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巨人  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第14章 底流


社交ができない中で残りの日々を過ごすとはどういうことか、少なくともどんなに退屈であるにせよ、自分の娯楽の源を、自分が最高だとも最重要だとも見なされない事実を常に思い起こさせるグループや人たちに限定するとはどういうことか、をクーパーウッドが痛感したのは、二人が社交できなくなった翌年からその次と次の年にかけてだった。最初にアイリーンを社交界に進出させようとしたとき、いったん認められてしまえば、最初はどれだけつまらないと思うことがあるかもしれないが、自分たちならそれをとても面白くも華麗にさえもできる、というのがクーパーウッドの考えだった。しかし、付き合いを拒絶されてからというものは、もし何か社交を楽しみたかったら、知り合いをかき集めることができるいろいろな格下のグループに頼らないと駄目なことに気がついた……通りすがりの俳優や女優には時々ディナーを振る舞うことができた。芸術家や歌手は紹介してもらって自宅に招待することができた。もちろん、ハートシュタット夫妻、ホエクセマ夫妻、ビーデラ夫妻、ベイリー夫妻たちみたいな社交界で重要ではないメンバーは結構いて、今でも友好的で、気兼ねなく進んで来てくれた。クーパーウッドは時々、仕事上の友人や絵の好きな人や若い芸術家を自宅のディナーや夜会に招くのも面白いと思った。こういう場にはいつもアイリーンがいた。アディソン夫妻は来てくれたし時々招待してくれることもあった。しかし、つまらないといったらなかった。こうして完全な敗北ぶりがはっきりすればするほど余計につまらなかった。


クーパーウッドは思うのだが、この敗北は本当は全然自分の落ち度ではなかった。自分は十分にうまくやってきた。もしアイリーンがもう少し違うタイプの女性だったらよかったのに! それでも、クーパーウッドにはアイリーンを見捨てたり非難する気は全然なかった。ひどい獄中生活を送る間も自分から離れずにいてくれたのだ。自分が励ましを必要としたときにアイリーンは励ましてくれた。クーパーウッドはアイリーンのそばにいて、もう少ししたら何ができるか確かめるつもりだった。しかしこの仲間はずれは、わびしくてやりきれなかった。それどころか、自分だけなら男性にも女性にもますます興味を持たれているように見えた。自分が築いた友人たち……アディソン、ベイリー、ビーデラ、マッキベンなど……とは付き合いが続いていた。社交界にはアイリーンを失って嘆く女性はいなくても、彼を失って嘆く女性は大勢いた。時折、アイリーン抜きでクーパーウッドだけ招待されることがあった。最初のうちはいつも断っていたが、やがて、時々アイリーンに内緒で独りで晩餐会に行くようになった。


この空白の期間にクーパーウッドは初めて自分とアイリーンの間には知性と精神の面で顕著な差が存在すると考え始めた。自分はアイリーンと多くの点で……感情面や物欲や楽しくやるのが好きな……一致点があったかもしれないが、それでも自分だけにできて、アイリーンにできないことがたくさんあった。アイリーンには到底ついて行けない高みでも自分はたどり着くことができた。シカゴの社交界など無視すればいいのかもしれない。しかしクーパーウッドは今や、旧世界が女性像として掲げねばならない最高のものとアイリーンを鋭く対比させるようになった。シカゴで社交界を追放され大儲けをした後、再び海外に行く決心をした。ローマでは(裕福なので紹介された)日本やブラジルの大使館や、新しくできたイタリアの宮廷で、魅力的な社交界のかなりの大物……イタリアの伯爵夫人、イギリスの貴婦人、とても優雅で社交上手なアメリカの才女…………に距離を置いて遭遇した。相手は一様にすばやくクーパーウッドの態度の魅力や、思考の切れ味と理解力を認めて、その魂の優れた個性の価値をすべて評価した。しかしアイリーンがあまり受け入れられていないことはクーパーウッドにもいつもわかった。アイリーンは身の回りのものが豪華すぎ、派手すぎだった。その輝くような健康と美貌は、自分に魅力がない大勢の人たちの、見劣りする、昇華させざるを得ない魂を傷つける類のものだった。


