感情の道標―1
殺人的な熱を持った照りつける陽光や、周囲を取り囲まれているかのように聞こえてくるセミの声が本格的な夏の到来を知らせてくる七月。扇風機しかない自分の部屋は寝苦しくて朝早く目が覚めてしまい、いつもより早く来た教室には誰の姿もなかった。
誰もいない教室に欠伸を一発かましてやり、自分の席へと座る。恐らく朝早くに来た阪無が開けたのであろう窓からは、四階という高さとあって生温い風が吹き込んでくる。自分の部屋よりかは過ごしやすい教室で、俺は机の上に突っ伏した。
「おはよう」
心地よい微睡みの外から聞こえてきた声に、頭を寝かせたまま首だけを回し横目で上を見上げると、肌に日焼け一つなく、汗一つかいていない白崎が俺を見下ろしていた。
俺なんて学校来るだけで汗でびしょびしょだっつーのに。なんつー涼しい顔してやがる。
「ああ。……おまえいつもこの時間に来てんのか?」
「うん。そうだよ」
なんでもないような簡素な答えを言いながら、白崎は自分の席に座った。
俺が教室に来てまだ五分と経っていない。いつも時間ギリギリに来ている俺は白崎がこんな朝早く学校にきて何をしているのか知らなかった。
「なあ。こんな早く来て何してんだ?」
「いつもは何もしてない……けど、最近は本を読んでる」
そういえば白崎が学校で本を読んでいるのを偶に見かける。まあ、隣だしな。
「今読んでるのはこれ」
そう言って『感情的になれる本』と表紙に書かれた本を俺に見せてきた。
自己啓発本……自分がそういう感情のない人間で、そこから脱却したいのだと、白崎はそう考えているのだろうか?
俺的には感情という表層的なものより、もっと根本的な問題が白崎にはあると思うが。
「道のりは遠そうだが、ま、がんばれよ」
自分の欠点を克服するために努力しようとするのは、むしろ俺なんかよりずっと人間味の溢れる行いだ。やはり感情の欠落が白崎を『機械人形』などと呼ばせる原因になのだろう。
背筋を伸ばし真顔で『感情的になれる本』を読む白崎の横顔から目を外し、また微睡みの中に戻ろうとすると、誰かが教室に入ってくる足音がその邪魔をした。
汗を拭いながら教室に入ってきたのは赤石だった。一番前の席に鞄を置いてこちらを見る。
「おはよう白崎。黒屋も今日は早いじゃないか」
「おはよう」
「夜が寝付けなくてな。白崎より早く来ちまったぜ」
「ふっ。いつも今日くらい早く来ればいいんじゃないか?」
言い終えて赤石は自分の席に腰を下ろし、白崎と同じように鞄から教本か何かを取り出して読み始めた。
こいつってこんなフランクな奴だったか? 最初俺がこのクラスに来た時は、俺に近寄んじゃねぇ! ……みたいな感じだったと思うが……あ、それは俺か。
赤石が軟化したのは恐らく、俺をボコボコにしてくれたあの時からだろう。殴られ慣れてるとはいえ、あの時蓄積された痛みの量は過去最高だった。何かと気に食わない部分はあったが結果的には治まりもよく、今では俺もなんとも思っていない。
ま、あれでよかったんだよな。
前より力の抜けた赤石の後ろ姿をニヤつきながら見ていると、赤石と同じく前方の扉から金髪女子の青野が現れた。元から胸元の大きく開いたブラウスをガバガバと揺らし、教室内に循環する風を服の中に取り込んでいる。
「おはよー」
教室を見渡すように前方を通り抜けながら挨拶する青野は、俺を見て動きを止めた。
「って……黒屋いるじゃん。なんでこんな早いの?」
「……夜寝付けなかったんだよ。言っておくが、白崎より早く来たんだぜ?」
「へぇー。いつもそんくらい早く来ればいいじゃん」
照れながらそう言うと、窓際の席に座った。
青野も最初は俺を見て忌避するように遠ざかっていたが、今となってはすっかり当たり障りのいい奴になっていた。元々はこういう性格だったのか、最近では白崎や黄地とも仲良さそうに話しているのを見かける時がある。欠陥クラスという蔑まれた看板が気に入らなかっただけでクラスメイトを嫌っているというわけではなかったらしい。
