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「鑑定しかできない無能」と追放された俺、実は壊れた才能を直せる唯一の神職でした〜捨てられ聖女と辺境村を修理していたら、勇者より先に国を救ってしまった〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第206話 だから遠ざける

 別紙は、まだ読まれていない。


 たったそれだけのことが、朝の広間を妙に狭くしていた。


 カリム・ロッサ署名の追加資料。


 外縁戻し線施工可否覚書。


 そこには、戻し線全面施工不可と書かれていた。

 外縁の逃がしを殺すなと書かれていた。

 異議者を怠慢、臆病、裏切りとして処分してはならないとも書かれていた。


 なのに、ダリオさんは除名された。


 危険見解の流布。

 守秘規定違反。

 封印補助研究資料の不適切持ち出し。

 そして、その場にカリムがいた。


 矛盾する。


 昨日、ダリオさんはそう言って、そこで止まった。


 止まれた。


 それがよかったのか悪かったのかではない。


 止まれたという事実が、今朝の広間に残っている。


 朝の中央井戸で、副記録係が読み上げた。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。カリム署名資料本文部分確認後、継続異常なし。別紙未確認」


 最後の一言が、妙に重かった。


 別紙未確認。


 ニコルが頷く。


「よいです」


 トマはすぐダリオさんを見た。


 見た瞬間、ダリオさんに睨まれた。


「見るな」


「いや、今日は見る係なので」


「昨日から増えているな、お前の係」


「報告補助です。豆、あります。食べてます。声、今のところ普通より少し低いです」


「余計な分析をするな」


 ニコルが冷静に言った。


「声が少し低い、記録します」


「するな」


「本人判断停止条件に関わります」


「……書け」


 ダリオさんは面倒くさそうに椀から豆を取って、噛んだ。


 音はいつも通り硬い。


 トマが小声で言う。


「豆音、正常」


「お前、後で覚えていろよ」


「それ、皮肉ですか脅しですか」


「両方だ」


 村長が井戸の水面を見ながら言った。


「両方なら記録しやすい」


 ダリオさんが、少しだけ笑った。


「村長まで乗らないでください」


 その小さな笑いで、息ができるようになった。


 セリアが薬草茶を持ってきた。


 昨日と同じ、薄い香りの茶だ。


「今日は最初から出しておきます」


 ダリオさんが茶碗を見る。


「薬草茶も監視対象か」


「体調維持です」


 ハンナが横から言う。


「あと、ダリオさんが茶碗に手をつけない時も報告します」


「お前たち、俺を何だと思っている」


 ミラが真面目に答えた。


「重要人物です」


 ダリオさんは言葉に詰まった。


 トマが笑いを噛み殺す。


 セリアは少しだけ微笑んだ。


「そうです。だから、見ます」


 広間に戻ると、昨日の本文確認記録が机の上に置かれていた。


 その横に、別紙確認前手順。


 ニコルが見出しを読み上げる。


『カリム署名資料・別紙確認手順』


 一、別紙の表題のみ確認。

 二、本文は一文ずつ。

 三、D.V.関連記述が出た場合、即時小休止。

 四、カリム意図を断定しない。

 五、守る、隠す、遠ざける、利用する、延命するを分ける。

 六、ダリオ本人が続きを急いだ場合、村長停止権。

 七、トマは報告補助。停止権なし。

 八、ニコルは記録の震えも記録対象。

 九、停止は処罰ではない。

 十、読めなかったことも記録。


 トマが八番を見て言った。


「ニコルの震えも?」


 ニコルは自分の手を見た。


「昨日、筆が少し震えました」


 セリアが静かに言う。


「当然です」


「当然でも、記録します」


 ダリオさんが苦い顔で頷いた。


「記録係が自分も条件に入れるなら、俺は文句を言いにくい」


「文句は言って構いません」


「言っても書くだろう」


「必要なら」


 ダリオさんは豆を噛んだ。


「厄介だな」


「はい」


 午前の鐘が鳴ると、王都再審査室と外部監査部の通信が入った。


『王都再審査室です。昨日封緘したカリム・ロッサ署名資料の別紙を、外部監査部立会いのもと確認します。リベル村側の手順確認を求めます』


 ニコルが手順を読み上げる。


 再審査室は了承した。


『了解。一文ずつ確認します。まず別紙表題。判読候補、“D.V.処遇に関する付記”。』


 広間の空気が、一段低くなる。


 トマが反射的にダリオさんを見る。


 ダリオさんは、すぐ言った。


「豆は食べている。声は低い。怒りはある。続けろ」