「あなた、ああいうのが典型的なアメリカ人ってわけではありませんよね」クーパーウッドは、とても多くの人が自由に参加できる大々的なごく一般的な宮廷レセプションの一つで、ある女性が発言するのを聞いた。そこへはアイリーンも行くと決まっていた。クーパーウッドはわきに立っていて、知り合った相手……グランドホテルに滞在中の英語を話すギリシャの銀行家……と話をしていた。アイリーンはその銀行家の奥さんと散歩していた。発言したのはイギリス人の女性だった。「派手だし、自意識過剰だし、世間知らもいいところね!」


クーパーウッドは振り向いて見た。アイリーンのことだった。話している女性は紛れもなく育ちが良く、思慮分別があり、容姿端麗だった。女性の言い分はもっともだと認めざるを得なかったが、では、いったいアイリーンのような女性はどう評価すればいいのだろう? どんな形であれ非難にはあたらなかった……生きることが大好きで輝いているただの血気盛んな動物だった。アイリーンはクーパーウッドにとっては魅力的だった。明らかに保守系の人たちが、盛んにアイリーンに反発するのが残念でならなかった。自分にわかるものがなぜ彼らにわからないのだろう……豪華さや見栄えの良さに子供のように夢中になるのは、おそらく幼い頃アイリーンが必要とし憧れていたのに、上流らしい生活を楽しんでこなかったからなのだ。クーパーウッドはアイリーンを気の毒だと思った。それと同時に、今は別のタイプの女性の方が、自分の社交にとっては好ましいと感じるようになった。もっとしっかりしたタイプ、もっと芸術をよくわかって、正当な社交の仕方というか態度を好む人が相手だったら、自分はどれだけ助かるだろう! イタリアで入手したペルジーノを一点と、ルイーニ、プレビターリ、ピントゥリッキオ(この最後はチェーザレ・ボルジアの肖像)の素晴らしい作品を数点、さらにカイロで見つけた特大の赤いアフリカの花瓶の二点は言うまでもなく、ローマで見つけた高い金色のルイ十五世時代の彫刻を施した木の燭台、ベニスからは壁用の華麗な枝付き燭台を二点、ナポリからは書斎の片隅を飾るイタリア製の燭台一対などを自宅に持ち帰った。こうして徐々にアートコレクションが充実していった。


同時に、女性や性の問題に関しても、クーパーウッドの判断や見方は大きく変わり始めたと言わなければならない。アイリーンと初めて会った頃、クーパーウッドは人生やセックスについて多くの鋭い直感を持っていて、何にしても、自分の好きなようにやる権利があるという明確な信念を持っていた。出所後に再び上昇気流にのっているときにも、自分にちらほら向けられる視線はたくさんあった。自分は女性にとって魅力的なのだとはっきり実感させられたことが多かった。アイリーンを正式に手に入れたのはつい最近だったが、過去何年も愛人として自分のものだった。最初は心を奪われていた……ずっと奪われ続けていたといってもよかった……熱はさめた。クーパーウッドがアイリーンを愛したのは、美しいからだけでなく誠心誠意の熱意があるからだった。しかし、他の人たちが自分の中に一時的な興味や情熱さえも呼び起こす力は、あえてわかろうとも、説明しようとも、正そうともしなかった。それが現実で、彼はそういう人間だった。こうやって自分の衝動がみだりに他人に向かってしまうのをアイリーンに知らせて気持ちを傷つけたくはなかった。しかしそれが事実だった。


ヨーロッパ旅行から帰って間もないある日の午後、ネクタイを買いにステート・ストリートの高級服の店に立ち寄った。入店すると、ひとりの女性がカウンターからカウンターへと目の前の通路を横切った……好みのタイプの女性だった。しかしかなり離れたところから、その世界で人があちこち移動するのを見ていた。基本的にこざっぱりしていて見た目がしゃれた派手なタイプで、均整の取れた姿、黒い髪と目、オリーブ色の肌、小さな口、古風な鼻をしていた……どれも実に当時のシカゴらしい特徴だった。さらに、目には新しいことを知りたがる表情があって、生意気で横柄な雰囲気がクーパーウッドの征服感と支配欲を刺激した。女がほんの一瞬放った挑発と反抗の視線を受けて、クーパーウッドは好奇の目でライオンさながらににらみかえして女に冷水を浴びせた。それは険しい視線ではなく、ただ執拗でたっぷり含みのあるものだった。女は、仕事と自分のことしか頭にない裕福な弁護士のきまぐれな妻だった。女は最初に一瞥した後しばらく無関心を装ったが、何かレースの服でも調べるかのように少し離れたところで立ち止まった。クーパーウッドは目で女を追い、二度目になるほんの一瞬の魅惑の視線をとらえた。破りたくない予定をいくつかかかえていたので、手帳を取り出し、ホテル名と「二階のラウンジ、火曜日午後一時」と紙に書いて、女が立っているところを通り過ぎるときに、それを横におろしている手袋をした手に押し込んだ。指がそれを自動的に握りしめた。女はクーパーウッドの動作に気づいていた。クーパーウッドは名前を記さなかったが、女は指定した日時にその場にいた。この関係はクーパーウッドにとっては楽しかったが、長続きはしなかった。興味深い女だったが、あまりにも変わり者すぎた。


