第208話 戻らない顧問
王都からの正式要請は、朝の鐘より少し早く届いた。
嫌な時ほど、仕事が早い。
そう言ったのはトマだった。
本人は冗談のつもりだったらしいが、誰も強く否定しなかった。
広間の机には、昨日の記録がまだ広げられている。
ダリオ・ヴェント除名処分効力一時停止勧告。
正式技術参考人扱い許可。
主照合点、リベル村中枢室推奨。
王都招集案、高警戒。
紙の上の復帰と現場復帰を混同するな。
そして新しい紙。
『王都上位評議・一時技師顧問要請』
題名だけで、少し腹が重くなる。
朝の中央井戸で、副記録係が読み上げた。
「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。王都上位評議より一時技師顧問要請到着後、継続異常なし」
ニコルが頷く。
「よいです」
トマはダリオさんを見た。
見た瞬間、ダリオさんが言う。
「豆は食べている」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っていた」
「最近、俺の顔、仕事しすぎですね」
ダリオさんは椀から豆を一粒取り、噛んだ。
「豆、正常」
トマが小さく報告する。
「報告するな」
「報告補助です」
「その肩書き、いつまで続くんだ」
村長が井戸の水面を見たまま言った。
「必要なくなるまでじゃ」
ダリオさんは少し笑った。
「なら、当分続くな」
セリアが薬草茶を差し出す。
「今日は最初から、豆と茶の両方でお願いします」
「俺は病人か」
「重要人物です」
昨日、ミラが言ったのと同じ言葉だった。
ダリオさんは、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから茶碗を受け取る。
「……その言い方は卑怯だ」
ハンナが真面目に言う。
「卑怯でも飲んでください」
トマが笑った。
「薬草班、強い」
広間へ戻ると、ニコルが確認手順を読み上げた。
『一時技師顧問要請確認手順』
一、要請と命令を分ける。
二、顧問復帰と王都復帰を分ける。
三、紙の上の資格と本人の居場所を分ける。
四、王都本部出頭義務の有無を確認。
五、主照合点の移動要求がある場合、即時停止候補。
六、ダリオ本人の声、豆、皮肉、沈黙を確認。
七、トマは喜びすぎ・怒りすぎ双方に注意。
八、ニコルは文書を整えすぎない。
九、セリアは言葉のすり替えを確認。
十、村長停止権維持。
トマが七番を見て顔をしかめた。
「俺、喜びすぎだけじゃなく怒りすぎもですか」
ニコルは真顔で答えた。
「昨日、王都が紙の上で戻した直後に便利に使おうとしている、と言いました」
「言いましたけど」
「今日も言う可能性があります」
「ありますけど」
「では、注意です」
トマは黙った。
ダリオさんが少しだけ笑う。
「中止条件に入るのは居心地が悪いだろう」
「すごく悪いです」
「俺は昨日からずっとだ」
「すみません」
「謝るな。お前も入れ」
ニコルが淡々と書き足す。
『トマ:王都関連怒り上昇時、発言前に一呼吸』
「増えた!」
村長が頷く。
「よい」
午前の鐘が鳴ると、王都上位評議、再審査室、外部監査部の三者連名で通信が入った。
『王都上位評議です。ダリオ・ヴェント氏について、除名処分効力一時停止勧告および命令核分離再設計への正式技術参考人扱い許可を踏まえ、王都側一時技師顧問としての復帰を要請します』
ニコルが復唱する。
「王都側一時技師顧問としての復帰を要請」
ダリオさんは豆を噛んだ。
音は普通。
トマが小さく言う。
「豆、正常」
「だから言うな」
王都側が続ける。
『任務内容。命令核分離第一仮手順の王都側審査、戻し線関連資料の技術解釈、カリム・ロッサ関連資料の精査協力、防衛局との連絡調整。期間は暫定三十日。王都本部または技師組合臨時協議室への出頭を求める可能性があります』
空気が硬くなる。
出頭を求める可能性。
ダリオさんの声が低くなった。
「来たな」
トマがすぐ言う。