 ニコルが記録する。


『D.V.処遇に関する付記。ダリオ本人、怒りあり。自覚あり。続行希望』


 村長が頷く。


「一文のみ」


 再審査室が続けた。


『一文目。“D.V.は戻し線を止める”。』


 その一文だけで、広間が凍った。


 短い。


 短すぎる。


 なのに、重すぎる。


 D.V.は戻し線を止める。


 それは、信頼にも読めた。


 危険視にも読めた。


 邪魔者扱いにも読めた。


 必要な者だと知っていた、という意味にも読めた。


 ダリオさんは、笑わなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、息を止めたように黙った。


 トマが小声で言う。


「呼吸、浅いです」


 ニコルが書く。


「報告、受けます」


 村長が静かに言った。


「小休止」


 ダリオさんは反射的に言い返そうとした。


 その口が、途中で止まる。


 昨日決めた紙が、机にある。


 ダリオさんは目を閉じた。


「……止まる」


 セリアが薬草茶を差し出した。


 ダリオさんは茶碗を受け取ったが、すぐには飲まなかった。


 トマが言う。


「茶、止まってます」


「お前、今日は本当に細かいな」


「止めるためです」


 ダリオさんは、茶を一口飲んだ。


「飲んだ」


「確認しました」


「腹立つな」


「それも確認しました」


 少しだけ笑いが出た。


 笑いがないと、一文ごとに誰かが割れてしまいそうだった。


 休止後、次の一文へ進む。


『二文目。“止めれば、工房は割れる”。』


 今度は、誰も笑わなかった。


 ダリオさんの顔が変わる。


 トマが言う前に、ニコルが記録した。


『ダリオ表情硬化。声未確認』


 ダリオさんは低く言った。


「工房は割れる……か」


 ダリオさんの声は、低い。


 けれど、まだ届いている。


 俺は中枢室の表示を見る。


《D.V.処遇付記:照合》

《D.V.=ダリオ・ヴェント候補:高》

《戻し線停止能力:認識あり》

《工房内対立:高》

《遠ざけ理由候補:工房分裂回避》

《注意:保護目的未確定》


 読み上げると、トマが顔をしかめた。


「工房が割れるから、ダリオさんを遠ざけた?」


 ダリオさんは答えなかった。


 セリアが静かに言う。


「戻し線を止めれば、工房内の権力争いが表に出る、ということですか」


 ダリオさんがようやく頷く。


「黒薔薇工房は一枚岩じゃなかった。戻し線を推す連中。外縁逃がしを知る連中。封印命令補強を急ぐ連中。現地を見ていない連中。たぶん、割れていた」


 村長が言う。


「D.V.が止めれば、隠れていた割れ目が表に出る」


「ああ」


 ダリオさんは豆を一粒取る。


 だが、噛まずに指で転がす。


 トマがすぐ言った。


「豆、転がってます」


「分かっている」


 村長が言う。


「自分で噛めるか」


 ダリオさんは少し睨んだが、豆を口に入れて噛んだ。


「噛んだ」


 トマが小さく頷く。


「確認しました」


 ダリオさんは、ため息を吐いた。


「俺の人生、豆で区切られるのか」


 ニコルが言う。


「今日は有効です」


「腹立たしいほどにな」


 次の一文。


『三文目。“ゆえに、遠ざける”。』


 広間の空気が、また変わった。


 だから遠ざける。


 それが表題のように、紙の奥から立ち上がってきた。


 D.V.は戻し線を止める。

 止めれば、工房は割れる。

 ゆえに、遠ざける。


 短い。


 冷たい。


 そして、あまりにも人間臭い。


 トマが思わず言った。


「ひどい」


 ニコルが聞く。


「何がですか」


「全部です。戻し線を止められる人だから遠ざけるって。工房が割れるからって。ダリオさんの人生は、工房の都合じゃないでしょう」


 誰も止めなかった。


 トマは続ける。


「守るためだったのかもしれないとか、工房を壊さないためだったのかもしれないとか、分けなきゃいけないのは分かります。でも、遠ざけられた側は人生変わってるんですよ。除名されて、消されて、紙も奪われて。それを“ゆえに、遠ざける”って、短すぎるだろ」


 最後の声が、少し震えていた。


 ニコルはそのまま記録した。


『トマ発言:遠ざけられた側は人生が変わっている。“ゆえに、遠ざける”は短すぎる』


 ダリオさんはトマを見た。


「お前が怒るのか」


「怒りますよ」


「俺のために?」


 トマは少し詰まった。


 それから、少し不器用に言った。


「ダリオさんのためだけじゃないです。こんなふうに、誰かが“全体のため”って言って人を遠ざけるのが嫌なんです。王都っぽいし、工房っぽいし……あと、なんか、俺もやりそうだから嫌です」


