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「鑑定しかできない無能」と追放された俺、実は壊れた才能を直せる唯一の神職でした〜捨てられ聖女と辺境村を修理していたら、勇者より先に国を救ってしまった〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第185話 布は逃げる時を買うもの

 布は勝つためにあらず。


 逃げる時を買うものなり。


 その一文は、旧水路班にとって、ただの古い技術文ではなかった。


 あの日、旧水路で灰青反応が出た。


 上流から、水腐れ系の微弱な圧がにじみかけた。


 青根布を一枚使うかどうか、ほんの短い時間で決めなければならなかった。


 布を使えば、青根緩衝帯に負担がかかる。

 使わなければ、水へ戻るかもしれない。


 勝つためではない。


 完全に止めるためでもない。


 逃げる時間を作るために、一枚使った。


 その判断に、覚書が名を与えた。


 撤退時間確保具。


 中枢室の表示は、ずいぶん硬い言い方をしたが、意味は同じだった。


 逃げる時を買う。


 朝の中央井戸の前で、トマはいつもより早く来ていた。


 水面を見ている。


 だが、その顔は井戸ではなく、旧水路の方へ向いているようだった。


 副記録係が読み上げる。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。青根布項目確認後、継続異常なし」


 ニコルが頷いた。


「よいです」


 トマは少し遅れて言った。


「逃げるってさ」


 ニコルが顔を上げる。


「はい」


「なんか、負けみたいに聞こえる時があるだろ」


「あります」


「でも、昨日の覚書だと、逃げるための布なんだよな」


「はい」


「じゃあ、逃げるって、ちゃんとした技術なんだな」


 ニコルはすぐに記録板を開いた。


 トマが苦笑する。


「また書く?」


「はい」


「まあ、今日はいいか」


 ニコルは書いた。


『逃げることは、ちゃんとした技術である』


 トマはその文字を見て、少し照れたように鼻の頭を掻いた。


「俺、昔なら絶対言わなかったな」


「どうしてですか」


「逃げるな、踏ん張れ、根性で止めろ、みたいなこと考えてたから」


「今は違いますか」


「違う、と思う。いや、違っていたい」


 そこへセリアが来た。


 手には薬草予定地の朝記録がある。


「違っていますよ」


 トマが振り返る。


「聞いてた?」


「聞こえました。逃げることを技術と言えるなら、もうかなり違っています」


「セリアにそう言われると、なんか本当にそうかもって思えるな」


「本当にそうです」


 セリアは中央井戸の水面を見た。


「薬草も、逃がすためにあります。根で受け、横へ逃がす。青根布も、逃げる時間を作る。逃げることを恥ずかしいものにしたら、外縁は使えません」


 ニコルがまた書く。


『逃げることを恥ずかしいものにすると、外縁は使えない』


 トマが慌てた。


「今のはセリアの言葉だからな」


「分かっています」


「俺の発言みたいにしないでくれよ」


「発言者名を記録します」


「それはそれで照れるだろ」


 セリアが小さく笑った。


 広間では、昨日の青根布項目をもとに、撤退手順の見直しが始まっていた。


 ただし、手順を大きく変えるわけではない。


 むしろ、今まで曖昧だった言葉をはっきりさせる作業だった。


 村長は机の上に、三枚の木札を並べた。


『勝たない』

『粘らない』

『逃げる時を買う』


 トマがそれを見て、少し困った顔をした。


「なんか、すごい札ですね」


 ダリオさんが豆を椀へ入れながら言う。


「だが、正しい」


「勝たない、ってわざわざ書くんですか」


「書く。人は、道具を持つと勝とうとする」


 リーゼさんが壁際から短く言った。


「武器も同じ」


 ダリオさんが頷く。