「声、低いです」
「分かっている」
ニコルが記録する。
『王都本部または技師組合臨時協議室への出頭可能性。ダリオ声低下』
王都側。
『なお、正式な技師資格回復ではなく、一時顧問扱いです。過去処分の最終判断とは独立します』
ダリオさんは短く笑った。
「便利だな」
トマが一呼吸置いた。
本当に置いた。
それから言った。
「紙の上で少し戻したけど、責任はまだ取らない。でも作業には使いたい、って聞こえます」
ニコルがすぐ書いた。
『トマ、一呼吸後発言。紙の上で少し戻したが責任はまだ取らず、作業には使いたいように聞こえる』
トマが目を丸くする。
「一呼吸まで書くんですか」
「大事です。条件が機能しました」
ダリオさんがぼそっと言った。
「今のは俺もそう聞こえた」
王都側は沈黙した。
外部監査部が間に入る。
『リベル村側の懸念は理解します。本要請は強制ではありません。顧問復帰の可否、勤務地、参加形式について、本人およびリベル村の意向を確認したい』
村長が通信札を見る。
「本人に答えさせる前に、こちらの条件を読む」
ニコルが頷き、事前条件を読み上げた。
『リベル村側基本条件。
一、主照合点はリベル村中枢室。
二、王都本部への出頭義務なし。
三、防衛局単独指示不可。
四、命令戻し線使用案への協力不可。
五、復元杭、青根布常設、空白地帯接近案への協力不可。
六、正式技術参考人扱いと本人の名誉回復を混同しない。
七、除名処分最終判断前に、本人を王都責任処理の穴埋めとして扱わない。
八、本人判断停止条件を王都側も尊重する』
王都側の向こうで、何人かが小さく話す気配がした。
防衛局の声が入る。
『防衛局としては、命令核分離再設計の迅速化のため、王都側協議室での常時参加が望ましい』
トマの眉が跳ねる。
だが、今度は言葉を飲み込んだ。
ニコルが小声で言う。
「一呼吸」
トマは呼吸した。
ダリオさんが先に言った。
「望ましいのは、王都にとってだろう」
その声は低いが、まだ鋭すぎない。
「俺にとって望ましいか。リベル村にとって望ましいか。外縁にとって望ましいか。そこを分けろ」
ニコルが記録する。
『望ましい対象を分ける。王都、防衛局、本人、リベル村、外縁』
防衛局側。
『王都側で直接協議することで、判断が早まります』
ダリオさんが即答した。
「早まるから危ない」
広間が静かになる。
「命令核分離再設計で必要なのは、速さではない。止まれる遅さだ。王都の机に俺を置けば、王都の速度で話が進む。資料が来る。質問が来る。戻し線の古い案が出る。防衛局が“最低限なら”と言う。俺は怒る。怒りながら技術語で返す。すると、周囲はそれを手順として読む。危ない」
トマがぽつりと言った。
「自分でそこまで言えるの、すごいですね」
ダリオさんは苦く笑った。
「すごくはない。昨日、散々俺を紙にされたからだ」
セリアが言った。
「紙が効いています」
「腹立たしいが、効いている」
村長が通信へ向かい、静かに言った。
「ダリオは、王都へは戻らぬ」
その一言で、広間の中にあった迷いが、すっと形を持った。
ダリオさんが村長を見る。
村長は続ける。
「王都の技師顧問が必要なら、リベル村から見る。ここが主照合点じゃ」
ダリオさんは少しだけ目を伏せた。
それから、自分の声で言った。
「俺からも答える」
通信札の向こうが静まる。
ダリオさんは椀から豆を一粒取った。
噛まずに指で持つ。
トマが言いかけたが、今回は言わなかった。
ダリオさんは、そのまま話し始める。
「俺は、王都へは戻らない」
声は低い。
けれど、震えていない。
「王都技師組合本部にも、防衛局協議室にも、今は行かない。出頭もしない。常駐もしない。顧問の肩書きだけを戻して、王都の机へ置かれるつもりはない」
王都側は黙っている。
「だが、命令核分離再設計には関わる。正式技術参考人としてでも、一時顧問としてでも、必要なら見解は出す。ただし、主照合点はリベル村中枢室だ。外縁逃がし線はここにある。旧水路も、井戸も、石列も、薬草帯も、青根布も、空白地帯も、黒石祠も、ここから見なければ意味がない」
