第115話 照会状は、朝の井戸に届く
王都からの正式な照会状が届いたのは、中央井戸の朝の記録が終わった直後だった。
井戸の水は澄んでいた。
ニコルが記録板へ、
『朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定』
と書き終えたところで、村の入口から馬の蹄の音が聞こえた。
早馬ではない。
だが、普通の商人でもない。
蹄の音が一定で、馬を無理に急がせていない。
荷も軽い。
そして、村の入口で止まった時、使者はまず門番へ名乗った。
「王都行政庁、照会便です」
広場にいた者たちが、自然と顔を上げた。
トマが水路の方から走ってきかけて、途中で足を止める。
「王都……またか」
声に疲れが混じっていた。
無理もない。
黒石祠本体はまだ残っている。
水土見守り基点は取り戻したばかり。
周辺村の記録網も始まったばかり。
村は少しずつ落ち着きを取り戻しているが、王都からの紙はいつも、落ち着きかけた水面へ小石を投げ込む。
使者は村長宅へ通された。
封蝋は行政庁。
添え印は防衛局。
さらに、調査監査部の細い印が押されていた。
ローゼン侯爵家の名前は封の表にはない。
それでも、全員が分かっていた。
これは、あの抗議の続きだ。
村長は文書を机に置き、俺を見た。
「読め」
「はい」
封を切る。
紙は厚い。
王都の正式照会に使う紙だ。
俺は息を整えて読み上げた。
『リベル村村長ならびにレオン・アスター殿。
王都行政庁は、リベル村より提出された黒石祠外縁安定化および地域水脈保全記録、ならびに追補各号を受領した。
これに対し、ローゼン侯爵家代理人より、同記録の一部について照会要求が提出された』
トマが小さく舌打ちした。
セリアが横からそっと視線を向ける。
トマはすぐに手を上げた。
「机、叩いてない」
ダリオさんが言う。
「成長してる」
「今それ言う?」
「大事だ」
空気が少しだけ緩んだ。
俺は続きを読んだ。
『照会事項。
一、水土見守り基点の本来名判明に至る解析根拠。
二、同基点が黒石祠の一部ではなく、地域保全施設であると判断した根拠。
三、遮断札二号を三枚使用した同期解除作業において、王都許可なく古代施設へ干渉した事実の有無。
四、周辺村共同記録網の記録が、リベル村主導で作成されたものであり、誘導された記録ではないとする根拠。
五、黒石祠本体の残存命令核が未解除であるにもかかわらず、リベル村が現地管理を継続する安全性』
ニコルの顔が青くなっていく。
「……全部、突いてきましたね」
「突けるところを全部突いてきたな」
ダリオさんの声は低い。
セリアは文書を見つめながら言った。
「でも、これはまだ断罪ではありませんよね」
「はい」
俺は文書の末尾を確認する。
「照会です。回答期限は十日後。ただし、王都側は現地確認の必要性も検討しているようです」
続きを読んだ。
『行政庁としては、現地記録の重要性を認める一方、王都内における議論の混乱を避けるため、リベル村側に補足回答を求める。
なお、必要に応じ、行政庁、防衛局、技師組合外部監査員による現地確認班を派遣する可能性がある』
読み終えた時、広間はしばらく静かだった。
外では水車が回っている。
その音だけが、いつも通りだった。
トマが低く言う。
「これ、こっちが悪いって決めつけてるのか?」
「そこまでは書いていません」
俺は紙を机に置いた。
「ただ、こちらが答えなければ、ローゼン侯爵家側の主張が通りやすくなります」
ニコルが記録板を抱え込む。
「十日……回答書を作るには時間があります。でも、現地確認班が来るなら、準備が必要です」
ダリオさんが腕を組んだ。
「技師組合外部監査員、か。誰が来るかで面倒さが変わるな」
「知り合いがいるんですか」
トマが聞く。
「嫌な知り合いなら山ほどいる」
「最悪じゃん」
「良い知り合いは少ない」
「さらに最悪」
セリアが文書の一箇所を指した。
「四番の、“誘導された記録ではない根拠”ですが……これは周辺村の人たちにも関わりますよね」
「はい」
俺は頷いた。
「ハルマ村、北沢集落、ミード村の記録が、リベル村に言わされたものだと疑われています」
セリアの表情が少し強張った。
「それは……嫌ですね」
「嫌です」
ニコルが珍しく強い声で言った。
「ハルマ村の井戸番さんも、北沢の井戸番さんも、ミードの薬草係さんも、自分の目で見て書いてくれました。字が違います。書き方も違います。備考欄の言葉も違う。誘導された記録ではありません」