「青根布は武器ではない。防壁でもない。撤退時間を買うための道具だ。そこで粘ると、布も人も潰れる」


 セリアが薬草の記録を机に置いた。


「薬草帯も同じです。過負荷なら人を退ける。草に勝たせない」


 ニコルは新しい紙を広げた。


『撤退時間確保手順・暫定整理』


 一、青根布使用は敗北ではない。

 二、青根布は勝つための道具ではない。

 三、青根布は逃げる時を買うもの。

 四、使用判断後、現場は粘らない。

 五、記録より人員退避を優先。

 六、撤退後に確認。

 七、使用済み布は戻さない。

 八、乾燥隔離。

 九、反応低下を安全確認と混同しない。

 十、使用した者を責めない。


 最後の項目で、トマが顔を上げた。


「使用した者を責めない?」


 ニコルは真剣な顔で頷いた。


「必要です」


「でも、それは……」


 トマは言葉を探した。


「俺が気にしてたから?」


「それもあります。でも、それだけではありません。使った人を責める空気があると、次に必要な時に使えなくなります」


 広間が静かになった。


 ダリオさんが、静かに椀を置く。


「その通りだ」


 ニコルは続けた。


「青根布は、使うべき時に使う道具です。でも、使ったあとに“なぜ使った”“もっと粘れたのでは”と言われるなら、現場は迷います。迷っている間に逃げる時間を失います」


 トマは何も言えなかった。


 ニコルの声は、いつもより少し強い。


「だから、使用判断を記録で検証することと、使用した人を責めることは分けます」


 ダリオさんが低く言った。


「いい。非常にいい」


 村長も頷いた。


「その一文は赤で書け」


 ニコルは赤筆を取り、十番の横に書いた。


『検証と責任追及を混同しない』


 トマがその文字をじっと見た。


「……ありがとう」


 ニコルは少しだけ驚いた顔をした。


「いえ。必要なので」


「それ、照れてる時の逃げ言葉だな」


「違います」


「違わない」


 セリアが微笑む。


「でも、必要なのは本当です」


 午前、王都から通信が入った。


『王都覚書開封室より。三枚目下段、布化根項目の保存処理を継続中。追加判読は本日行いません。ただし、昨日確認された“布は勝つためにあらず。逃げる時を買うものなり”について、王都防衛局より解釈確認の照会あり』


 ダリオさんが眉を上げた。


「防衛局か」


 トマが嫌そうな顔をした。


「勝つためにあらず、ってところで引っかかってそう」


 セリアが頷く。


「防衛局からすれば、道具は防ぐため、止めるため、勝つためと考えがちかもしれません」


 王都側の照会文が読み上げられた。


『青根布を防衛資材として位置づける場合、敵性反応の抑止具として常設展開することは可能か。撤退時間確保具という解釈は、実戦上の防御力を過小評価するものではないか』


 広間の空気が、一気に冷えた。


 トマが低い声で言った。


「常設展開?」


 ニコルの筆が止まる。


 セリアの表情が硬くなった。


「……青根布を、常に置くつもりですか」


 ダリオさんが吐き捨てるように言った。


「だから防衛局は嫌なんだ。使える道具を見ると、すぐ並べたがる」


 村長が杖を鳴らした。


「返答せよ。強く」


 ニコルはすぐ紙を出した。


 だが、言葉が少し荒れそうになったのか、筆先が迷った。


 トマが先に口を開いた。


「青根布を常設したら、布が受け続けるんですよね」


 セリアが頷く。


「はい。布は根へ戻れません。受け続けても回復しません」


「じゃあ、逃げる時間を買うどころか、ずっと借金させるみたいなものじゃないですか」


 ダリオさんが鋭く反応した。


「今の、いいな」


「え?」


「ずっと借金させる。分かりやすい」


 ニコルがすぐ書く。


『青根布常設は、逃げる時を買う道具に、常時負担を負わせ続ける行為』


 セリアが続ける。


「青根布は使い捨てです。根のように休めない。薬草帯なら一季休ませることができる。でも布は眠らせるしかありません。常設すれば、使い捨ての逃げ道を常時盾にすることになります」


