感情の道標―4
「黒屋と一緒に海が見たい」放課後、白崎と共に学校を出ると白崎は何の前触れもなくそう言った。珍しい白崎からの要望を無下にはせず、俺は頷いた。
以前二人で見たあの場所へと、電車に乗って向かう。
真夏の空は日も高く、夕暮れ時というにはまだ青い色彩を残していた。電車の車窓から見渡せる景色はビルやデパートメントが少なくなっていき、平屋の家や古ぼけたアパート、細く人通りの少ない路地などが多くなっていく。
終点で電車から降り、潮風の香る町へと立つ。目的の場所へと白崎と並んで歩いた。
「なぁ、なんであそこなんだよ? 海が見える場所なんて他にもあるんじゃないか?」
前と同じく賑わいのない閑散とした商店街を白崎と歩く途中、俺はそんな疑問を投げかけた。
「あそこの道路の向かい側にあるマンションに住んでるから」
「あーそういやあったか」
ここら一帯じゃ妙に目立つマンションが海沿いに立っていたのを憶えていた。
「何階に住んでんだよ」
「二十階」
「いや、それぜってー堤防で見るより自分ちで見た方がいいだろ」
そんな高い場所から景色を眺めた経験もないが、高い位置からの方がいろんなものが見渡せるんじゃないか?
「夕暮れ時は、下から見た方が海がキラキラしてて綺麗だから。高い所から見ると、海がなんだか黒く濁ってるみたいで綺麗じゃない」
「そうなのか? まあ俺にはわからんが」
「これから見せてあげてもいいよ」
「いや、いい。俺も下の景色だけで充分だ」
濃くなっていく潮風、かすかに聞こえ始める潮騒の音。海の気配が近づいている。その気配の方へ緩やかな坂道を下りていくと、まだ青い空の色を映す海が見えた。
海沿いの道路を歩いていくと確かに高層マンションが一棟だけ見えた。なぜこの間はあまり気にしなかったのかと思うくらいこの辺りじゃ目立つ高さだ。
マンションの手前まで歩道を歩き、海と道路を分かつ堤防へ登った。夕暮れ時にはまだ早いが、やはり海の景色はいつ見ても壮大であった。
堤防の上に立ち、海風を身に纏う。夏の暑さはどこかへ吹き飛んでいった。
「やっぱ涼しいな。海の近くは」
目をつぶって風と波の音を堪能していたら、下からガシガシと壁を削るような音が聞こえた。
「ん、ん~」
堤防を登ろうとする白崎が上の方を掴んではズリズリと下まで落ちていく。まだ自力でこの上には登れないらしい。
「おら。掴めよ」
「うん」
下から手を伸ばして俺の手を掴んだ白崎を引っ張り上げる。その手は小さく、引っ張るとそのまま飛んでいってしまいそうなほど軽かった。
「ありがとう」
白崎は礼を言うと海側へと足を投げ出し、堤防の端に腰を下ろした。俺もその隣にあぐらをかいて座った。
「んでよ。お前に話があんだよ。別に大した話でもねぇんだけど」
「奇遇。私も黒屋に話がある。だから今日ここに来ないかって誘ってみた」
「わざわざここで? まあ別にいいけどよ」
白崎が俺に話なんて珍しいな。まあ、どうせ意味もねぇどうでもいい話なんだろうけど。この場所で話したいってのがなんか引っかかるな。
俺は俺で白崎に伝えなければならない。至極当たり前な普通で常識的な事を。
「んじゃ、俺から話してもいいか?」
「うん。いいよ」
白崎はこちらを見ずに頷いた。
「わかった。じゃあ言わせてもらうが――お前、自分の進路真面目に考えろよ」
恋人でも、ましてや友達とも呼べない俺と白崎の関係は間違いなく同じ道を辿るような間柄ではない。俺たちは成績も考え方も性別も違う他人なのだから。
「卒業後も俺についてきてどうすんだよ。あれか? お前は俺がいないと何もできない永遠のお子様でも気取ってるつもりか? いい加減自分の意思で歩け。わかんねぇならわかるまで考え続けろ。お前にしか決められない道が絶対にある筈だ」
酷な事を言っているつもりはない。何せこれは当たり前なんだ。
「その道には俺はいないだろうが、それが当たり前なんだ。今が特別なだけでこれからは普通に何の変哲もない一本道を、お前は歩いていくんだよ」
色褪せ始めた水平線を見ながら喋り続ける。
「この三か月、俺はお前を嫌というほど見てきたつもりだ。わざわざ隣に席を移してくるわ、帰ろうかと思ったら黙ってついてくるわで別に見たくなくてもお前の姿が近くにあった。だから別に知りたくなくてもお前がどんな奴なのかを知ってしまった」