同じように、ある晩、最初に住んでいたミシガン・アベニューの家の近所の住人のヘンリー・ハドルストン邸での小さなディナーパーティーで、二十三歳の娘に出会った……一時的に夢中になった。娘の名前はあまり魅力的ではなかった……あとで知ったところではエラ・F・ハビィだった……本人はまんざらでもなかった。一番の魅力は、笑いが絶えないお転婆な顔つきと、おちゃめな目で、サウス・ウォーター・ストリートの裕福な仲買人の娘だった。娘の方でクーパーウッドのことが気になって関心が呼び覚まされるというのは十分に自然だった。若く、愚かで、影響されやすく、評判の華やかさに簡単に参ってしまった。ハドルストン夫人はクーパーウッド夫妻と、彼が手がけている、あるいは手がけるつもりの大きな仕事を高く評価していた。エラはクーパーウッドを見て、彼がまだ若く見え、目には美への愛情が宿り、自分が決して苦手ではない存在感があるのを知って、魅了された。アイリーンが見ていないと、エラの視線は、親しみと憧れの笑みを浮かべながら、絶えず彼の視線をさぐっていた。応接間に移動する時に、いつか事務所の近所に来たら立ち寄ってください、とクーパーウッドがエラに告げたのも、ごく自然なことだった。クーパーウッドがエラに向けた視線は鋭く物を言って、熱く興奮している同じ種類の視線の返礼をもたらした。エラは現れ、かなり短期間の関係が始まった。面白かったが、すばらしくはなかった。この娘は、漫然と相手を知る期間を超えてまで一緒にいたいと思うほどの気質を持っていなかった。


短い間だが、知り合った女性はもう一人いた。ジョセフィーン・レドウェル夫人という粋な未亡人で、最初は商品取引所に投機をしに来たのだが、紹介されるとすぐにクーパーウッドとの浮気の魅力に目が向いた。アイリーンにタイプが似てなくもなかった。少し年上で、あまり器量はよくなかったが、もっとしっかりしていて商才に長けたタイプだった。小粋で、自立していて、慎重だったので、クーパーウッドはかなりその気になった。関係を結ぼうと盛んに誘惑してついにやりとげ、ノースサイドにある未亡人のアパートがこの関係の拠点になり、およそ六週間続いた。クーパーウッドはその間ずっと未亡人のことがあまり好きではないと納得尽くだった。彼と付き合う者は、最初の妻が持っていた独特な魅力はもちろんアイリーンの現在の魅力と戦わねばならなかった。それはそう簡単なことではなかった。


クーパーウッドがついに人生に鮮烈な印象を残す運命の女性に出会ったのは、最初の妻との最初の数年間と必ずしも同じではなかったがどこか似ている、社交が芳しくないこの時期のことだった。すぐには忘れられない女性だった。名前はリタ・ソールバーグ。当時シカゴ在住のとても若いデンマーク人のバイオリニスト、ハロルド・ソールバーグの妻だった。しかし彼女はデンマーク人ではなかったし、夫はまぎれもなく音楽家だったが決して優れたバイオリニストではなかった。


