悲しみの重さ―6
「んっ。あー……」
瞼を開けると、まず清潔感のある真っ白な天井が見えた。
知らない天井――いや、知ってるわ。つーか何回か来た事もある。授業サボるのにだいぶ世話になった場所だが、そういや最近使ってなかったな。
階段から落ちたのは憶えている。俺は状況を悟り、ゆっくりと身体を起こそうとした。
「いぃっ、つつ。結構激しく打ったか……」
身体中――主に背面――にズキズキとした痛みが走る。しかしどこも打ち身程度のものだろう。頭を打って軽い脳震盪って感じだろうが、後で病院とか行っといたほうがいいか?
簡単に自分の身体の状態を確認し、辺りを確認するが誰もいない。というより、淡い水色のカーテンで仕切られているから、少なくともベッドの周辺には誰もいない。
しばらく身体を起こしたままぼーっとしていると、カーテンが小さく揺れ始めた。
ちら――ちらちら。
カーテンの隙間から俺を覗いている人物がいた。
「…………おい。ばれねぇとでも思ってんのか?」
「ひっ。ご、ごめん」
カーテンの裏側から叱られた子供のように出てきたのは、制服姿の青野だった。申し訳なさそうに肩を落としながらベッドの横に立ち、言うべき自分の言葉を探しているように見えた。
「あっ、その……えっと、あの~」
あたふたとする青野は見ていて面白かったから黙っていようとも思ったが、また違う人物が開けたカーテンから顔を覗かせた。
「黒屋。大丈夫?」
ひょっこり出てきたのは、本当に人の心配をしているのかどうかも怪しい無表情の白崎だった。だがこうして様子見に来てるのは、少なくとも心配はしているのだろう。
白崎は青野の隣に並んで立った。
「ああ。大丈夫だ。ちっとまだ頭がフラフラすっけどな」
大丈夫だという証拠に軽く微笑んでやった。白崎は「よし」と言って、感情を込めずに軽く頷いた。
聞くところによると今は放課後らしい。あれから俺はずっと眠っていたようだった。
青野は何か言いたげな面持ちから少しだけ安心したように笑っていたが、意を決したように顔を引き締めると「黒屋!」と俺の名を呼んだ。
「ごめん! あんたを突き飛ばすつもりなんてなかった。でも……あたしっ! もう周りが見えてっ……なぐっでぇ」
「お、おいおい。なんで泣くんだよ。そんなのわかってるって!」
謝罪の途中で泣き始めた青野。本当にこいつは泣き虫なのだと改めて思った。
「ごめんっ……でもあたしこういう奴だからぁっ、あたしがっ、あんたを突き落としちゃったって、ぐすっ……思ったからぁっ」
かすれた声を絞り出しながら、青野は俺に「ごめん」という謝罪を繰り返した。
「はぁ~。わかった」
俺は両手を頭の後ろに回し、また身体をベッドに倒した。
「ふぇ?」
「じゃあ好きなだけ泣け。いつまでも引きずってんじゃねぇよ。俺を突き落としたっつー罪悪感も、親友を心配する不安も、お前の中で今重荷になっている全部を今吐き出しちまえ」
俺は別に青野に怪我させられたなんて思ってもいないし、青野の親友の件だってそいつは大丈夫だって言っているんだ。後は青野の心の中、自分で決着をつけない限り俺ら他人にはどうにもできない。
悲しみなんて涙と一緒に身体から全部流してしまえ――そう言ってやるしかできないんだ。
「う……ひっく、えぐっ」
青野は俺に背を向け、保健室の隅っこで静かに泣き続けた。そのすすり泣く声を俺は黙って目を閉じて聞き続けた。悲痛な声だけを聞いていると、どこか懐かしい小さい頃の自分を思い出す。行き場のない感情を目一杯さらけ出し、泣いた後の晴れ渡る瞬間が割と好きだったあの頃を――。
青野に代わり、今度は白崎が話しかけてきた。
「私、わかった気がする。青野さんの涙の理由が――」
「あのなぁ……」
が、俺は白崎の言葉を聞き終える前に遮った。
「人が悲しむ理由なんて聞いても意味がないっていい加減わかれよ。前にも同じような事言ったが、人は悲しくったって泣くし、嬉しくても泣くし、何も感じていなくっても泣く奴だっているんだ。別に青野に限った話でもねぇんだぞ?」
「…………」
「泣いた奴にしかわかんねぇんだよ。涙の理由なんて。それを聞いたところで、おまえの求める答えは返ってこねぇよ」
この言葉は少し残酷だっただろうか。悲しみという感情を不必要だと感じている白崎には到底わからない――結局俺も、白崎を『機械人形』だと罵った青野と同じだった。
「ならわかる! 白崎にも!」
目を充血させたまま、泣き終えた青野が急に白崎に迫った。
「は? どうしたんだよ急に」
「ごめん白崎……あたしさ、あんたって人間味のひと欠片もない機械だって本気で思ってた。逆に悲しい感情が真っ先に出ちゃうあたしとは正反対なんだって」
「ううん、その通り。私には普通の人の感情がわからないから、青野さんがそう思うのも仕方ない」