何も言い返してこない白崎。どんな表情をしているのかは、想像するまでもない。
「怒らない、泣かない、笑わない――機械人形なんて呼ばれる奴が、ピンチの俺を助けたりなんてしねぇ。俺の為に泣いたりなんかしねぇ。俺と一緒に笑ったりなんかしねぇ。ほんの少しだけだったが、お前が俺に見せた感情を他の誰かに見せてやればいいだけなんだ。それだけでお前は普通に紛れて生きていけるよ」
「…………」
「だから俺がいなくてもよ——白崎?」
「……っ、……っ」
白崎を見て、びっくりした。
「お前……泣いてんのか……?」
白崎の目からは大量の涙があふれていた。そして、苦しそうに表情を歪めていた。
どうしてそんな普通の女子みたいに泣いてんだよ。
あるいは誰かに怒られた時。あるいは誰かにいじめられた時。あるいは誰かと悲しみを分かち合った時。あるいは絶望に押しつぶされそうな時。あるいは自分の中の誰かを失くしてしまった時――。
まるでモノクロの仮面が剥がれてしまったかのように、ありきたりな泣き顔がそこにはあった。
「なんで、なんで……なんでそんな事言うのぉ……」
「あっ、いや……お、おい」
俺は思わず片膝を立てて白崎の様子を窺った。あまりに予想外過ぎて自分の理解が追いつかない。
歯を食いしばりながらボロボロと涙を流す白崎は、ブラウスの袖口で何度も涙を拭い、苦しそうに呼吸を荒くしている。まるで幼い子供が泣いているようだ。
どうすればいいかわからず、俺はただ白崎を眺めているだけだった。
おいおいなんでそんなに泣いてるんだよ? いつもみたいに済ました顔で聞いてりゃいいじゃねぇか。……なんて声かけりゃいいんだよ。
「……っ、ねえ?」
「あ、ああ。なんだ? どうしたんだ?」
白崎の挙動に敏感になっていた俺は白崎の弱弱しい声を聞き逃さなかった。
「私のっ、はなしっ、も、していい?」
「……ああ。でも少し落ち着けよ。落ち着いてから話せ」
「うん」
それから白崎が落ち着くまで俺は待ち続けた。何度も何度も自分の顔に二の腕を擦りつけては溢れ出る涙を拭い、乱れた呼吸をなんとか収めようと深く胸を上下させ、充血した目は元通りとは言えないが、呼吸を落ち着かせた白崎はなんとか平静を取り戻した。
「落ち着いたかよ?」
「うん。大丈夫。ごめんなさい」
抑揚のついた言葉でそう言うと、潮風になびく銀色の髪を抑えながら、白崎は俺に向かって微笑んだ。
「…………」
おかしい。白崎は何も変じゃないが、変じゃないのがおかしい。
俺に言われた事がそんなにもショックで、自分がどんな人間だったのかも忘れてしまったのか? 白崎の感情は淡白というよりも無に等しく、そんな簡単に泣いたり、笑ったりする奴じゃなかったはずだ。
奇跡のように思えていた白崎の感情の発露はいとも簡単に行われてしまっていた。充血した涙目でこちらに微笑む白崎は、全く白崎らしくなかった。
「黒屋?」
「……あっ、あ、ああ。大丈夫か。それならいい」
いやしかし、これはいい傾向なのではないか? 今まで機械人形みたいだと揶揄されていた白崎が、ごく自然に感情を露わにしているのだから。今の白崎を見て憂う事は何もないはずだ。
「……んで? お前は何を話したいんだ?」
「うん。……あのね」
白崎は立ち上がり、決意に満ちた表情を青白い海と空へと向けた。その表情は至って普通の女の子が決意を固めた時のそれだった。
なんとなくわかる。わかってしまう。この先の展開が――。
マンガとかドラマで今のこのシチュエーションが繰り広げられたとしても、大抵は主人公の勘違いで何事もなく終わりを迎えるものなのだが……。
「私、好きなもの見つけたの……好きな人ができたの」
勘違いであって欲しいと、何かに願いたい。
「わたし……黒屋が好き。大好きなの……ずっと一緒にいたいの!」
白崎のものとは思えない声。それは今までの自分自身がため込んできた感情の全てをさらけ出そうとしているかのように大きく、どこまでも響き渡る。大海原へと轟いた白崎の感情を隣で聞きながら、俺は大きく息を吸い込み空を見上げては吐き出した。




