……お母さんが死んだ。
突然の交通事故だった。小学生だった私はそれこそ一生分の涙を流した。まるで感情を失くしてしまったお父さんは口をポカンと開けながら、死んだお母さんを見下ろしていた。あの時のお母さんの綺麗で彫像みたいな死顔と、お父さんの何もかもが抜け落ちてしまった表情は今でも鮮明に思い出せる。
もしかすると私はお父さんの気持ちが理解できたからかもしれない、もしかしたら親子だからかもしれない――私はお父さんと同じように笑う事も、泣く事も、怒る事も……感情を表に出す事をやめた。お母さんが死んでしまった悲しみは心の中で渦巻いていたけれど、心の中だけに留めていれば少しは楽でいられた。息を切らせて涙が枯れるまで泣き続けるのは本当に辛くて心が痛かったから。
あんな想いは二度としたくない。私は外でも感情を表現しないようにし始めた。感情の無くなった私をみんなは「こわい」と言って遠ざけた。誰も一緒に遊ぼうと、一緒に話そうとしてくれなくなったのは本当は悲しいのだとわかってはいたけれど、感情を殺していた私の心には何も訪れなかった。
お母さんが死んでから、家に帰りつくといつも誰もいなくていつも暗い空間が広がっているだけだった。お父さんは仕事で夜遅くに帰ってきて私とは何も話さずに部屋に引きこもってる。朝起きるとお父さんはもう仕事や外に出かけていてその日の食事代がテーブルの上に置かれてるだけ。
中学でも高校でも私は人と関わる事を避けた。中学では一人で寂しいなんて気持ちがほんの少し残ってはいたけれど、高校に入学してからはもう何も感じなくなってた。今の学校に入学した時私は最初から特進科で、クラスの中には私一人だけだったから周りの人に迷惑をかけてしまう心配もなかった。そんな何の情動も生まれない私に何度も話しかけてくれた阪無先生には本当に申し訳ないって思ってる。
このまま私はいつまでも一人で生きていく。担任の阪無先生の言う通りに勉強して、卒業後の進路も先生に言われるがまま自分の人生を決めて貰えばいいと思ってた。
けれど高校三年になって……黒屋が特進科に入ってきた――。
「黒屋と一緒にいると私はいつも昔を思い出す。ああ……私はこういう風に怒って、泣いて、笑うんだ――って……そのひと時ひと時に、昔の自分が今の自分に乗り移ったみたいだった」
白崎は感情を思い出せないだけだったのか。そう言えば一度泣いた事があると言っていた気がする。昔は普通の子供みたく、純粋な感情をさらけ出していたのだろうか?
膝を折り座ってから自分の過去を語り始めた白崎は、終始無表情のままで話を終えた。そして俺を見て笑いかけた。
「どう? 私今、笑えてる?」
目は優しく落ち、頬は柔らかく上がり、口は自然と喜びを伝えてくる。
「そうだな。引きつってるでも固くなってるでもなく、自然に笑えてんじゃねぇか?」
「うん。こうして笑えるのも黒屋のおかげ」
そんなに俺と一緒にいるのが楽しいのだろうか? 目尻に涙を溜めたまま、白崎は笑みをほどかない。
「今まで忘れてた感情が、黒屋と一緒にいて思い出せるようになった。面白い事も、楽しい事も、おかしい事も、笑ってもいいのかな? って思うようになった」
そして白崎はあぐらをかいた俺の膝の上に手を置いて詰め寄ってきた。
「お、おい」
「黒屋と一緒にいれば、私は本当の私でいられる。いつか家族三人で幸せに暮らしていたあの頃みたいに…………だからお願いします。私をあなたのそばにいさせてください」
告白というよりも、それは懇願に近いものだった。『どうか見捨てないで』白崎の涙目はそう訴えかけているようにも見える。
俺は左膝に頬杖をついて、右手で近寄ってくる白崎の肩を遠ざけた。
「え?」
「うっとうしい」
溜息と共に俺は白崎にそう言った。
「く、黒屋?」
「だからよ、それは俺じゃなくてもいいんじゃねぇか? お前が俺に感情を見せた時と同じように、他の人間にも見せてやればいいだけだ」
こうして白崎が普通に笑えている状態を俺が導いたというのなら、それはただ俺がきっかけをつくってやったに過ぎない。最初に俺が白崎と出会った時のように、少し興味が湧いて、喋ってみようと思って、一緒にいる事を望んで、白崎が他人との関わり合いを否定しなければ、また同じような境遇に出会えるだろう。
白崎が感情を取り戻すには、他人と密に関わり合う経験が必要だったのだ。それは別に俺じゃなくてもよかった。
「俺じゃなけりゃお前ももっといろんな感情を思い出せたのかもしれない。もっと普通に近づけたかもしれないんだ」
「違う! 私は黒屋だったから……この人だったら私にいろいろ教えてくれるかもしれないって希望が持てた。最初の黒屋はちょっと怖かったけど、あの時あなたが話しかけてくれたから、それから一緒にいたいって思えるようになったんだよ!」
感情をむき出しにし、また俺に近づいてはしがみつく白崎。近寄ってくる顔が、差し伸べてくる手が、俺を必要としているのだと訴えかけてくる。
「一緒にいて、黒屋を好きになったんだよ」
「っく——」
そんな顔を向けんじゃねぇよ。俺はお前が恋人だとか友達だとか、そんな関係になるなんて全然思えねぇ。
お前と一緒にいる未来が、想像できないんだよ。
太陽が鮮やかなオレンジ色に染まる。もうすぐにでも海が黄金色の輝きを生み出し、白崎の好きな景色が俺たちの目の前に広がるだろう。
その時を待たずして、俺は立ち上がった。
「俺は、お前が好きじゃない」
「くろやぁ……っ」
白崎が立ち上がった俺のズボンの裾を弱弱しく掴んでくる。足をずらしてその手を強引に引き離した。
「まだ……夕陽観てないよ? もう少しだからっ」
「うぜぇ。もう俺に近寄ってくんじゃねぇよ」
堤防を飛び降り歩道へと着地する。そのまま歩道を歩いてその場を後にした。
もう自分の進路なんかどうでもよくなっていた。歩きながら聞こえてくる堤防の向こう側の波の音と、少女のすすり泣く声が重なって、俺の心は歯がゆい気持ちで満たされていた。




