第133話 ローゼン侯爵家、反論する
薬草予定地に新芽が出た翌朝、リベル村は少しだけ明るかった。
中央井戸の水は澄んでいる。
旧水路下流の黒粒子も、青土封じ札を置いてから浮き上がりが減っている。
傷洗い草の根元に出た小さな新芽は、夜露を受けても倒れていなかった。
セリアは朝から薬草予定地の柵の外に座り、記録札を膝の上に置いていた。
「朝。傷洗い草本株、葉先青反応微弱継続。新芽、倒伏なし。薬草土壌小区画、土壌保持安定。灰青反応写しは未使用」
ハンナが隣で記録を写す。
子供たちは柵の外から、新芽を見て小声で騒いでいた。
「赤ちゃん草だ」
「触らない」
「踏まない」
「騒がない」
「でも見たい」
「見るのはいい」
いつものやり取りに、セリアは思わず笑った。
消す聖女ではなく、荒れた土を落ち着かせる役になりたい。
昨日、自分で言った言葉が、まだ胸の奥に残っている。
恥ずかしさもある。
けれど、不思議と後悔はなかった。
神殿にいた頃なら、そんな言葉は言えなかった。浄化とは悪いものを消すこと、汚れを払うこと、正しい光で暗いものを退けること。そう教えられてきた。
でも、リベル村では違った。
水土見守り基点は、壊すのではなく取り戻した。
黒石祠は、破壊してはいけない災害封じの祠だった。
傷洗い草は、封じられた水脈腐食性災害反応を嫌っている。
消すだけでは、守れないものがある。
それを知ったから、彼女は昨日の言葉を言えた。
だが、その穏やかな朝は長く続かなかった。
昼前、王都から急ぎの文書が届いた。
馬は一頭。
使者は行政庁の者だったが、顔色があまり良くない。
封筒には行政庁の封蝋。
その上から、別紙が一枚重ねられている。
赤い札。
『ローゼン侯爵家正式反論写し』
広場にいた者たちの空気が変わった。
トマは旧水路から戻ってきたばかりで、手に採水瓶を持っていた。
「来たか」
声は低い。
怒鳴らない。
でも、怒っているのは分かった。
村長宅の広間に、いつもの顔ぶれが集まった。
村長。
俺。
ダリオさん。
セリア。
リーゼさん。
トマ。
ニコル。
机の上には、これまでの記録台帳が並ぶ。
黒薔薇工房関連責任照合台帳。
黒石祠・旧水路安全保全台帳。
黒石災害封じ祠・本来機能調査台帳。
薬草土壌緩衝帯小規模試験記録。
そして今、新しい紙が置かれた。
ローゼン侯爵家からの正式反論。
村長が静かに言った。
「読め」
俺は封を切った。
文面は、いかにも王都貴族の代理人が整えたものだった。
余白が広く、言葉は丁寧で、責任の所在だけが巧妙にぼやかされている。
読み上げる。
『ローゼン侯爵家は、リベル村および王都行政庁より提示された黒薔薇工房関連照会について、以下の通り反論する。
一、黒薔薇工房は既に廃止された旧組織であり、現ローゼン侯爵家の指揮系統および管理責任下にはない。
二、侯爵家金属資料は、旧水脈事業の保管資料に過ぎず、危険性を認識していた事実はない。現地確認時の黒石祠本体反応上昇については、リベル村側中枢室の誤作動、または現地施設の不安定性による可能性がある。
三、リベル村は、黒石祠を本来施設と断定し、王都許可なく調査を継続している。
四、ダリオ・ヴェントは除名技師であり、その技術判断の信頼性には疑義がある。
五、レオン・アスターは追放鑑定士であり、鑑定記録の中立性について慎重な検証を要する』
読み終えた瞬間、トマの手が机へ向かった。
だが、叩かなかった。
寸前で止めた。
拳を握り、ゆっくり下ろす。
「……怒るけど、記録する」
その声は震えていた。
ニコルが小さく頷く。
「はい。怒りは混ぜず、記録します」
ダリオさんは黙っていた。
腕を組み、壁にもたれている。
いつものように軽口を言わない。
その沈黙が、かえって痛々しかった。
セリアは文面を見つめている。
「リベル村側中枢室の誤作動……」
「そこを突いてきましたね」
俺は紙を机へ置いた。
「金属資料が危険だったのではなく、リベル村側の中枢室が不安定だった可能性にしている。水土見守り基点や黒石災害封じ祠の本来機能についても、“断定した”と表現している」
ニコルがすぐに書き出す。
『侯爵家反論要点。
一、黒薔薇工房は旧組織であり現侯爵家責任外。
二、金属資料危険性認識なし。反応上昇は中枢室誤作動または現地不安定性の可能性。
三、リベル村が黒石祠本来施設を断定し無許可調査継続。
四、ダリオ除名技師の信頼性攻撃。
五、レオン追放鑑定士の中立性攻撃』
書きながら、彼は顔を上げた。
「言い返す紙と、安全の紙を分けますか」
「分ける」
村長が即答した。