おそらくみなさんはあらゆる分野で、志願者、本物に近い者、なりすまし……要するに、面白い人たち……が、ある意味で狂ったように熱中して、自分のやりたいことに打ち込む姿を見たことがあるかもしれない。彼らはそれなりに本職が受け継いできたものの外見と特徴をすべて見せて、金管楽器を吹いたり打楽器を鳴らしたりしている。彼がこのレベルの芸術家であることを認識するために、ほんの少しだけハロルド・ソールバーグを知ってもらわねばならない。彼は野性的で険しい寒々とした目をしていて、こめかみから上にすき上げたこげ茶色のざんばらで豊富な髪が、ひと房はぐれてナポレオンのように目の方にたれていた。頬はまるで赤ん坊のような色で、唇は厚すぎで赤くなまめかしく、鼻は立派で大きくふらんでいるがわずかに鷲鼻で、眉と口髭は彼の気まぐれで愚かな魂のように何だか燃え上がるようだった。二十五歳まで全然うだつがあがらず、何の関係もない女性と絶えず恋に落ちてばかりいたので、デンマーク(コペンハーゲン)を追い出された。母親に月四十ドル仕送りしてもらって、このシカゴで教師をやり数名の生徒をかかえていた。羽振りがよかったり空腹をかかえたりを交互に繰り返す不規則な生活をおくりながら、何とか面白い見せ場を作って生き抜いてきた。カンザス州ウィチタのリタ・グリーノーに出会ったのはまだ二十八歳のときだった。クーパーウッドに出会ったとき、ハロルドは三十四歳、リタは二十七歳だった。


リタはシカゴのアートスクールの学生だった。いろいろな学校行事でハロルドに会ったのは、彼の演奏が神がかっているように思えたとき、人生がロマンスと芸術で一色のときだった。季節は春、湖に日射しが降り注ぎ、船の白い帆が映える、街が金色のもやの中に包まれた物悲しい昼下がりに、少し散歩をして、話をして、なるようになった。土曜日の午後に突然結婚して、ミルウォーキーへ駆け出したかと思えば、今度は二人のために準備されたアトリエへ舞い戻り、愛が満たされるか、安らぐまで、キス三昧だった。


しかし決まりきったことをするだけでは生活が成り立たず、徐々に問題が表に出始めた。幸い、リタは金に困窮していなかった。リタは貧しくなかった。父親はウィチタで小さいが、実入りのいい穀物倉庫を経営していた。高尚な芸術だの音楽だのはどう考えてもこの父親には縁のないかけ離れた得体の知れないものだったが、娘の電撃結婚の後も仕送りを続けることにした。やせて几帳面で温和なこの男は、小さな取引のチャンスを大事にし、ウィチタのあまりぱっとしない社会の暮らしが性に合っていた。ハロルドが爆弾並の変わり者だとわかると、腫れ物をさわるように扱うことにした。しかし単純でも、徐々にとても人間らしくなっていったので、それがとても誇らしくなった……ウィチタでリタと芸術家の夫のことを自慢し、夏の間に隣人たちを仰天させようと二人を自宅に招いた。秋には農民も同然の妻が二人に会いに行って、旅行や観光、スタジオでお茶を楽しんだ。どう見てもそれは、面白くて、いかにもアメリカ的で、素朴で、めったにないものだった。


リタ・ソールバーグは幾分粘液質で、優しく、血気盛んで、四十歳になると太りそうな体をしているが、今は見惚れるほど魅力的だった。柔らかくてすべすべの明るい埃色の薄茶の髪で、潤いのある青灰色の目、白い肌、歯並びのいい白い歯をしているものだから、自分の魅力を自覚していい気になっていた。多くの多感な男性を興奮させたことに気づいていないふりをするために明るい無邪気な態度をとっていたが、自分が何をしているのか、それをどういうふうにやっているのか、楽しんでやっている、ということをちゃんとわかっていた。滑らかで柔らかい腕と首のすばらしさといい、肉体のふくよかさと色気といい、着こなしの優雅さと完璧さといい、リタは少なくともそういう効果を出す個性とセンスを意識していた。古い麦わら帽子、リボン、羽、バラを手にすれば、生まれつきの美意識を駆使して、どういうわけかそれを自分を引き立てるちょっとした被り物に変えることができた。何となく自分の魂を感じさせる白と青、ピンクと白、茶色と淡い黄色といった素朴な組合せを選んで、そういうものがウエストに巻いた艶のある茶色(あるいは赤)の大きなベルトや、柔らかいツバの顔を覆うほど大きな帽子の上の方に来るようにした。上品に踊ることができ、少し歌えて、感情を込めて……時には華麗に……演奏することができて、絵を描くことができた。しかしリタの技量はその場しのぎでしかなかった。彼女は芸術家ではなかった。リタの本質は自分の気分と思考に過ぎず、しかも、曖昧で、思いつきで、無秩序だった。リタ・ソールバーグは従来の見方に立てば危険な人物だったが、この時の本人の見方からすれば、まったくそんなことはなかった……ただの空想家で楽しんでいるだけだった。