青野としても、今じゃこのクラスが居心地のいい場所になっているのだろう。涙を流してしまうような緊張状態に陥りさえしなければ、こいつは至って普通なギャルだ。
席に着くなりスマホを弄っている青野を見て、事故に遭った親友にでもメールを送っているのだろうか? なんて考えていると、今度はドタドタと慌ただしい足音がまた前方から聞こえてきた。
「はぁっ。はぁっ。なんとか遅刻せずに済んだみたいですね」
目をギンギンに見開き、長い黒髪をボサボサにし、汗をダラダラと垂れ流しながら黄地が教室へと入ってきた。
「あはは。みなさんおはようございます」
「今日はいつもより遅かったじゃないか。どうかしたのか?」
赤石が黄地の様子を見てそう言った。
「ちょっと寝坊をしてしまいまして。漢字の練習をしていたら夢中になってしまって、大分夜が更けていたものですから。あはは」
まさか……。
あの恐怖のノートを思い出しただけで身震いした。
「あ、黒屋さん。今日は早いのですね」
「…………白崎より早く来たんだよ。すげぇだろ?」
「あ、あはは。なんか怒ってらっしゃいます? いつもそれくらい早く来ればすごいとは思いますが」
くぅっ……。やはりいつも遅刻ギリギリで来てるからか返しが一緒過ぎる。一番乗りのこの俺を褒めたたえてくれる奴は誰もいねぇのか……毎日この時間は流石に無理だが。
「あっ。黄地、髪ボサボサじゃんか。せっかく綺麗な髪してんのにさぁ」
窓側の一番前に座った黄地に向かって、三つ後ろの席の青野が喋りかけた。
「あはは、今日は髪を梳かす時間も惜しかったので」
「ちょっとこっち来なよ。あたし梳かしてあげるから」
「ホントですか? そ、それではお願いします」
そうして恥ずかし気に黄地は青野の前の席に座り、青野は鞄から取り出した櫛で黄地の黒髪を梳き始めた。黄地は気持ちよさそうな顔をしており、青野もなんだか楽しそうに黄地の髪に指を通していた。
人の温かみに触れていたい――黄地はそう言って白崎と、そして青野とも仲良くなれた。
いつもニヤニヤとした気味の悪い笑顔の裏に、俺には到底計り知れないであろう葛藤があった。その証拠は今となっても長袖ブラウスの下に隠されている。腕の傷が消えない限り、黄地の感じる痛みはいつまで経っても消えずに残り続けるのだろう。
しかし――特進科という少人数のクラスではあるが――こうして誰かと仲睦まじい姿を見せているのは、それもまた、幸せを感じているという証拠になるのだろう。
時計を見てみるとホームルームが始まるまで五分を切っていた。教室には黄地と青野が交わす言葉が聞こえてきているだけで静かな教室に変わりはないが、まるで他人同士が詰められたような前の殺伐とした雰囲気は、夏の暑さで蒸発してしまったらしい。
「はぁ。この教室も平和になったもんだ」
始業前からクラスメイト全員と挨拶を交わしてしまいすっかり眠気の吹き飛んだ俺は、片肘を突いて前の黒板をぼーっと眺めていた。
新品の鐘を彷彿とさせる甲高いチャイムの音が鳴り響く。同時に阪無が教室に現れ、パタッパタッパタ――間隔の短く、地面をはたきつけるようなスリッパの音を立てながら教壇へと登った。
バァンッ――。
激しい音と同時に生徒の注意が阪無へと向く。
予想通りか、阪無は教卓に持ってきた名簿を投げ捨て、両手を激しく叩きつけた。
「どうして……どうしてぇ……」
開口一番、俯きながら言った阪無の声は、怨念が宿っていそうなほど低い。
そして――悲痛な叫びが響き渡った。
「どうしてこの時期に誰も、進路決まってないのよぉおおっ!」
「ふんっ」
「うん」
「ああ……」
「げげっ!」
「あいたー」
真夏の太陽は既に登り始めている。しかし俺たちの夏休みは、まだ遠い――。