 リーゼさんが短く言った。


「盾ではない」


 ダリオさんが頷く。


「そこだ。盾ではない。逃げ道だ」


 ニコルは返答案を書き始めた。


『リベル村見解。

青根布を防衛資材として常設展開することに強く反対する。

理由一、青根布は根系へ復帰できず、受けたものを回復処理できない。

理由二、青根布は勝つための道具ではなく、撤退時間確保具である。

理由三、常設すれば、逃げる時を買うための使い捨て道具に常時負担を負わせ続けることになる。

理由四、青根布の反応低下は安全化ではなく、隔離維持が必要。

理由五、常設展開は、撤退判断を遅らせ、人員退避を妨げる危険がある。

結論、青根布は異常時のみ、撤退判断と同時に限定使用する。常設不可』


 トマが頷いた。


「いい。すごくいい」


 セリアも言った。


「常設不可は、はっきり書いた方がいいです」


 村長が低い声で言う。


「最後に加えよ。青根布を並べたがる者は、現場から人を逃がす気がない、と」


 ニコルが少し迷う。


「そのまま書きますか?」


 ダリオさんが苦笑した。


「少し柔らかくしろ。だが、意味は残せ」


 ニコルは考えて書いた。


『青根布常設案は、撤退を前提としない危険な運用である』


 村長は頷いた。


「よい」


 トマがぼそっと言う。


「柔らかくなったけど、かなり刺さるな」


「必要です」


 ニコルは返答した。


 午後、旧水路で撤退訓練を行うことになった。


 大がかりなものではない。


 青根布を実際には出さない。

 箱も開けない。

 水路へ何かを流さない。


 言葉と動きだけの訓練だ。


 トマは旧水路班を集めた。


「今日は、青根布を使った想定で逃げる。布は出さない。水量板は触らない。緩衝線も触らない。やるのは声出しと退避だけ」


 若い班員が聞く。


「布を置く役は?」


「置いたことにする。実際には置かない」


「じゃあ、置いた役はその後どうします?」


「逃げる」


 トマは即答した。


「置いた役が一番粘っちゃ駄目だ。置いたら、後ろに下がる。確認は副記録係が遠くから札で見る。記録が足りなくても戻らない」


 副記録係が頷く。


「記録より人員退避優先」


「そう。記録係も逃げる。書きながら逃げるな。転ぶ」


 班員の一人が笑った。


「書きながら逃げる人、います?」


 トマは真顔で言った。


「いる。たぶんニコルならやる」


 通信で聞いていたニコルが即座に反論する。


『やりません』


 トマが笑う。


「本当か?」


『……努力します』


「ほらな」


 広間で少し笑いが起きた。


 だが訓練は真面目だった。


 トマが手を上げる。


「上流灰青、仮想発生」


 副記録係。


「上流灰青、仮想確認」


「青根布一枚、仮想使用。目的は停止ではなく、撤退時間確保」


 班員。


「撤退開始」


「水量板触るな」


「隔離棚へ戻るな」


「布確認で戻るな」


「人員退避優先」


 声が順に飛ぶ。


 水車小屋の手前まで下がり、赤紐を越えた場所で全員が止まる。


 トマが確認する。


「人数」


「一、二、三、四、五。全員」


「記録係」


「います」


「布役」


「います」


「戻りたい奴」


 若い班員が小さく手を上げた。


 トマは頷いた。


「正直でよし。何が気になる?」


「布がちゃんと効いたか見たくなります」


「見たい。俺も見たい。でも見ない。見たい時ほど、戻らない」


 副記録係が言う。


「見たい時ほど、戻らない」


「それ、記録」


 広間のニコルが通信越しに答える。


『記録済みです』


 トマは空を見上げた。


「早いな」


 訓練を三回繰り返した。


 一回目は、布役が少し後ろを振り返った。


 二回目は、記録係が報告を最後まで言おうとして遅れた。


 三回目で、全員がほぼ同時に退避できた。