リタの状態が少し変わったのは、ソールバーグがリタを……かなり……失望させ始めたからだった。実を言うと、ソールバーグは、すべての病気の中で最も恐ろしいものにかかっていた。心が不安定になり、本当に自分を見失って苦しんでいた。ソールバーグは時々、自分には偉大なバイオリニストや偉大な作曲家の素質があるのか、それとも最後まで本当は認めたくなかったがただの立派な教師に過ぎないのか、自信がなくなった。「私は芸術家なんだぞ」とよく言っていた。「ああ、この気質が悩ましいな!」それからまた「この犬めが! この牛めが! この豚めが!」と他人とこき下ろした。たとえ時々ある種の繊細さ、優しさ、覚醒、多少の注目を集める魅力の域に達することがあったとしても、演奏の質は極めて不安定だった。しかし、それはだいたい彼自身の思考の混沌ぶりを反映していた。ソールバーグは自分の技術を制御できなくなるほど乱暴で情熱的な動きを交えて、激しく熱狂的に演奏した。


「ああ、ハロルド!」リタは最初のうちはうっとりして叫んでいたが、やがてあまり自信が持てなくなった。


称賛される者になるためには人生も人格もどこかへたどり着かなければならない。なのにハロルドは、実際に本当に、どこへもたどり着いていないようだった。教えては当たり散らし、夢を追っては泣いた。リタは気づいたが、それでも一日に三度食事はとっていた。他の女性に夢中になることも時々あった。誰か一人の男性の人生で最も大切なものになることは、リタが自分という人間の価値だと思う、あるいはどうしても譲れないとする一線だった。だから歳月が経過して、ハロルドが最初は気持ちが動き、夢中になり、やがて行動に移して不貞を働くようになると、リタの気持ちは殺伐としてきた。人数を数えた……音楽を習う生徒、次が美術を学ぶ学生、そしてハロルドがパーティーで演奏した家の銀行家の妻。それからリタはいつになく機嫌を損ねて実家に帰り、ハロルドの方はひれ伏して悔い改め、泣くは、荒れるは、感情の赴くままによりを戻すが、やがてまた同じことが繰り返された。みなさんなら、どうだろうか? 


リタはもうハロルドに嫉妬しなかった。音楽家としての才能を信じなくなっていた。夫が他の女に見向きもしなくなくなるほど自分の魅力が十分ではなかったことにがっかりした。こればかりは面白くなかった。これは自分の美しさへの冒涜だ。自分はまだ美しいのだ。リタはふるいつきたくなるような豊満な肉体だった。アイリーンほど背は高くなく、実際に大きくもないが、リタの方が丸みを帯びたふっくらとした体つきで、もち肌で魅惑的だった。体格はあまり良くはなく、元気いっぱいというわけではなかったが、目や口、考えが定まらないところが不思議と魅力的だった。リタは精神面でアイリーンよりもずっと意識が高くて、美術、音楽、文学、時事問題などの知識ははるかに正確だった。恋愛にかけてはもっとずっと曖昧で相手の気を引いたりしていた。花、宝石、昆虫、鳥、小説の登場人物についての知識は豊富で、詩は散文も韻文もひととおり知っていた。


クーパーウッド夫妻が初めて会った時、ソールバーグ夫妻はまだニューアーツビルにスタジオを構えていた。すべては五月の朝のように澄み切っているように見えたが、ハロルドだけはあまり順調にいっていなかった。地に足がついていなかった。出会いは、クーパーウッド夫妻がずっと親しくしているハートシュタット夫妻が催し、ハロルドが演奏したティーパーティーだった。孤独だったアイリーンは、自分の人生を少しでも明るくするチャンスだと思い、平均よりはやや上にいそうなソールバーグ夫妻を自宅に招いて音楽の夕べを開催した。夫妻は現れた。


このときクーパーウッドはソールバーグを一目見て正確に相手を評価した。「安定性を欠いた感情的な気質」だと思った。「おそらく一貫性と応用力がないため自分の居場所が定まらない」しかし一応は相手を気に入った。ソールバーグは芸術家のタイプというか人物としては面白かった……日本の版画に出て来そうだった。愛想よく挨拶した。


