2-16:魔素
「総理、昨夜の調査結果がまとまりました」
早朝の執務室に、資料の束が届けられる。
九条恒一は、まだ疲労の残る顔で、それを受け取った。
昨夜、あの配信をリアルタイムで見ていた一人だった。
執務を終え、深夜まで固唾を呑んで見守っていたことは、誰にも言っていない。
「結論から聞かせてくれ」
「はい」
報告に来た職員が、資料を開く。
「まず、確認された生物――便宜上『鬼』と呼称していますが、これが今回の出現率上昇の直接的な原因である可能性が極めて高いと判断されます」
「上位個体、ということだな」
「はい。加えて、その生息域周辺に確認された発光現象について、分析が進んでいます」
次の資料が示される。
「研究班による現地サンプル採取の結果、大気中に、これまで確認されていなかった未知のエネルギー粒子が、高濃度で存在していることが判明しました」
「未知のエネルギー」
「はい。仮称として『魔素』という呼称が、研究班内で使われ始めています」
九条は、思わず、資料をめくる手を止めた。
「......魔素、か」
その響きに、覚えがないはずがなかった。
何十冊、何百冊と読んできた、あの手の物語の中で、何度も目にしてきた言葉。
だが、今度は、誰かがふざけて使っているわけではない。
正式な研究班の、正式な報告書に、その言葉が記されている。
「命名の経緯は」
「有識者委員の南様が提案されました。異論はなく、そのまま採用された形です」
九条は、小さく息を吐いた。
(また、あの四人か)
不思議と、可笑しさが込み上げる。
この国は、もう完全に、あの分野の知見を当たり前のものとして受け入れている。
「この魔素とやらは、生物にどう影響する」
「まだ、詳細は不明です。ただし」
職員が、慎重に言葉を選ぶ。
「調査団に同行していた探索者の一人、天音澪氏について、気になる報告が上がっています」
「気になる報告?」
「調査中、頭痛や知覚異常を訴えており、現在も経過観察中です。医療班の見立てでは、命に別状はないとのことですが」
「原因は、魔素の影響と見て間違いないか」
「その可能性が高いです。彼女は、以前から周囲より鋭敏な知覚能力を持つと評価されていた探索者でもあります」
九条は、少し考え込んだ。
もし、この未知のエネルギーが、生物――特に、人間に特殊な作用を及ぼすのだとしたら。
(まさか、な)
頭に浮かんだ考えを、一度は打ち消す。
だが、この半年、そうやって打ち消してきた予感の多くが、結局は現実になってきた。
「引き続き、天音氏を含む、現地で長時間魔素に曝露した者への経過観察を継続してくれ」
「かしこまりました」
「あと」
九条は、資料の最後のページに目をやった。
昨夜の戦闘の詳細記録。
鬼の弱点を的確に見抜き、単身で仲間を守り抜いた、若い探索者の姿。
「神崎くんの働きについては」
「見事の一言です。相馬隊長からも、絶大な信頼を得たと報告が上がっています」
「そうか」
九条は、静かに頷いた。
「彼には、改めて、政府として正式な謝意を伝えたい。あと、負傷した探索者への支援も、最大限に」
「承知しました」
「それと、あの刀については」
「折損した、と報告にあります」
「新しい一振りを打つための支援が必要なら、惜しみなく行ってくれ。鬼の素材の優先譲渡も含めて」
職員が、少し驚いた顔をした。
「よろしいのですか、特別扱いということになりますが」
「特別扱いではない」
九条は、はっきりと言った。
「これは、国のために身を挺してくれた探索者への、当然の礼だ」
「かしこまりました」
職員が退室した後、九条は一人、資料の中の一文字を、じっと見つめていた。
魔素。
この言葉が、正式な行政文書に記される日が来るとは。
半年前の自分に伝えても、きっと信じないだろう。
(次は、何が起きる)
九条は、窓の外を見た。
空は、いつもと変わらず、静かに晴れている。
だが、その静けさの奥で、何かが、確かに動き始めている予感があった。
この国は、また一つ、誰も経験したことのない領域へと、足を踏み入れようとしていた。




