第202話 成功率は出ない
成功率。
その言葉が広間に届いた時、空気が少しだけ硬くなった。
剣でも槍でもない。
毒でも呪いでもない。
ただの数字だ。
けれど、数字は時々、刃物より鋭い。
何割で成功するのか。
何割なら実行するのか。
何割なら犠牲を許すのか。
そういう顔をして、数字は机の上に座る。
王都は、ついにそれを求めてきた。
朝の中央井戸は、今日も変わらず静かだった。
「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。第一仮手順骨子案登録後、継続異常なし」
副記録係が読み上げる。
ニコルは頷いた。
「よいです」
トマは井戸の水面を見ながら、いつもより口数が少なかった。
水面に何かが映っているわけではない。
ただ、昨夜の中枢室の表示が頭に残っているのだろう。
成功率、算出不可。
それを見た時、トマは少しだけ安心した顔をした。
けれど今朝は、逆に不安そうだった。
「成功率って、出ない方がいいんですかね」
ぽつりと、そう言った。
ニコルはすぐには答えなかった。
記録板を抱え直し、井戸の水面を見た。
「場合によります」
「場合」
「はい。出た方がいい時もあります。でも、出ると危ない時もあります」
トマが眉を寄せる。
「数字って、便利なのに?」
「便利だから危ないです」
セリアが薬草予定地の記録を持って近づいてきた。
後ろではハンナとミラが、今日は妙におとなしい。
セリアが言った。
「薬草の回復も、数字で出したくなる時があります。葉の数、背丈、湿り、色。でも、数字が良くても、根が疲れている時があります」
トマが頷く。
「葉が立っていることと、働けることは別」
「はい」
セリアは静かに微笑んだ。
「覚えてくれていましたね」
「覚えますよ。あれ、けっこう刺さりましたから」
ハンナが横から言った。
「トマさん、最近よく刺されていますね」
「言い方」
ミラが真面目に記録板を構えかけたので、トマが慌てる。
「そこは記録しなくていいから」
ニコルが少しだけ笑った。
「今日の状態記録としては、有用かもしれません」
「有用な傷が多すぎる」
広間へ戻ると、机の中央には第一仮手順骨子案が置かれていた。
その横に、新しい紙。
ニコルの字で、こう書いてある。
『成功率照会への対応』
すでに王都から届いた通信文も写されている。
『王都防衛局、技師組合再審査室より。命令核分離第一仮手順骨子案について、実施可否判断の前提として概算成功率、失敗時被害想定、命令核癒着低下可能性の数値化を求める。概算でよい』
最後の一文が、妙に嫌だった。
概算でよい。
まるで、少し間違っていても構わないと言っているように見える。
けれど、その少しの間違いで壊れるのは、机の上の線ではない。
井戸であり、石であり、根であり、布であり、水路であり、人だ。
トマはその文を見て、露骨に顔をしかめた。
「概算でよい、って何ですか」
ダリオさんは豆を一粒つまみ、噛まずに指先で転がしていた。
「便利な言葉だ。責任を少し薄める時によく使う」
ニコルが書きかけた。
ダリオさんが言う。
「それは書いていい」
ニコルは頷き、書いた。
『概算でよい、は責任を薄める言葉になり得る』
トマが小さく唸る。
「でも、王都の人たちも、判断する材料が欲しいんでしょうね」
「それも本当だ」
ダリオさんは豆を口に入れた。
「全部が悪意ではない。手順を承認するには、数字が欲しい。成功率、被害想定、必要人員、時間、予備策。王都の机では、それがないと動けない」
「じゃあ、出した方がいいんですか」
「出せるならな」
ダリオさんはゆっくり言った。
「だが、出せないものを出したふりをするのが一番悪い」
村長が広間の奥から言った。
「成功率で命を売るな」
その一言で、広間の音が止まった。
ニコルの筆が、紙の上で止まる。
トマが村長を見る。
「命を、売る?」
村長は杖を机の横へ置き、椅子に腰を下ろした。
「七割成功、三割失敗。そう書けば、七割に目が行く。三割に入る者の顔は薄れる」
誰も口を挟まなかった。
「九割成功、一割失敗。そう書けば、いよいよ人は進みたくなる。だが、その一割に入る者が、井戸番かもしれぬ。旧水路班かもしれぬ。薬草を見てきた者かもしれぬ。名のある者か、ない者か、それは数字には出ぬ」