「そして、ソールバーグ夫人ですね」相手のリズム、余裕、あどけなさを素早く察知して、気持ちを込めながら言った。リタは簡素な白と青の衣装だった……レースのひだ飾りの上の素肌に小さな青いリボンをいくつかつけていた。腕と喉が、いかにも柔らかそうで、あらわになっているのがたまらなかった。目ざといのに、優しくて、赤ん坊のような、かわいい目だった。


「実は」口を異様に丸めてリタは言った。これは話すときの特徴だった……かわいらしく口を尖らせた。「ここまでたどり着けないかと思いました。火事があったんですよ」……リタは『かぁじ』と発音した……「十二丁目で」(『じゅうに』は口では『じぁうに』だった)「消防車がそこらじゅうにいましたわ。一面、火の粉と煙だらけ! 窓という窓から炎が出てました! 炎といってもどす黒い赤……オレンジと黒といっていいくらいでした。それはそれできれいなんですけどね……そう思いません?」


クーパーウッドは魅惑された。「同感ですね」場面に応じて簡単に見せられる、偉そうでありながら同調的な態度で、和やかに言った。ソールバーグ夫人は自分にとって魅力的な娘なのかもしれないと感じた……やたらとベタベタするくせに、はにかみやなのだ……それでいて、はっきりしていて個性的だとわかった。腕も顔もすてきだとクーパーウッドは密かに思った。ソールバーグ夫人は、目の前の、しゃれた、冷たい感じの、几帳面な男を見ただけだった……かなり有能だと思った……きらめく鋭い目をしていた。大物に……有名にさえ……なることはないハロルドとは大違いだと思った。


「バイオリンをお持ちくださってありがとうございます」アイリーンはもう片方の隅にいたハロルドに言った。「あたしたちのために演奏しに来てくださるのを楽しみにしてました」


「きっとお楽しみいただけますよ」ソールバーグは感じのいい気取った口調で答えた。「ここはすてきなところですね……すてきな本、翡翠、ガラスだらけだ」


やたら丁寧で迎合しがちだがそこが魅力的だとアイリーンは思った。こういう人には強くてお金持ちの女性がついて面倒をみてあげるべきなのだ。乱暴で不安定な子供も同然なのだから。


軽食が振る舞われた後、ソールバーグは演奏した。クーパーウッドはその立ち姿、目や髪に興味を持ったが、それ以上にソールバーグ夫人のことが気になって、ずっと目が離せなかった。鍵盤の上の手、指、肘のえくぼを見つめた。何てかわいい口なんだ、何て軽いふわふわの髪なんだ、と思った。しかしそれだけにとどまらず、全体に影響を及ぼす雰囲気があった……ほんのささいな心の綾が、クーパーウッドにも届き、心を通じ合わせ、彼女に対する熱い思いを抱かせさえた。ソールバーグ夫人は彼が好きになるタイプの女性だった。六年前のアイリーンにどこか似ていた。(アイリーンは今三十三歳で、ソールバーグ夫人は二十七歳である。)ただアイリーンの方がいつもたくましく、活発であり、漠然としたところが少なかった。ソールバーグ夫人は南洋の牡蠣の殻の華美な色合いの内側のようだった……暖かみがあって、色鮮やかで、繊細だった。(クーパーウッドは最後に自分でそう思った。)しかしそこにはしっかりした部分もあった。社交界の中でも彼女のような人は見たことがなかった。魅力たっぷりで、官能的で、美しかった。自分が見ていることにようやく相手が気づくまでクーパーウッドは相手から目を離さなかった。すると夫人は口を色っぽく結んで茶目っ気のある笑顔を浮かべて見返した。クーパーウッドは虜になった。彼女は無防備なのだろうかとクーパーウッドは思った。このかすかな微笑に、ただの社交辞令以上の意味があるだろうか? おそらくはないだろう。しかし自分の気質でこの豊かで満ち足りた気質を覚醒させることはできないだろうか? 夫人が演奏を終えたタイミングでクーパーウッドは「ギャラリーを歩いてみたくありませんか? 絵はお好きですか?」と言って腕を差し出した。


「実はね」ソールバーグ夫人は言った。とてもかわいらしかったので、奥ゆかしく、とても魅力的だとクーパーウッドは思った。「これでも一度は一流の画家になろうって思ったんですよ。おかしいでしょ! 『恩人に』と銘打って作品の一つを父に贈ったんです。それがどんなにおかしいかをわかっていただくには実物を見ていただかなくてはなりませんけど」