ダリオさんは一度息を吸った。
「王都へ戻ることが、技師として戻ることではない。俺は、リベル村から見る」
ニコルの筆が、静かに走る。
『王都へ戻ることが、技師として戻ることではない。リベル村から見る』
トマが少しだけ口元を押さえている。
喜びすぎ注意を守っている。
だが、顔は完全に失敗していた。
ダリオさんは、それを横目で見て言った。
「顔がうるさい」
「すみません」
「まあ、今日は少しなら許す」
「昨日も聞きました」
「便利な言葉は繰り返す」
王都上位評議の声が入る。
『ダリオ・ヴェント氏の意向、確認しました。王都側としては、リベル村中枢室を主照合点とする遠隔顧問形式について検討します』
防衛局が続ける。
『ただし、緊急時には王都側での即時判断が必要となる場合が』
外部監査部が遮った。
『防衛局単独判断不可。リベル村条件を確認済み』
トマが小声で言った。
「外部監査部、今日は早い」
ニコルが記録しかけたが、トマが首を振る。
「今のは記録しなくていいです」
「少し残念です」
「残念がらないで」
王都再審査室が続けた。
『再審査室としては、遠隔顧問形式を支持します。また、除名処分効力一時停止勧告については、本日中に上位評議への正式送付を完了します。処分最終判断とは別に、命令核分離再設計への関与資格暫定回復を記録します』
ダリオさんは、黙って聞いていた。
豆を噛む。
今度は普通の音だった。
「関与資格暫定回復」
トマが小さく繰り返す。
ダリオさんは言った。
「暫定だ」
「はい」
「紙の上だ」
「はい」
「だが、紙がないと王都は動かない」
「はい」
「なら、使う」
ニコルが書く。
『紙がないと王都は動かない。なら、使う』
セリアが柔らかく言った。
「使われるのではなく、使う」
ダリオさんは頷いた。
「そうだ」
通信が終わると、広間に妙な疲れが残った。
勝ったような、勝っていないような。
戻ったような、戻っていないような。
でも、一つだけはっきりしている。
ダリオさんは、王都へ戻らない。
リベル村から見る。
村長は机の上の地図を見た。
「では、命令核分離再設計を本格開始する」
その言葉に、広間が少しざわついた。
トマが背筋を伸ばす。
「いよいよですか」
「いよいよじゃ。ただし、急ぐな」
ダリオさんが頷く。
「第一仮手順の構築開始だ。実施ではない。試験でもない。骨子から、手順へ組む。ただし、中止条件表が優先。外縁逃がし線を閉じない。命令戻し線を使わない。空白を埋めない」
ニコルが新しい大紙を広げた。
『命令核分離第一仮手順・構築開始』
その下に、最初の三行。
『主照合点:リベル村中枢室』
『遠隔顧問:ダリオ・ヴェント』
『注意:逃がし線を閉じるな』
トマがそれを見て、少し目を細めた。
「遠隔顧問って、なんか格好いいですね」
ダリオさんが嫌そうに言う。
「余計なことを言うな」
「でも、王都へ戻らない顧問ですよ」
「もっと余計だ」
ニコルが筆を止める。
「題名候補になります」
「するな」
村長が少し笑った。
「戻らない顧問か。よいではないか」
ダリオさんは天井を見た。
「この村は、時々ひどい」
セリアが微笑む。
「でも、ここから見ます」
リーゼさんが短く言った。
「ここが見える」
井戸番の通信が入る。
『井戸はここにある』
マルタも続く。
『石も動かないよ』
ミードの老女が言う。
『根もこっちだ。王都の机には生えない』
トマが笑った。
「強いな、外縁」
ダリオさんは地図を見た。
旧水路。
古井戸。
北沢石列。
ミード薬草帯。
青根布隔離箱。
森退避路。
空白地帯。
黒石祠。
「そうだ。外縁はここにある」
夕方、中枢室へ正式登録を行った。
俺は一つずつ入力する。
『ダリオ・ヴェント、王都一時技師顧問要請について、王都本部出頭・常駐を拒否。リベル村中枢室を主照合点とする遠隔顧問形式を希望。命令核分離再設計への正式技術関与は受け入れ候補。王都側は遠隔形式を検討。再審査室は関与資格暫定回復を記録予定。』