 ダリオさんの眉が少し動いた。


「自分も?」


「はい。旧水路班でも、危ないと思った奴を“お前は外れろ”って言いたくなる時あります。でも、それを守るためって言えば、気持ちよくなりそうで怖い。遠ざける側って、たぶん自分を正しいと思えるから」


 広間が静まり返った。


 ニコルがゆっくり書く。


『遠ざける側は、自分を正しいと思いやすい』


 セリアが静かに続けた。


「遠ざけることと、守ることは同じではありません」


 その言葉で、空気が止まった。


 ニコルは顔を上げた。


 セリアは、手元の茶碗を見ながら続ける。


「薬草でも、弱い株を他から離すことがあります。でも、それは守るためとは限りません。管理しやすくするための時もある。目に入らない場所へ置いて、安心したいだけの時もある。離した後に世話を続けなければ、それは守ったことになりません」


 ニコルが赤字で書いた。


『遠ざけることと守ることは同じではない』


 ダリオさんは、その文字をじっと見た。


 目を逸らさなかった。


「そうだな」


 その声は低かったが、荒くはなかった。


「遠ざけることと守ることは同じではない。……カリム、お前はどちらをした」


 誰も答えられなかった。


 再審査室から、控えめに声が入る。


『続き、確認しますか』


 村長はダリオさんを見た。


 ダリオさんは少し考え、言った。


「あと一文」


 村長はすぐには頷かない。


 トマがダリオさんを見る。


「理由は」


 ダリオさんがトマを見る。


「何だ」


「続きを読みたい理由です。知りたいから、だけなら止めます」


 広間が、ほんの少しざわついた。


 ダリオさんはトマを睨みかけた。


 だが、止まった。


 そして、小さく笑った。


「報告補助が偉くなったな」


「停止権はありません」


「分かっている。理由は、今読んだ三文があまりに短いからだ。次の一文で、目的語が出る可能性がある。誰を守るのか、何を守るのか、または何を隠すのか」


 ニコルが村長を見る。


 村長は頷いた。


「一文のみ」


 再審査室が読み上げる。


『四文目。“D.V.は止める。止めた先にある火を、D.V.は知らぬ”。』


 今度は、全員が黙った。


 火。


 工房が割れるだけではない。


 割れた先に、何かが燃える。


 内紛か。

 粛清か。

 封印事故か。

 資料消し。

 黒薔薇工房内の権力争い。


 ダリオさんが低く呟く。


「知らぬ、か」


 中枢室が表示する。


《“火”記述:検出》

《工房内対立激化候補》

《D.V.遠ざけ理由:D.V.保護、工房延命、対立隠蔽、封印事故回避、複合目的候補》

《意図未確定》

《注意:守るためと利用するためを混同するな》


 俺が読み上げると、セリアが目を伏せた。


「複合目的……」


 トマが言った。


「一つじゃないんですかね」


 ダリオさんは苦く笑った。


「たぶん、一つじゃない。人間は面倒だからな」


「守りたい気持ちも、隠したい気持ちも、工房を延命したい気持ちも、全部混ざる?」


「ある」


 ダリオさんは言った。


「それが一番厄介だ。完全な悪意なら、切れる。完全な善意なら、まだ許せるかもしれん。だが、守る顔で隠し、隠す顔で守り、工房を残すために人を消す。そういうのが一番、後から腐る」


 ニコルが記録する。


『守る顔で隠し、隠す顔で守る可能性』


 村長が杖を鳴らした。


「今日はここまでじゃ」


 ダリオさんは、今度は反論しなかった。


「そうだな」


 再審査室へ、ニコルが伝える。


『本日の別紙確認を中止。四文目まで確認。続きは後日。資料封緘維持』


 再審査室はすぐ了承した。


『了解。資料封緘。なお、再審査室より別件通知あり。ダリオ・ヴェント除名処分について、本日確認された資料群により、処分根拠の重大再検討に加え、処分効力の一時停止を検討開始します』


 広間が、完全に止まった。


 トマが最初に声を出した。


「一時停止……?」


 再審査室が続ける。


『正式決定ではありません。検討開始です。対象は、除名処分の効力一時停止、技師資格関連記録の保留解除可否、命令核分離再設計への正式関与資格の暫定回復です。詳細は追って通知』


