2-8:誤差の範囲
「本日の議題は、主に定例報告となります」
分科会の会議室。
司会役の職員が、いつも通りの調子で資料を配る。
九条恒一は、資料をめくりながら耳を傾けていた。
一般開放から、半年以上。
この手の定例会議も、すっかり日常の一部になっている。
「まず、探索者数の推移についてです」
グラフが映し出される。
右肩上がりの、緩やかな曲線。
登録者数は順調に増え続けており、大きな事故の報告も、ここ数ヶ月は落ち着いていた。
「次に、内部環境データについてです」
資料が切り替わる。
九条は、特に気にも留めず、資料をめくる手を進めた。
「......一点、気になる数値があります」
職員の声に、わずかな違和感が混じった。
「なんだ」
「ここ一ヶ月ほどで、複数の層において、生物の出現率に、緩やかな上昇傾向が見られます」
「上昇?」
「はい。加えて、探索者との交戦報告件数も、微増しています」
九条は、資料の該当箇所を探した。
折れ線グラフが、確かにわずかな右肩上がりを示している。
だが。
「......この程度か」
率直な感想だった。
誤差と言われれば、誤差にしか見えない範囲だった。
「はい。統計的には、まだ有意な変化とは言い切れない水準です」
「原因の見立ては」
「季節要因、探索者数の増加による接触機会の単純増、その他複合的な要因が考えられますが、現時点で特定はできていません」
当たり障りのない回答だった。
「南さん、ゲーム設計の観点から、何か気になる点は」
司会が、南一颯に話を振る。
「......正直に言えば、少しだけ引っかかります」
南は、資料に目を落としながら答えた。
「こういう緩やかな上昇って、ゲームの中だと、大体イベントの予兆として設計することが多いんです」
「イベント、というと」
「大規模な討伐イベントとか、いわゆる氾濫、スタンピードと呼ばれる現象とか」
会議室の空気が、わずかに緊張した。
「ただし」
南は、すぐに付け加えた。
「これはあくまで、ゲームデザインの発想です。現実がゲームと同じ法則で動く保証は、どこにもありません」
「同感です」
黒沢玲も頷く。
「TRPGでも、GMが意図的に予兆を作る場合と、単なるランダムな変動が偶然重なる場合、両方あります。今の段階で、どちらとも判断できません」
冷静な意見だった。
九条も、内心では同じ考えだった。
半年前なら、この程度の話でも過剰に反応していたかもしれない。
だが、今は違う。
この数ヶ月、様々なデータの揺らぎを見てきた。
その大半は、結局のところ、一過性のものだった。
「引き続き、監視は継続する」
九条は、静かに指示を出した。
「だが、現時点で警戒レベルを引き上げる必要はない。あくまで、注視すべき数値の一つとして扱う」
「かしこまりました」
「南くん」
「はい」
「君の指摘は、記録に残しておいてくれ。もし本当に何か起きた時、後から役立つかもしれない」
「承知しました」
議題は、次の項目へと移っていった。
会議室の空気は、すぐにいつも通りの落ち着きを取り戻す。
誰も、この小さな数値の揺らぎに、それ以上の意味を見出してはいなかった。
窓の外、東京の空は、いつもと変わらず穏やかだった。
この日の会議録の片隅に記された、わずかな上昇傾向。
その一行が、後にどれほどの意味を持つことになるか。
この時、この場にいた誰も、まだ知らなかった。