青野は持ち前の金髪を振り乱しながらブンブンと首を振った。
「でもあんたもあたしと一緒に泣いてたじゃん! 黒屋が倒れて心配そうに駆け寄ったじゃん!」
「…………」
「え? そうなのか?」
俺は思わずベッドから身体を起こした。
確かにあの時、霞んでいた視界に二人の人影がいた。まず一人は青野だろうとわかったが、もう一人駆け寄ってきたのはどうせ黄地だろうと思っていた。そして遠くなっていく自分の名を呼ぶ声が二種類あった気もする。誰かは判然としなかったが。
もしそうだったとしたら……ちょっと見たかったな。
「泣いてない。私は泣いてない」
無表情のまま、白崎はそう言い放った。
「え? いや、泣いてたじゃん。黒屋が気を失った後なんて、黒屋の身体を揺さぶりながら、くろやぁ~、くろやぁ~、って。あれはあたし以上に号泣だったわね」
「そんなにっ? 号泣だったのかっ?」
直立不動の白崎を見るが、白崎は真向いのカーテンを直視しながら何度も同じような言葉を繰り返す。
「泣いてない。私は泣いてない」
「だからあたしって……あたしだけじゃない。他の皆もあんたを知らないだけなんだよ。あんたもあたしたちと同じ、普通に涙を流せる人間なんだって」
白崎の声が届いていないのか、青野は白崎に向かって申し訳なさそうに言い続ける。
「あたしさ、普通科のクラスにいた時なんか、こうして自分を煌びやかに着飾って中心グループの端っこでこそこそしてた。あまり目立たないように、でもクラスの中心からは外れないようにって、愛想振り撒いて悲しい事から遠ざかろうとしてた。誰か友達同士が喧嘩したり、自分が矢面に立ったりするだけで、私はわんわん泣くような奴だったから。でもそれも限界で、人の少ない今の特進科に逃げてきた」
「うん」
「特進科に来て最初に見た時から、あたしはあんたが嫌いだった。どうしてそんな風に周りの何もかもを気にしないでいられるの? あたしには親友って言う支えがいたから何とか頑張れているのに、どうして一人で堂々と生きていられるの? ……ってついさっきまではそう思ってたんだけど」
「…………」
「でもさっき黒屋に泣きつく白崎を見てあたし、あんたの事がちょっと好きになっちゃったかも。あ、この子も私と同じように泣けるんだ、黒屋を想って泣いてあげられるんだ、って思ったらね」
青野は白崎に向かってウインクした。まあ随分と友好的になったもんだ。
白崎だって青野だって、赤石や黄地だって何らかの問題があって特進科に来た。予想でしかないが青野も相当苦しんでいたに違いない。
青野みたいに感情が勝手に溢れ出てしまう奴にとって、白崎は一体どんな感受性を持っているのかと考えてしまうのは仕方ないのだろう。ツッパってる奴がいい例だが、自分とはかけ離れた人間に対して攻撃的になってしまうのはよくある。
今回二人、というか青野の一方的な敵意であったが、俺がこうして被害を被った事で和解できたというのなら、これで良かったのだと安心しておこう。
「黒屋も、その……あたしの話聞いてくれたりして助かった。……ありがと」
言いづらそうに胸に手を当てながら、青野は頭を下げた。真面目に礼を言われてしまったが、青野の普段の態度からくるギャップのせいであろうか、かえって素直に受け取りづらい。
「フッ。礼なんて言う前にさっさと泣き癖を直すんだな。俺を階段に突き落としてヘラヘラ笑ってられるぐらいの胆力がありゃあ十分だと思うぜ」
頭を下げた青野を鼻で笑う。まるで先輩にでもなった気分だった。
「んなっ。人がせっかく真面目にお礼言ったのにぃ~! 今度は後ろから突き落としてやるから!」
青野はベッドであぐらを組んでいる俺を指さし、堂々と宣戦布告してきた。
自分のため、誰かのため――人が心を痛めて涙を流すのは当たり前でありながら、ありきたりな日常を過ごしていく上で非常に目につく感情だ。その事実を誰もが知っていてそれを隠そうとし、感情を堪える。堪えきれず溢れ出た涙は周囲を巻き込み、異常の渦を発生させてしまうから。
人は成長していくにつれて『泣く』と言う非常識を忘れてしまう。泣いてしまう意味を曖昧にしたまま生きていき、単なる羞恥心の塊だと吐き捨てる。自分の背中に重くのしかかる悲しみを軽くしてしまえる方法の一つだと、わかっているのに。
青野を見てそんな考えにふける俺は前に泣いた記憶を思い出し、小学生だった自分が泣いているシーンを記憶の中に映し出していた。あの頃確かに自分のものだった感情は、今はもう薄れ、自分の身体中どこを探しても見当たらなかった。
「ははっ。望むところだ」
まだ人生の十七年しか生きていない俺はこう思う。
人前で涙を流すのは尊い感情なのだ――と。