 トマは班員たちに言った。


「これが布の仕事だ。止めるんじゃない。逃げる時を買う。布に勝たせるな。俺たちが逃げて、初めて布は役目を果たす」


 若い班員が頷いた。


「逃げないと、布が無駄になるんですね」


「そうだ」


 トマは少し笑った。


「逃げるのも、布への礼だ」


 通信の向こうで、セリアが静かに言った。


『いい言葉です』


 ニコルも言う。


『記録します』


「それは書いていい」


 トマは、今度は照れずに言った。


『逃げるのも、布への礼』


 夕方、王都防衛局から返答が来た。


『リベル村見解を受領。青根布常設案については、外部監査部および技師組合再審査室の意見を待つ。現時点で常設展開を行わない』


 トマが胸を撫で下ろした。


「よかった。ひとまず止まった」


 ダリオさんは渋い顔をした。


「ひとまず、だ。防衛局は便利なものを諦めるのが下手だ」


 セリアが頷く。


「だから、根拠を増やしましょう。覚書の続きと、訓練記録を送れば、常設不可の理由が強くなります」


 ニコルはすでにまとめていた。


『青根布撤退訓練記録』


 一、仮想青根布使用後、即時撤退。

 二、布役は戻らない。

 三、記録係は書きながら逃げない。

 四、全員退避確認を優先。

 五、見たい時ほど戻らない。

 六、逃げるのも布への礼。


 ダリオさんが最後の一文を見て、少し笑った。


「いい。王都向けには少し表現を変えるか」


 トマが嫌そうな顔をする。


「え、変えるんですか」


「王都には“撤退完了により青根布の目的が達成される”と書く」


「硬い」


「だが、添え書きで残してもいい」


 村長が言った。


「両方送れ。王都の言葉と、現場の言葉を並べるのじゃ」


 ニコルが頷いた。


「はい」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『青根布の本質について整理。

覚書文:“布は勝つためにあらず。逃げる時を買うものなり”。

リベル村方針:青根布は撤退時間確保具であり、防衛資材として常設不可。異常時のみ、撤退判断と同時に限定使用。使用者を責めない。検証と責任追及を混同しない。

王都防衛局より、青根布常設展開案の照会あり。リベル村は強く反対。理由:根系復帰不可、常時負担、撤退判断遅延、隔離管理必須。

旧水路班で撤退訓練実施。青根布を実際には出さず、仮想使用後に退避。三回目で全員退避確認良好。

トマ発言:“逃げることは、ちゃんとした技術である”“逃げるのも、布への礼”。

ニコル記録:“使用した者を責めない”“検証と責任追及を混同しない”。

セリア発言:“逃げることを恥ずかしいものにすると、外縁は使えない”』


 最後に書く。


『布は逃げる時を買うもの。

勝つためではない。

粘るためではない。

青根布を置いた者が、最後までそこに残る必要はない。

むしろ、残ってはいけない。

逃げて、人数を数えて、戻らない。

それで布の役目は果たされる。

使った者を責めてはいけない。

責めれば、次に必要な時、手が止まる。

手が止まれば、人が逃げる時を失う。

王都防衛局は青根布を常設できないかと考えた。

便利なものを並べたがるのは、王都の悪い癖だ。

だが、青根布は盾ではない。逃げ道だ。

逃げ道を壁にしてはいけない。

今日、旧水路班は逃げる訓練をした。

見たい時ほど戻らない。

逃げるのも布への礼。

その言葉は、たぶん王都の硬い報告書には似合わない。

でも、リベル村の台帳には残す。

現場の言葉として。』


 地上では、水車が回っている。


 逃げることは、臆病ではない。


 逃げるために残された布がある。


 逃げるために守られた道がある。


 そして、逃げ切った人間だけが、次の日の記録を書ける。

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