村長は静かに続けた。
「数字は要る。だが、数字で命を安くしてはならぬ」
ニコルは、ゆっくり記録した。
『成功率で命を売るな。数字で命を安くしない』
トマは唇を噛んだ。
「でも、何も数字がないと、王都は納得しないんじゃ」
ダリオさんが頷いた。
「だから、成功率の代わりに別のものを出す」
「別のもの?」
「中止条件だ」
その言葉に、セリアが顔を上げた。
「止める条件」
「ああ」
ダリオさんは、机の上の第一仮手順骨子案を指で叩いた。
「今、成功率は出ない。出すには、実験が要る。再現が要る。観測を増やす必要がある。だが、それは危険だ。なら、成功率の数字ではなく、何が起きたら止めるかを先に出す」
ニコルが紙を一枚追加した。
『成功率ではなく、中止条件を先に決める』
トマは少し考え込んだ。
「始めるかどうかを決めるために、止める条件を出す?」
「そうだ」
「なんか、王都に嫌がられそう」
「嫌がるだろうな」
ダリオさんは平然と言った。
「だが、嫌がられるから必要だ」
王都への通信を返す前に、中枢室へ確認することになった。
俺、ダリオさん、ニコル、セリアが地下工房へ降りる。
トマは広間待機。
本人はもう慣れたようで、文句は言わなかった。
ただし、階段の上から言った。
「成功率、もし出そうになったら止めてくださいね」
ダリオさんが振り返る。
「出そうになったら、ではない。出させない」
「はい」
「お前は広間で水でも飲んでいろ」
「最近、それ多くないですか」
「水は大事だ」
地下工房の中枢室は、静かだった。
俺は昨日の骨子案と、王都からの成功率照会を登録する。
『王都照会。第一仮手順骨子案について、概算成功率、失敗時被害想定、命令核癒着低下可能性の数値化を求める。概算でよい。
リベル村照会。現段階で成功率算出は可能か。可能でない場合、代替すべき判断材料は何か。』
表示はしばらく出なかった。
青白い光が、細かく揺れた。
その揺れ方だけで、何かを考えているように見えるのだから、中枢室もだいぶ人間臭く感じてしまう。
やがて文字が浮かんだ。
《第一仮手順:実施不可》
《試験不可》
《再現試験不可》
《成功率:算出不可》
《概算成功率:危険》
《理由:基礎試行不足ではなく、試行自体が危険》
《代替判断材料:中止条件表》
《失敗時被害想定:段階分類可能》
《注意:成功率を要求するな》
俺は読み上げた。
「第一仮手順、実施不可。試験不可。再現試験不可。成功率、算出不可。概算成功率、危険。理由、基礎試行不足ではなく、試行自体が危険。代替判断材料、中止条件表。失敗時被害想定、段階分類可能。注意、成功率を要求するな」
ニコルが深く息を吐いた。
「概算成功率、危険」
セリアが眉を寄せる。
「基礎試行不足ではなく、試行自体が危険……とても大きい違いですね」
ダリオさんは頷いた。
「そうだ。データが足りないから試す、ではない。試すことが危ないから、データを増やせない」
ニコルが記録する。
『データが足りないから試す、ではない。試すことが危ないから、データを増やせない』
広間からトマの声が入った。
『じゃあ、王都が“データ不足なら取ればいい”って言ったら』
ダリオさんが即答する。
「拒否だ」
『ですよね』
「中枢室、失敗時被害想定の段階分類は可能か」
表示が更新される。
《失敗時被害想定:段階分類候補》
《段階一:外縁疲労増加》
《段階二:命令網逆流兆候》
《段階三:水腐れ封印層圧変動》
《段階四:命令核癒着強化》
《段階五:外縁逃がし線損傷》
《段階六:封印層破損危険》
《注意:段階分類は許容ではない》
俺は読み上げる。
「失敗時被害想定、段階分類候補。段階一、外縁疲労増加。段階二、命令網逆流兆候。段階三、水腐れ封印層圧変動。段階四、命令核癒着強化。段階五、外縁逃がし線損傷。段階六、封印層破損危険。注意、段階分類は許容ではない」
セリアが低い声で言った。
「段階一でも嫌です」
「当然だ」
ダリオさんは表示を見上げた。
「段階一で止める。段階二まで待たない。段階分類は、耐えるためではなく、止め損ねた時の悪化を見るためだ」
ニコルが赤字で書いた。
『段階分類は許容ではない。段階一で止める』