 ニコルの筆が震えた。


 それを、ミラがそっと見た。


「ニコルさん、筆、震えています」


 ニコルは頷いた。


「記録します」


 ダリオさんは、何も言わなかった。


 豆にも触れない。


 茶にも触れない。


 ただ、通信札を見ていた。


 トマが小さく言う。


「ダリオさん」


 ダリオさんは、やっと答えた。


「喜ぶなよ」


 トマが言葉に詰まる。


「まだ何も戻っていない。検討開始だ。紙の上の話だ」


 村長が静かに言った。


「それでも、紙が動いた」


 ダリオさんの目が、少しだけ揺れた。


 ニコルが、震える筆で書いた。


『除名処分効力一時停止、検討開始。正式決定ではない。紙が動いた』


 ダリオさんは、その文字を見た。


 長い間、見ていた。


 そして、低く言った。


「紙が動いた、か」


 セリアが静かに頷く。


「はい」


 トマが言った。


「消された記録が、戻り始めたんじゃないですか」


 ダリオさんは、すぐには答えなかった。


 やがて、豆を一粒取った。


 噛んだ。


 硬い音が、広間に響いた。


「まだだ」


 そう言いながら、その声は、ほんの少しだけ昨日より柔らかかった。


 夜、中枢室へ今日の確認内容を登録した。


《D.V.処遇付記:部分確認》

《D.V.は戻し線を止める:確認》

《止めれば工房は割れる:確認》

《ゆえに遠ざける:確認》

《止めた先にある火:確認》

《遠ざけ理由:複合目的候補》

《保護目的:未確定》

《工房延命目的:候補》

《対立隠蔽目的:候補》

《ダリオ除名処分一時停止検討:外部通知》

《注意:遠ざけることと守ることは同じではない》


 俺は読み上げた。


 最後の一文を読む時、広間では誰も喋らなかった。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『カリム・ロッサ署名資料別紙“D.V.処遇に関する付記”を部分確認。

確認文:

一、“D.V.は戻し線を止める”。

二、“止めれば、工房は割れる”。

三、“ゆえに、遠ざける”。

四、“D.V.は止める。止めた先にある火を、D.V.は知らぬ”。

中枢室表示:D.V.=ダリオ・ヴェント候補高。カリムはダリオが戻し線を止める能力または意思を持つことを認識。戻し線停止により工房内対立が表面化する可能性。遠ざけ理由は、D.V.保護、工房延命、対立隠蔽、封印事故回避、複合目的候補。意図未確定。

セリア発言:“遠ざけることと守ることは同じではない”。

トマ発言:“遠ざけられた側は人生が変わっている”。

本日の別紙確認は四文目で中止。

王都再審査室より、ダリオ・ヴェント除名処分効力一時停止の検討開始通知。正式決定ではない。技師資格関連記録の保留解除可否、命令核分離再設計への正式関与資格の暫定回復も検討対象』


 最後に書く。


『だから遠ざける。

今日読んだ別紙は、短い言葉ばかりだった。

D.V.は戻し線を止める。

止めれば、工房は割れる。

ゆえに、遠ざける。

D.V.は止める。止めた先にある火を、D.V.は知らぬ。

カリムは、ダリオさんが戻し線を止めると知っていた。

止めれば黒薔薇工房が割れるとも知っていた。

だから遠ざけた。

その“だから”の中に、いくつものものが混ざっている。

ダリオさんを守るためだったのか。

工房を延命するためだったのか。

内側の権力争いを隠すためだったのか。

封印事故を避けるためだったのか。

まだ分からない。

たぶん、一つではない。

守る顔で隠す。

隠す顔で守る。

工房を残すために人を消す。

人間は、そういう面倒なことをする。

でも、セリアは言った。

遠ざけることと守ることは同じではない。

その通りだ。

遠ざけられた側の人生は変わる。

紙の上の処置では済まない。

ダリオさんは除名され、手控えを奪われ、危険見解の流布として消された。

それが守るためだったとしても、守ったことにはならない。

今日、王都再審査室が除名処分の一時停止検討を始めた。

まだ決定ではない。

何も戻ったわけではない。

でも、紙が動いた。

消された記録が、ほんの少し動いた。

ダリオさんは“まだだ”と言った。

それでも、豆を噛む音が少しだけ柔らかく聞こえた。

明日は、この一時停止検討が何を意味するのかを確認する。

紙の上だけ戻るのか。

それとも、ダリオ・ヴェントという技師の名前が、ようやく手順の中へ戻るのか。』


 地上では、水車が回っている。


 遠ざけるために消された名前が、王都の紙の上で動き始めた。


 まだ戻ったわけではない。


 だが、止まるための紙が、今度は少しだけ、戻るための紙になろうとしていた。



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