ダリオさんがニコルを見た。
「その怒り、いいな」
「怒っています」
「なら、そこを証拠にしろ」
ニコルは少し驚いた顔をした。
「証拠に?」
「ああ。字が違う。欄の使い方が違う。備考の言葉が違う。村ごとに見ているものが違う。それは誘導していない証拠になる」
ニコルの目に光が戻った。
「確かに……同じ文言ではなく、それぞれの村の生活語が残っています。ハルマ村は“匂い弱い”、北沢は“土の冷え”、ミードは“葉の丸まり”と書いている。これを比較表にできます」
「それだ」
ダリオさんが頷く。
「王都の紙に勝つには、綺麗すぎる紙じゃ駄目な時がある。現場の癖が残っている方が強い」
トマが言った。
「俺の字が汚いのも証拠になる?」
ニコルは即答した。
「なります」
「なるのかよ」
「トマさんの記録は、誘導では絶対出ない字です」
「褒めてる?」
「証拠として褒めています」
「複雑だな」
村長は照会状を静かに読んでいた。
やがて、顔を上げる。
「待って答えるだけでは弱いな」
全員が村長を見る。
村長は文書を机の上に置いた。
「王都が現地確認班を送るかもしれぬ、と書いてある。ならば、こちらから招けばよい」
「こちらから?」
セリアが聞く。
「そうじゃ」
村長の声は穏やかだった。
「リベル村は隠すものがない。井戸も、水路も、薬草予定地も、水土見守り基点も、記録も見せる。もちろん黒石祠本体へは近づけぬ。だが、現地確認を拒む理由はない」
ダリオさんがゆっくり笑った。
「守りに入るんじゃなくて、公開確認にするのか」
「そうじゃ」
村長は頷く。
「王都から来る査察を待つのではない。こちらから、現地公開確認を提案する。周辺村の代表も呼ぶ。ハルマ、北沢、ミード、それぞれ記録を書いた者に来てもらう」
ニコルが息を呑んだ。
「それなら、“誘導された記録”かどうか、本人たちが説明できます」
セリアも頷く。
「ミードの薬草係さんなら、止血草の葉の状態を自分の言葉で話してくれます」
トマが腕を組んだ。
「ハルマの井戸番も来てくれるかな」
「頼めば来てくれる可能性はあります」
俺は答えた。
「少なくとも、昨日までのやり取りなら」
リーゼさんが静かに言った。
「ただし、王都の者が来るなら警備も必要だ」
「そうですね」
黒石祠本体は未解除だ。
残存命令核もある。
外部干渉痕も見つかっている。
現地確認中に黒石祠が反応すれば、リベル村の管理能力を疑う材料にされる可能性がある。
逆に、そこで冷静に対応できれば、強い証拠になる。
まさに紙と現場、両方の戦いだ。
村長は言った。
「ならば、返答は二つに分ける。ひとつは照会事項への補足回答。もうひとつは、現地公開確認の提案じゃ」
ニコルがすぐに紙を出した。
「題名は?」
少し考える。
王都向けに、感情的ではなく、こちらの主導権が伝わる題名。
俺は筆を取った。
『照会事項に対する補足回答および現地公開確認の提案』
トマが覗き込む。
「硬い」
ダリオさんが言う。
「硬くていい。王都へ投げる石みたいな題名だ」
「紙なのに石なのか」
「重い紙は石になる」
「名言っぽいけどよく分からん」
ニコルは真面目に欄外へ書こうとして、トマに止められていた。
まず、補足回答の整理が始まった。
一、水土見守り基点の本来名判明に至る解析根拠。
中枢室の表示。
中央井戸、薬草予定地、周辺村三地点の記録登録後に本来導線反応が上昇したこと。
本来役割が、周辺村の実際の症状と一致したこと。
二、地域保全施設であると判断した根拠。
黒石祠同期解除後、中央井戸、薬草予定地、ハルマ村、北沢集落、ミード村の状態が改善傾向にあること。
もし黒石祠の一部であれば、解除後に地域保全反応が上昇する説明がつかないこと。
三、無許可干渉の有無。
黒石祠本体は未開封、未接触。
水土見守り基点も開封せず、外縁同期のみ解除。
遮断札は一回使用後に破損し、破片回収、封印保管。
強制操作ではなく、本来導線保護下の同期解除であること。
四、周辺村記録の独立性。
村ごとの筆跡、表現、症状、記録時刻。
同じ形式だが、備考内容は各村の生活実感に基づくこと。
記録者本人の証言を現地公開確認で提示可能。
五、現地管理の安全性。
黒石祠本体は未解除であり、リベル村単独で最終処理するとは主張していないこと。
王都との情報共有を継続していること。
むしろ現地記録をもとに、危険箇所へ無理に触れず段階的に対応していること。
ニコルは書きながら、何度も頷いていた。
