波音
死のうとしている人間を助けたら、恋をされた。
正確に言えば、依存だと思う。
でも彼女は、それを“好き”って呼んだ。
海沿いの風は、思っていたより冷たくなかった。
頬に当たる空気は湿っていて、生ぬるくて、息を吸うたびに肺の奥に薄い膜が張るみたいだった。
休職して三日目だった。スマホは通知を切っている。
上司から何かきているかもしれないし、きていないかもしれない。
どっちでもよかった。返せないことは、決まっていたから。
朝、目は覚めていた。
けれど起き上がれなかった。眠いわけじゃない。
ただ、体が動く前提で作られていないみたいだった。
トイレに行くのも、顔を洗うのも、服を着替えるのも、全部に小さな決意がいる。
その小さな決意を積み重ねるだけで、一日分の体力が尽きる。
結局、昼を過ぎてから起きて、昨日のペットボトルの水を飲んで、何も食べないまま外に出た。
理由は特になかった。
部屋にいると、呼吸の音までうるさく感じたから。
海の方へ歩けば、少しは頭の中が静かになる気がした。
波の音は一定だった。
ざあ、ざあ、と途切れなく押しては引いていく。
その単調さがありがたかった。
考えなくて済む。何かを判断しなくて済む。
生きるか死ぬかみたいな大きな話じゃなくて。
今日シャワーを浴びるかとか、洗濯物を回すかとか、そういう小さなことすら決めるのがしんどいとき、海の音は便利だった。ただ聞いていればいい。
そのとき、防波堤の先に人影が見えた。
女だった。白いワンピースが風に揺れている。季節に合っていない服装だと思った。
それから足元に目がいった。靴が、きちんと揃えて置かれていた。
ああ、と思った。
理解するまでに時間はかからなかった。こういうのは見ればわかる。
説明されなくても、わかってしまう。
足が止まった。
声をかけるべきなのか、見なかったことにするべきなのか、それすら判断がつかなかった。正しいのはたぶん前者だった。
ゆっくりと、近づく。女は気が付かない。
けれど、「やめろ」も「死ぬな」も、喉のところで全部止まった。
そんな言葉を言えるほど、自分が生きる側に立っている気がしなかった。
代わりに出てきたのは、どうしようもない本音だった。
「……俺もさ」
女が、ゆっくり振り返る。
思っていたより普通の顔だった。泣いてもいないし、怯えてもいない。少しだけ疲れている、それだけの顔。
「明日どうするか、まだ決めてないんだよね」
言ってから、自分で何を言ってるんだと思った。
助ける気なんてたぶんなかった。正しいことを言う余裕もなかった。
ただ、嘘がつけなかった。
女はしばらく黙っていた。風の音だけが二人の間を抜けていく。
それから、小さく笑った。
「なにそれ」
その一言で、彼女は飛ばなかった。
ただ、それだけのことだった。
俺が何か特別なことをしたわけじゃない。
たまたま、タイミングがずれただけ。
たぶん、それだけだった。
彼女は防波堤の先から一歩戻り、裸足のままこちらへ歩いてきた。
ひた、ひた、とコンクリートに足音が落ちる。
近づくにつれて顔がはっきりする。
大学生くらいだと思った。化粧は薄くて、目の下に少しクマがある。
「……寒くないの」
口から出たのはそれだった。
「別に」
素っ気ない返事のあと、彼女は靴を履いた。かかとを踏んだまま。
死ぬつもりだったくせに、最後の最後が雑だなと思った。
「帰るの?」
俺が聞くと、彼女は少しだけ首を傾げた。
「どこに?」
質問というより、本当にわからない顔だった。
ああ、と思う。帰る場所がないやつの顔だ。
俺とは種類が違う。でも、似ていた。
俺には部屋がある。鍵もある。布団もある。
けれど、帰ったところで何も待っていない。
帰る場所があることと、帰れる場所があることは、たぶん別なんだろう。
「……とりあえず、あったかいとこ行く?」
言ってから後悔した。
知らない女だぞ。面倒に決まってる。
けれど彼女は少し考える素振りを見せてから、あっさり言った。
「うん」
軽かった。どこに連れていかれても同じ、みたいな声だった。
まだ死ぬのを諦めたわけじゃない。
ただ、タイミングが後ろにずれただけ。
それが、伝わってきた。




