2.今度こそ、君を愛するはずだった
——時が戻った。そう気づいた瞬間、私は狂喜乱舞しながら万年筆を走らせた。
(ああ、神……いや、あの小鬼に感謝を。本当に半年前に、結婚前に戻されたのだな!)
急いでバーグ男爵家へ求婚状を送らねばならない。
そして、今度こそ。
「今度こそ、彼女を私のものに…」
脳裏に、清潔とは言い難い小さな使用人部屋で、粗末なベッドに寝かされ、酷くやせ細った状態で息絶えた妻の姿がフラッシュバックする。
「——…っ」
カツン、と激しい音を立てて万年筆の先が歪み、インクが紙に飛び散ってどす黒い汚れを残した。
(……今度こそ…絶対に…)
今度こそ最初から想いを告げて、本当の、完璧な夫婦になろう。
私の不器用さのせいで彼女を壊すことなんて二度としない。
世界で一番愛され、甘やかされた、幸せな伯爵夫人として我がウィンターハルト家に迎え入れるのだ。
(そのためにも…あの日、私の愛しいフランチェスカを蔑ろにし、死に追いやった不届きな使用人どもは、早急に一掃せねばな……)
今度こそ、今度こそ。
焦燥感に指先を震わせながら、インクの散った紙を握り潰して暖炉へ放り込む。そして新しい便箋に、かつてと同じ文面をしたためた。
少し考えた後、手紙の最後に、以前は書けなかった言葉を、愛おしくなぞるように記す。
【最愛のフランチェスカへ】
ベルを激しく鳴らし、執事を呼びつける。
「これを今すぐバーグ男爵家へ。早急に届けろ」
フランチェスカに会ったら、今度はすぐに抱きしめよう。
驚く君に、愛していると、私のすべては君のものだと囁こう。
今度こそ、私たちは世界一幸せな結婚生活を送れる……はずだった。
「——は?フランチェスカという娘はいない?」
使いを出して数日後。
バーグ男爵からの返書を携えて戻ってきた使者の報告に、私は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
慌てて奪い取るようにして開封した手紙には、ひどく丁寧な文面で、バーグ家にフランチェスカという娘はいないといった主旨が綴られていた。
「そんなはずがあるか……!」
あり得ない。記憶違いなどではない。彼女は確かに存在したし、私の妻として死んだのだ。
事実、この時が戻った世界でも、夜会で見初めたのだと、私の日記にしっかりと残っている。
「これは何かの間違いだ!誰かが私と彼女を邪魔しようとしているのか!?」
彼女がいない世界など、絶対に認めない。私の手で、今度こそ幸せにすると決めたのだから。
私は我慢できずに自ら馬を駆り、荒々しくバーグ男爵領へと向かった。
「お初にお目にかかります、ウィンターハルト伯爵閣下。本日はどのようなご用件でしょうか」
出迎えてくれたのは、時を戻す前にも数度顔を合わせたことのある、バーグ男爵夫妻だった。
だが、何かがおかしい。二人の態度は不自然なほど恭しく、それでいて、どこか冷淡だった。
気のせいだと言われればそれまでなくらいの、ほんの小さな違和感。けれど、何かが妙だと感じずにはいられなかった。
「…挨拶はいい。フランチェスカだ!バーグ男爵、娘のフランチェスカ・バーグはどこにいる!?私は彼女に求婚しに来たんだ!」
詰め寄る私に、男爵夫妻は顔を見合わせ、さも困ったように眉を下げた。
「……閣下、誠に申し上げにくいのですが……あの娘は、令嬢として致命的なまでにその身を損なってしまいましてな…」
男爵の淡々とした言葉に、私は息を呑んだ。
損なった?一体何をだ。事故にでも遭って、体に大きな傷でも負ったというのか!?
「それに……心のほうも、我らの手に負えぬほど変調をきたしてしまいました」
「どういう事だ!?フランチェスカに何があったというのだ!?」
思わず身を乗り出して叫んだ私を、男爵はただ静かに見つめ返す。
「…親として、できる限りの手は尽くしたのです。
…しかし、もはや貴族の令嬢として義務を果たし、生活していくことはどうしても不可能であると判断しまして、本人の希望もあり除籍いたしました」
「なっ…!?」
男爵は静かに首を振ると、隣の夫人と痛ましそうに視線を交わす。
「フランチェスカはもうバーグ家の人間ではございません。
それが、あの子の人生の最善だったのです」
「そんな……」
以前は、彼女の身にそんな異変は起きなかった。時間を巻き戻した影響だとでも言うのか。私の知らないところで、私の愛しい妻が、心身ともに壊れてしまった…!?
目の前が暗転するほどの衝撃に、私は言葉を失った。それでも、必死に声を絞り出す。
「……では、彼女は今どこにいる!?どこへやったんだ!」
すがりつくような私の問いに、男爵は静かに首を振った。
「貴族院への手続きも、すでにすべて受理されております。我がバーグ家とはもう、法のうえでもただの赤の他人。
……行き先は、あの子が穏やかに暮らせる場所へ、とだけ。どこぞの静かな療養所にでも身を寄せているのやら、私どもにももう、分かりかねます」
静かに語る男爵の言葉が、私の頭の中で滑って、うまく理解できない。
(どうしてこんな事に!?こんなこと、以前は無かった!!)
頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。
理由はどうあれ、一刻も早くフランチェスカを見つけ出さなければ。貴族であろうと無かろうと、私の手で彼女を抱きしめ、今度こそ幸せにしなければならないのだ。
激しい焦燥感に突き動かされ、形ばかりの挨拶もそこそこに、すぐさまその席を立つ。
そのまま足早に玄関へと向かう私の背中に、バーグ男爵の、ひどく穏やかで低い声がかけられる。
「……閣下。親子の情もありましたから、いつか良き縁を、と思ってはいたのです。
……ですがね、結婚をしたからといって、その娘が幸せになれるとは限りませんから」
ハッとして振り返る。
そこにいた男爵も、その隣の夫人も、非の打ち所がない貴族の笑みを浮かべていた。
口元は綺麗に弧を描いているのに、目は一切、笑っていない。
「最初から無い方が、幸せな人生もあるのです」
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
(まさか……何かを……やり直し前の記憶を、この者たちも知っているのか……!?)
いや、まさか。そんな筈は無い。小鬼は確かに、私だけの記憶が残ると言っていた。
言っていた…が…。
眩暈を覚えながらも、私は馬に飛び乗った。
狂いそうな頭を抱え、一刻も早くフランチェスカを捜索せねばと馬の腹を蹴る。
背後で、バーグ男爵家の門が、冷たく、重々しい音を立てて閉まった。
まるで、私と彼女の世界を分断するかのように。