「これなら、答えになります」
「まだ草案です」
俺が言うと、彼は顔を上げた。
「でも、前より怖くありません」
村長が微笑んだ。
「記録があるからじゃ」
その日の午後、ハルマ村、北沢集落、ミード村へ使いを出した。
内容は簡単だ。
王都から照会が来たこと。
周辺村の記録が疑われていること。
もし可能なら、現地公開確認に記録者本人として参加してほしいこと。
無理なら、記録者の署名入りの短い証言を送ってほしいこと。
トマはハルマ村へ行きたがった。
「俺、井戸番さんと話したし」
ダリオさんが腕を組む。
「行くなら怒鳴るな」
「怒鳴らない」
「行商人の話を聞いても?」
「怒鳴らない」
「侯爵家の悪口を言われても?」
「……小声で怒る」
「駄目だ」
「じゃあ、心の中で怒る」
「それならいい」
結局、トマはハルマ村への使いに同行することになった。
セリアはミード村へ行きたがったが、薬草予定地の管理があるため残ることになった。代わりに、ミード村の薬草係へ向けて短い手紙を書いた。
『止血草の葉の変化を、ご自身の言葉で書いていただけると助かります。難しい言葉でなくて大丈夫です。薬草を見る方の言葉が、一番必要です』
その文を読んだリーゼさんが言った。
「よい手紙だ」
セリアは少し照れた。
「王都向けではありませんから」
「だから良い」
夕方、ハルマ村から最初の返答が戻った。
トマが戻ってくるなり、広場で叫んだ。
「来てくれるって!」
今度は誰も止めなかった。
彼は息を切らしながら村長宅へ駆け込んだ。
「ハルマの井戸番さんと村長が、現地確認に来るって。井戸の記録も持ってくるってさ。あと、“うちの字までリベル村に書かされたと言われるのは心外だ”って」
ニコルが目を輝かせた。
「強い証言です」
「だろ!」
続いて、北沢集落からも返答。
井戸番の女性が来る。
畑北側の土の冷えについて、実際に触って説明できるという。
ミード村からは、夜に使いが戻った。
薬草係の老女は来られないが、署名入りの手紙を送ってきた。
『止血草の葉は、リベル村に言われて丸まったり開いたりするものではない。私は自分の畑を見て書いた。水土見守り基点の話は難しいが、過剰に水をやらずに済んだのは確かだ』
セリアはその手紙を読んで、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「強いですね」
「はい」
俺は頷いた。
「とても強いです」
夜、現地公開確認の提案書が完成した。
王都へ送る文書には、こう書いた。
『リベル村は、照会事項への補足回答に加え、行政庁、防衛局、技師組合外部監査員による現地公開確認を受け入れる用意がある。
確認対象は、中央井戸、旧水路下流、薬草予定地、水土見守り基点に関する非接触記録、中枢室反応記録、遮断札破片封印記録、周辺村共同記録。
黒石祠本体および残存命令核への接触は安全上認めない。
ハルマ村、北沢集落の記録者本人も参加予定。ミード村薬草係より署名入り証言あり。
現地の水と土を見ずに、危険性のみを論じることは不適切であると考える』
最後の一文を入れるか、少し迷った。
村長は迷わなかった。
「入れよ」
「強すぎませんか」
「強くてよい。だが怒鳴ってはおらぬ」
ダリオさんが笑った。
「いい紙だ。怒鳴らないが、逃げない」
トマが頷く。
「俺みたいだな」
「まだそこまでは言ってない」
「ひどい」
夜、俺は個人記録を書いた。
『王都行政庁より照会状。
ローゼン侯爵家代理人が、水土見守り基点の本来名、地域保全施設判断、同期解除作業、周辺村記録の独立性、現地管理安全性について照会要求。
リベル村は補足回答に加え、現地公開確認を提案する方針を決定。
ハルマ村、北沢集落の記録者が参加予定。ミード村薬草係より署名入り証言あり。
王都の紙に対し、こちらは水と土を見せる。
隠すのではなく、公開する。
ただし黒石祠本体と残存命令核には触れさせない。守るべき線は守る』
最後に書く。
『黒石祠はまだ残っている。
ローゼン侯爵家も退かない。
だが、こちらももう逃げるだけではない。
記録を握り、井戸を見せ、土を見せ、書いた人の声を連れて、王都の照会に答える。
紙の戦いは、井戸端から始まる。』
外では、水車が変わらず回っている。
明日、文書は王都へ向かう。
そしてその先には、きっと現地確認の日が来る。
黒石祠本体を見る前に、リベル村はまず、王都の目をこちらへ向けさせることになった。