「怒りで水を濁らせぬ。だが、黙りもせぬ」
トマが深く頷いた。
「黙ったら、向こうの言い分だけ残るもんな」
「はい」
ニコルが言う。
「反論への回答台帳を作ります」
彼は新しい紙を出した。
『ローゼン侯爵家正式反論への現地記録上の回答』
その見出しを見て、トマが少しだけ笑った。
「硬いな」
「硬くします」
「いいと思う」
しかし、ダリオさんはまだ黙っていた。
俺は彼を見た。
「ダリオさん」
「分かってる」
彼は低く答えた。
「除名技師って言われるのは、今さらだ」
声は平気そうだった。
でも、平気ではなかった。
トマが珍しく茶化さなかった。
セリアも何も言わない。
リーゼさんが静かに口を開いた。
「今さらでも、傷は残る」
ダリオさんは少しだけ目を伏せた。
「……まあな」
彼は椅子に座り、王都からの反論写しを見た。
「技術判断の信頼性に疑義、か。便利な言葉だ。除名した相手の言葉は信じなくていい。信じない理由を作ってから、聞かない。王都らしい」
ニコルが筆を止める。
「ダリオさん」
「何だ」
「負け話でも、記録すれば証拠になります」
広間が静かになった。
ダリオさんはニコルを見た。
しばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ笑った。
「ずいぶん偉くなったな、水土記録係」
「仮です」
「今のは、かなり本採用っぽかったぞ」
ニコルは赤くなったが、視線を逸らさなかった。
「除名理由も、記録しましょう。ダリオさんが黒薔薇工房系統の資料に疑問を持った時期と、除名された時期が近いなら、それも比較できます」
ダリオさんの表情から、少しだけ軽口が消えた。
「……その話は、あとでいいか」
村長が頷いた。
「無理に今話すことはない」
「いや」
ダリオさんは首を振った。
「今、少しだけ話す。全部は無理だが、入口だけでも記録しろ」
ニコルはすぐに別紙を出した。
『ダリオ・ヴェント記憶証言 一』
ダリオさんはそれを見て苦笑する。
「一って何だ」
「続く可能性があります」
「嫌な予感がする」
「大事なので」
「それも便利だな」
彼は少し目を閉じた。
昔の資料の匂いでも思い出しているのかもしれない。
「王都技師組合にいた頃、古い水脈事業資料の整理を命じられたことがある。表向きは廃棄前の照合だった。古い工房印、施工記録、失敗試験、封印施設の管理図。そういうのが山ほどあった」
ニコルの筆が走る。
「その中に、黒薔薇工房の印が?」
「名前は覚えていなかった。ただ、蔓みたいな線と棘のある薔薇の印は見た。昨日の復元図で、記憶が戻った」
「その資料は、どうなりましたか」
「途中で閲覧禁止になった」
ダリオさんの声が少し硬くなる。
「理由は?」
「知らされなかった。上から、“旧事業資料に不備があったため、管理官以上の扱いとする”とだけ言われた」
「その後、除名?」
「すぐではない。だが近かった。俺は別件で管理規定違反を問われた」
トマが思わず口を挟む。
「別件って、本当に?」
ダリオさんは肩をすくめる。
「書類上は本当だ。俺が許可範囲外の古い施工記録を写したことになっている」
「実際は?」
「見た。写したかどうかは……」
彼は少し迷った。
それから、正直に言った。
「一部、手控えは作った。だが、持ち出していない。机上の照合用だった」
ニコルはそのまま記録する。
「手控えは残っていますか」
「残っていない。没収された」
広間がまた重くなる。
ダリオさんは続けた。
「その時、俺は黒薔薇工房の資料の中に、黒石祠と同じような命令補助印を見た。今ならそう言える。当時は、意味が分からなかった。ただ、水脈管理なのに、命令系の印が混ざっているのが気になった」
「それを誰かに言いましたか」
「上役に言った。すると、翌週にはその棚が封鎖された」
トマが拳を握る。
「それ、完全に――」
「断定するな」
ダリオさんが止めた。
トマは息を吐き、拳を下ろした。
「……怒るけど、記録する」
「そうだ」
ニコルは震えそうになる手を押さえながら書き続けた。
『ダリオ証言:技師組合時代、黒薔薇工房と思われる旧水脈事業資料内に、水脈管理資料としては不自然な命令補助印を確認。上役へ報告後、当該棚が閲覧禁止。後日、管理規定違反により除名。手控えは没収。時期近接。断定不可、照合候補』
最後の「断定不可、照合候補」を書く時、ニコルは声に出した。
ダリオさんが頷く。
「それでいい。俺の記憶だけで侯爵家を殴るな。だが、無かったことにもするな」
「はい」
セリアが静かに言った。
「記憶も、土みたいですね」