そして。
『命令核分離第一仮手順、構築開始。主照合点、リベル村中枢室。外縁逃がし線優先。命令戻し線不使用。中止条件表優先。空白地帯回避維持。』
中枢室の光が、静かに広がった。
青白い線が、今までよりも少しだけ安定して見える。
表示が浮かぶ。
《命令核分離第一仮手順:構築開始》
《主照合点:リベル村中枢室》
《遠隔技術顧問:ダリオ・ヴェント候補》
《王都本部出頭:不要》
《外縁逃がし線:優先》
《命令戻し線:不使用》
《中止条件表:優先維持》
《注意:逃がし線を閉じるな》
俺は読み上げた。
広間まで通信が繋がっている。
皆が聞いている。
トマの息を呑む音が聞こえた。
ニコルの筆が走る音が聞こえた。
セリアが小さく息を吐く音が聞こえた。
村長が静かに言った。
『それでよい』
ダリオさんは、表示を見上げたまま言った。
「戻ってはいない」
誰も否定しなかった。
「だが、関われる」
セリアが答えた。
「はい」
トマが言った。
『リベル村から』
ダリオさんは頷いた。
「リベル村から」
夜、俺は個人記録を書いた。
『王都上位評議より、ダリオ・ヴェント一時技師顧問要請。任務内容は、命令核分離第一仮手順の王都側審査、戻し線関連資料の技術解釈、カリム・ロッサ関連資料の精査協力、防衛局との連絡調整。王都本部または技師組合臨時協議室への出頭可能性あり。
リベル村基本条件:主照合点はリベル村中枢室。王都本部出頭義務なし。防衛局単独指示不可。命令戻し線使用案、復元杭、青根布常設、空白地帯接近案への協力不可。正式技術参考人扱いと名誉回復を混同しない。本人判断停止条件を王都側も尊重。
ダリオ・ヴェント回答:王都へは戻らない。王都技師組合本部、防衛局協議室への出頭・常駐は現時点で拒否。命令核分離再設計には正式技術参考人または一時顧問として関与可。ただし主照合点はリベル村中枢室。王都へ戻ることが、技師として戻ることではない。リベル村から見る。
王都側は遠隔顧問形式を検討。再審査室は関与資格暫定回復を記録予定。
中枢室表示:命令核分離第一仮手順、構築開始。主照合点、リベル村中枢室。遠隔技術顧問、ダリオ・ヴェント候補。王都本部出頭不要。外縁逃がし線優先。命令戻し線不使用。中止条件表優先維持。注意、逃がし線を閉じるな』
最後に書く。
『戻らない顧問。
今日、王都はダリオさんを呼び戻そうとした。
一時技師顧問。
王都側協議。
防衛局との連絡調整。
聞こえは悪くない。
でも、戻すことと呼び戻すことは違う。
紙の上で少し復帰させたからといって、王都の机に置いていいわけではない。
ダリオさんは、王都へは戻らないと言った。
でも、命令核分離再設計には関わると言った。
リベル村から見る。
その一言で、いろいろなものが正しい場所に戻った気がした。
井戸はここにある。
旧水路もここにある。
北沢の石も、ミードの根も、青根布の箱も、森の空白も、黒石祠も、ここからしか見えない。
王都へ戻ることが、技師として戻ることではない。
王都の机ではなく、現場の逃がし線から見る。
それが、ダリオ・ヴェントの復帰の形になる。
まだ除名処分は正式に消えていない。
名誉回復もされていない。
謝罪もない。
消された時間は戻らない。
それでも、関われる。
正式に。
リベル村から。
中枢室は表示した。
命令核分離第一仮手順、構築開始。
主照合点、リベル村中枢室。
注意、逃がし線を閉じるな。
この表示で、新しい章が始まった。
戻し線ではなく、逃がし線で。
王都の速度ではなく、リベル村の止まれる速度で。
命令核分離再設計は、今日から本格的に動き出す。』
地上では、水車が回っている。
王都へ戻らない顧問は、リベル村の地図の前に立っている。
紙の上で消された技師が、紙の上だけではなく、現場の中へ戻ってきた。
ただし、王都へではない。
井戸と石と根と水路と、逃がし線のある場所へ。