トマの声が広間から入る。
『段階一が外縁疲労増加なら、薬草とか石とか井戸が疲れるってことですよね』
「そうだ」
『それ、もう失敗ですよね』
ダリオさんが少しだけ表情を緩めた。
「分かってきたな」
『褒められてる気がしない』
「褒めている」
中枢室から戻ると、広間では王都への返答文を作ることになった。
ニコルが読み上げる。
『リベル村返答案。
命令核分離第一仮手順骨子案について、現段階で成功率は算出不可。概算成功率の提示も危険。理由は、基礎試行不足ではなく、試行自体が危険であるため。
一瞬の命令核癒着反応低下は進行条件ではなく、監視・中止条件である。
成功率の代替として、中止条件表を作成する。
失敗時被害想定については段階分類のみ可能。ただし段階分類は許容ではない。段階一、外縁疲労増加の時点で停止対象とする』
トマが手を上げた。
「“段階一で停止対象”じゃなくて、“段階一に入る前に止める”って書けませんか」
ニコルが顔を上げる。
ダリオさんも、トマを見た。
トマは少し気まずそうに続ける。
「だって、外縁疲労増加って、もう疲れてるわけですよね。薬草も石も井戸も、疲れてから止めるんじゃ遅い気がして」
セリアがすぐ頷いた。
「私も同意です。薬草の疲労増加を確認してから止めるのでは、薬草に負担をかけています。疲労増加の兆し、または疲労を測る前に、関連条件が揃えば止めるべきです」
ニコルが紙を修正する。
『段階一に入る前の兆候で停止。外縁疲労増加を許容しない』
ダリオさんが、トマへ向かって豆を一粒投げた。
トマは慌てて受け取る。
「え、何ですか」
「今のは良かった」
「あ、ありがとうございます……豆で褒められるの、慣れないですね」
「慣れろ」
村長が頷く。
「よい修正じゃ」
トマは照れたように頭をかいた。
「いや、なんか、薬草の話を聞いてたら、そう思っただけで」
セリアが柔らかく言った。
「それが大事です。聞いて残ることがあります」
ミラが記録する。
『聞いて残ることがある』
ハンナが小声で言う。
「今日のミラ、早い」
「必要なので」
ニコルが少しだけ嬉しそうにミラを見た。
似てきている。
良いのか悪いのかは、まだ分からない。
王都へ返答を送ると、防衛局からの反応は早かった。
『王都防衛局より。成功率算出不可は理解するが、実施判断にあたり数値指標がないことは困難。最低限、成功見込みの高低分類は可能か。高・中・低など』
トマが天井を見た。
「数字が駄目なら、高中低……」
ダリオさんは笑わなかった。
「予想通りだ」
ニコルが通信へ返す。
『リベル村より。高・中・低の分類も、成功率の代替数字として扱われる恐れがあるため不可』
防衛局側。
『では、判断材料は何か』
村長が答えた。
「止まれるかどうかじゃ」
防衛局側が黙る。
村長は続けた。
「成功しそうかで始めぬ。止まれるかで考える。止まれぬなら、どれほど成功しそうでも始めぬ」
ニコルがそのまま記録しながら通信へ送る。
『成功しそうかではなく、止まれるかを判断材料とする。止まれぬなら、成功見込みに関わらず始めない』
防衛局側は、少し長く沈黙した。
外部監査部が入る。
『外部監査部、リベル村見解を支持。成功見込み分類の要求を保留。中止条件表の提出を優先』
王都再審査室も続いた。
『再審査室も同意。命令核分離第一仮手順については、中止条件表が整うまで成功率・成功見込みの提示を求めない』
防衛局は、しばらくしてから答えた。
『了解。中止条件表の提出を待つ』
通信が切れた。
トマが大きく息を吐く。
「止まれるかどうか……」
ダリオさんが言う。
「本来、危険作業の判断はそこからだ」
「でも、王都は成功しそうかを聞く」
「成功した後の報告書が欲しいからな」
村長が静かに言った。
「村は、止まった後も生きねばならぬ」
ニコルが記録する。
『村は、止まった後も生きねばならない』
夕方から、中止条件表の下書きが始まった。
大紙が広げられる。
題名は、ニコルが少し迷ってからこう書いた。
『命令核分離第一仮手順・中止条件表』
トマが覗き込む。
「いよいよですね」
「はい」
「これ、かなり多くなりますよね」
「多くなります」
ダリオさんが言った。