ダリオさんが眉を上げる。
「また俺の記憶が土になったか」
「掘りすぎると崩れます。でも、見ないと分からないものがあります」
ダリオさんは苦笑した。
「聖女様にそう言われると、変に納得するな」
「聖女というより、今は薬草係見習いです」
「それも強いな」
その日の午後、ローゼン侯爵家への回答作成が始まった。
まず、黒薔薇工房は旧組織で現侯爵家の責任外という主張。
リベル村側は、責任判断は王都に委ねる。
ただし、安全上、黒薔薇工房系統の印がリベル村旧水路設備に残っている以上、「現存しない組織だから危険も存在しない」とは扱えない。
次に、金属資料は保管資料に過ぎず危険性を認識していなかったという主張。
これについては、現地公開確認中に未申告で提示され、中枢室が外部共鳴疑いを出し、遮断後に反応低下した記録がある。
因果は未断定。
だが、危険性を認識していなかったなら、保管管理不備の可能性がある。
認識していたなら、未申告持ち込みの問題がある。
どちらにせよ、安全確認の対象。
三つ目。
リベル村が黒石祠を本来施設と断定している、という主張。
ニコルがここで顔を上げた。
「断定していません」
「はい」
俺は頷いた。
「“旧称候補”“可能性が高い”“中枢室表示”として記録しています。破壊不可と判断したのは、安全上の措置です」
セリアが続ける。
「もし本来施設でなかったとしても、内部に水脈腐食性災害反応が封じられている可能性がある以上、破壊不可は変わりません」
「その通りです」
俺はそのまま書いた。
四つ目、ダリオの信頼性攻撃。
これは、こちらから強く反論しすぎると泥沼になる。
だから、ダリオ個人の肩書きではなく、王都外部監査技師エルナの中間所見、防衛局の安全評価、現地確認時の王都側記録を添える。
ダリオだけの判断ではない。
現地で王都側が確認した記録がある。
五つ目、俺の追放鑑定士としての中立性。
ここも同じだ。
俺の鑑定記録単独ではなく、中央井戸記録、周辺村証言、中枢室表示、王都現地確認記録、外部監査部照合結果と照らしている。
ニコルがまとめた。
「個人を攻撃されたら、個人で返さない。記録の束で返す」
ダリオさんが小さく笑った。
「本当に仕上がってるな」
「仮です」
「もう誰も信じてないぞ、その仮」
トマが横から言う。
「でも、本人が仮って言いたいなら言わせとこうぜ」
「珍しく優しいな」
「俺も成長してるからな」
今度は、誰も止めなかった。
夕方、王都へ送る回答書が完成した。
題名はこうなった。
『ローゼン侯爵家正式反論に対する現地記録上の整理、および安全保全継続報告』
内容は冷静だった。
怒りは入れない。
ただ、逃げ道も作らない。
村長は最後まで読み、頷いた。
「よい。怒鳴っておらぬが、退いてもおらぬ」
トマがぼそっと言う。
「理想の俺みたいだな」
ダリオさんが即座に言う。
「まだ遠い」
「厳しい」
夜。
ダリオさんは一人で地下工房へ行こうとしたが、今度は自分で足を止めた。
そして、ニコルを呼んだ。
「記憶証言の続きは、明日にする」
「はい」
「今日は、ここまでで封じろ」
ニコルは頷き、ダリオの記憶証言一を封印箱に入れた。
その手つきは、薬草の種をしまう時のセリアに少し似ていた。
夜、俺は個人記録を書いた。
『ローゼン侯爵家より正式反論。
黒薔薇工房は旧組織であり現侯爵家責任外。金属資料は保管資料で危険認識なし。反応上昇はリベル村中枢室誤作動または現地不安定性の可能性。リベル村は黒石祠を断定し無許可調査継続。ダリオは除名技師。レオンは追放鑑定士。
これに対し、リベル村は怒りを混ぜず、現地記録上の回答を作成。
個人攻撃には個人で返さず、記録の束で返す方針』
続けて書く。
『ダリオ記憶証言一。
王都技師組合時代、旧水脈事業資料内に黒薔薇工房印と思われる印と、水脈管理資料として不自然な命令補助印を確認。上役へ報告後、資料棚が閲覧禁止。後日、管理規定違反により除名。手控えは没収。
断定不可、照合候補として記録』
最後に書いた。
『ローゼン侯爵家は、責任を遠ざける紙を出した。
だが、リベル村は責任追及だけに飲まれない。
安全の紙を続ける。
水は澄んでいるか。土は揺れていないか。薬草は何を嫌がっているか。黒石祠は何を封じているか。
怒りで水を濁らせない。
けれど、濁らせようとした手は記録する。』
地上では、水車が回っている。
森の奥には黒石災害封じ祠がある。
王都では、黒薔薇工房の資料が開かれようとしている。
そしてダリオの過去も、少しずつ記録の中へ戻り始めていた。