夫人はやさしく笑った。


人生に新たな関心を抱いてクーパーウッドは応えた。彼女の笑いはクーパーウッドにとって夏の風のようにありがたかった。「ほら」二人がガス灯の柔らかい光に照らされた部屋に入るとクーパーウッドは穏やかに言った。「これは昨年の冬に購入したルイーニです」それは『聖カタリナの神秘の結婚』だった。夫人がやせ細った聖者のうっとりした表情に見入る間は話すのをやめた。「そしてここにあるのが」と話をつづけた。「今のところ最高の掘り出し物です」二人は、ピントゥリッキオが描いたチョーザレ・ボルジアの狡猾な表情の前にいた。


「何て変な顔なんでしょう!」ソールバーグ夫人は無邪気に言った。「彼を描いた者がいたとは知りませんでした。彼自身が何だか芸術家に見えません?」夫人はこの男に関する複雑で実に悪魔じみた歴史を読んだことがなく、彼の犯罪と陰謀の噂を知るだけだった。


「彼は彼なりにそうでしたよ」クーパーウッドは微笑んだ。彼の人生についてはざっと知っていたし、父親の教皇アレクサンデル六世の分は購入した時に教わった。チョーザレ・ボルジアに関心を持ち始めたのはつい最近だった。ソールバーグ夫人にはその含みのあるユーモアがよくわからなかった。


「まあ、これはクーパーウッド夫人ね」ヴァン・ビアーズの作品の方を向きながらソールバーグ夫人は言った。「色調が濃いですね?」高慢な物言いだったがクーパーウッドの好きな無邪気な高慢さだった。彼は女性の中の元気がいいのと多少ずうずうしいところが好きだった。「なんて鮮やかな色づかいなんでしょう! 庭と雲の感じがいいですね」


夫人は後ろにさがった。クーパーウッドは夫人にしか興味がなかったので背中のラインと横顔をながめた。体の線も色も完璧に調和している! 


「あらゆる動きがうまく形をつくってうきうきしているでしょ」と言ってもよかったが、代わりにこう言った。「場所はブリュッセルです。雲はあとで思いついたものです、壁の花瓶もね」


「とてもいいと思います」ソールバーグ夫人は感想を言ってさがった。


「このイズラエルスはいかがですか?」クーパーウッドは尋ねた。それは『質素な食事』という絵だった。


「好きですわ」夫人は言った。「バスチャン・ルパージュなんかもね」と『鉄工所』に言及した。「でも往年の巨匠の方がずっと面白いと思います。もっとたくさん手に入れたら、ひと部屋にまとめるべきよ。そう思いません? でも、あなたのジェロームはあまり好きじゃないんです」夫人はかわいらしくゆっくりと言った。クーパーウッドはそれを限りなく魅力的だと思った。


「どうしてですか?」クーパーウッドは尋ねた。


「だって、いかにも工夫しました感じなんですもの。そう思いません? 色は好きなんですが、女性の体が完璧すぎると言えばいいかしら。とてもすてきなんですけどね」


クーパーウッドは芸術の対象としての価値以外に、女性の能力をろくに信じなかった。しかし、時々、女性はこうしてすてきな洞察力を発揮して自分の洞察力を研ぎ澄ますことがあった。アイリーンではこういう発言はできないと思った。今のアイリーンはこの女性ほど美しくなかった……純真さ、素朴さ、味わい深さも魅力を失い、それでいて賢くなかった。ソールバーグ夫人は一種の馬鹿を夫に持ったとクーパーウッドはちゃかり見ていた。果たして、この自分、フランク・クーパーウッドに関心をもつだろうか? こういう女性は離婚と結婚以外の理由で降伏するだろうか? クーパーウッドは考えた。ソールバーグ夫人の方では、クーパーウッドは何て強烈な男性だろう、随分と自分の近くにいついたままでいる、と考えていた。自分に気があるのだと感じた。他の男性でもよく見た症状だったし、それが何を意味するかは知っていた。夫人は自分の美しさの魅力を心得ていた。それをできるだけ芸術的に高める一方で、この人のためなら違うことをする価値がある相手に会ったことがないと感じながら、距離をとってもいた。しかし、クーパーウッド……この人にはアイリーンよりももっと多感な相手が必要だ、と夫人は考えた。




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