「多くていい。始める条件より、止める条件が多い方がいい」
トマは笑った。
「それ、次に俺が言おうと思ってました」
「では取っておけ。明日言え」
「予約制ですか」
「記録されたいならな」
ニコルがすでに見出しをいくつも作っていた。
一、中央井戸。
二、ハルマ古井戸。
三、旧水路浅層緩衝線。
四、北沢石列。
五、ミード薬草帯。
六、薬草予定地。
七、青根布隔離箱。
八、森退避路・空白地帯。
九、黒石祠封印層。
十、命令核癒着反応。
十一、命令網逆流。
十二、人員状態。
十三、記録不一致。
十四、王都側要求逸脱。
十五、ダリオ本人判断。
最後の項目で、ダリオさんの眉がぴくりと動いた。
「最後は何だ」
ニコルは真顔で答えた。
「ダリオさんの判断状態です」
「俺か」
「はい」
「なぜだ」
「ダリオさんの手控え、過去、除名、カリムさん、命令戻し線、杭抜去処置がすべて関係しています。判断が過去に引っ張られる可能性があります」
広間が少し静かになった。
トマが小さく言う。
「それ、今日やります?」
ニコルは首を横に振った。
「項目だけです。詳細は後日」
ダリオさんはしばらく黙っていた。
豆の椀に手を伸ばし、やめた。
「……項目だけなら、書け」
ニコルが丁寧に書いた。
『ダリオ本人判断状態:詳細後日』
村長は静かに頷いた。
「よい」
ダリオさんは苦い顔で言った。
「よくないが、必要だ」
トマは珍しく茶化さなかった。
セリアも黙っていた。
中止条件表は、まだ空欄だらけだった。
だが、その空欄には、今までの空白地帯と同じように意味があった。
埋めるための空欄ではない。
慎重に置かれた、まだ書いてはいけない場所。
夜、俺は個人記録を書いた。
『王都より命令核分離第一仮手順骨子案の概算成功率、失敗時被害想定、命令核癒着低下可能性の数値化を求められる。
中枢室表示:成功率算出不可。概算成功率危険。理由:基礎試行不足ではなく、試行自体が危険。代替判断材料は中止条件表。
失敗時被害想定は段階分類候補あり。段階一、外縁疲労増加。段階二、命令網逆流兆候。段階三、水腐れ封印層圧変動。段階四、命令核癒着強化。段階五、外縁逃がし線損傷。段階六、封印層破損危険。
ただし、段階分類は許容ではない。段階一に入る前の兆候で停止。外縁疲労増加を許容しない。
王都防衛局は成功見込みの高・中・低分類を求めたが、リベル村は拒否。判断材料は、成功しそうかではなく、止まれるか。止まれぬなら、成功見込みに関わらず始めない。
中止条件表の作成開始。項目:中央井戸、ハルマ古井戸、旧水路、北沢石列、ミード薬草帯、薬草予定地、青根布隔離箱、森退避路・空白地帯、黒石祠封印層、命令核癒着反応、命令網逆流、人員状態、記録不一致、王都側要求逸脱、ダリオ本人判断状態』
最後に書く。
『成功率は出ない。
出せないのではなく、出してはいけない。
試行が足りないからではない。
試行自体が危険だからだ。
王都は数字を欲しがった。
何割で成功するのか。
高いのか、中くらいか、低いのか。
けれど、その数字が出た瞬間、人は数字に寄りかかる。
七割なら進むのか。
九割なら誰かを危険に入れていいのか。
その一割の顔を、数字は消してしまう。
成功率で命を売るな。
村長はそう言った。
今日、俺たちは成功率の代わりに、中止条件表を作り始めた。
成功しそうかではなく、止まれるか。
止まれぬなら、成功見込みに関わらず始めない。
これは臆病ではない。
止まった後も、村は生きなければならないからだ。
中止条件表には、外縁だけでなく人も入る。
人員状態。
記録不一致。
王都側要求逸脱。
そして、ダリオさん本人の判断状態。
そこを書いた時、広間は少し静かになった。
人は技術より厄介だ。
けれど、人を条件から外した手順は、たぶん一番危ない。
明日から、中止条件を一つずつ書く。
始めるためではない。
止まるために。
命令核を外す前に、俺たちはまず、止まれる村であることを証明しなければならない。』
地上では、水車が回っている。
数字は出ない。
けれど、紙は増えていく。
成功を約束する紙ではない。
失敗を小さく見せる紙でもない。
止まるための紙だ。
その紙が厚くなるほど、俺たちは少しずつ、命令核へ近づいている。




