表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

112/173

第112話 黒い影と、抜かない剣

黒い影は、音もなく近づいてきた。


 足音がない。


 落ち葉を踏む音も、枝を揺らす音もない。


 ただ、森の空気が一歩ずつ冷たくなる。


 それだけで、影が近づいていると分かった。


 人の形に見えた瞬間もあれば、獣のように低く沈む瞬間もある。輪郭は定まらず、黒い水面に映った姿だけが立ち上がったようだった。


 顔はない。


 けれど、こちらを見ている。


 その気配だけは、はっきりあった。


 リーゼさんは剣を抜かなかった。


 鞘ごと両手で構え、俺とダリオさんの前に立つ。


 いつもの彼女なら、踏み込みは速い。

 相手の隙を見て、迷いなく斬る。


 だが、今は違う。


 斬らない。


 通さない。


 そのためだけに立っている。


「レオン、手を離すな」


 ダリオさんの声が背中側から聞こえた。


「分かっています」


 俺は修復針を命令線外縁に置いたまま、指先の震えを押さえ込んだ。


 黒石祠の命令線は、今まさに緩んでいる。


 切ったわけではない。

 外したわけでもない。


 水土見守り基点の青い反応が立ち上がる瞬間を待つために、結び目にわずかな隙間を作っている状態だ。


 ここで手を離せば、黒紫の圧が戻る。


 強く押せば、青い導線まで傷つく。


 動けない。


 だから、リーゼさんが前に立っている。


 残滓影が揺れた。


 黒い腕のようなものが、地面から伸びる。


 リーゼさんは一歩横へ動いた。


 斬るのではなく、進路を塞ぐ。


 残滓影の腕が鞘に触れた瞬間、黒い波紋が広がった。


 金属音はしない。


 代わりに、耳の奥が詰まるような嫌な圧が走った。


 リーゼさんの足元の落ち葉が、黒く湿ったように沈む。


「リーゼ!」


 思わず声が出た。


「見るな。手元を見ろ」


 リーゼさんは振り返らずに言った。


 声は落ち着いていた。


 俺は歯を食いしばり、修復針へ意識を戻す。


 青い反応はまだ立っている。


 中央井戸からの静かな水の反応。

 薬草予定地の土壌保持線。

 ハルマ村の濁りの記録。

 北沢集落の冷えの記録。

 ミード村の薬草畑の記録。


 それらが、細い青の流れになって水土見守り基点へ届いている。


 黒石祠の命令線は、その青を押し潰そうとしている。


 そして、残滓影は俺たちの作業を止めるために来た。


 リーゼさんは、それを斬らずに受けている。


 残滓影がさらに一歩進んだ。


 今度は、人の肩のようなものが膨らみ、黒い幕のように広がる。


 リーゼさんは後ろへ下がらない。


 鞘を斜めに構え、影の動きを横へ流す。


 押し返すのではない。


 受け流す。


 だが、残滓影は物理的な相手ではない。


 力で押せば押すほど、鞘を通して黒紫の衝撃が伝わる。


 それが命令線に戻れば、作業が乱れる。


 だからリーゼさんは、力を込めきらない。


 紙一枚ぶんの隙間を作るように、影の進路をずらす。


「……面倒だな」


 彼女が低く呟いた。


 トマなら叫び返していただろう。


 だが、ここにトマはいない。


 ここにあるのは、森の静けさと、黒い影と、抜かれない剣だけだ。


 ダリオさんが水脈棒を見ながら叫ぶ。


「命令線、揺れた! リーゼ、強く当てるな!」


「分かっている」


「ほんとか!」


「本当だ」


 こんな時でも、リーゼさんの返事は短かった。


 だが、その短さが逆に頼もしい。


 残滓影は、リーゼさんの右側へ回り込もうとした。


 彼女は踏み込まず、半歩だけ位置を変える。


 足元の落ち葉を踏む音。


 その音だけが、彼女がまだ人間の身体でそこに立っている証拠だった。


 影が鞘に触れる。


 黒い波紋。


 リーゼさんの肩がわずかに揺れる。


 けれど、彼女は剣を抜かない。


 鞘の先で、影の進路だけを変える。


「斬らない」


 彼女は自分に言い聞かせるように言った。


「通さない」


 その言葉に、セリアからの通信が重なった。


『薬草予定地、札が少し揺れています。でも土は安定。中央井戸、濁りなし。水路、黒粒子増加なし』


 戻る場所は、保たれている。


 村側も踏みとどまっている。


 なら、こちらも踏みとどまるしかない。


 ダリオさんが低く言った。


「レオン、次の青が来る。そこで同期を外す準備だ」


「はい」


 修復針の先から、青い震えが伝わる。


 水土見守り基点が、黒石祠の命令ではなく、村と周辺の記録へ返事を返している。


 今までで一番強い青。


 だが、その直前に、残滓影が形を変えた。


 黒い幕が左右へ裂けるように広がり、リーゼさんを避けて俺たちの横へ抜けようとする。


 リーゼさんの目が鋭くなった。


 普通なら、そこで斬る。


 広がった影を、刃で払う。


 だが、彼女は剣を抜かなかった。


 代わりに、鞘を地面へ斜めに突き立てた。


 黒い影がその前で揺れる。


 リーゼさんは鞘を支点に身体を回し、影の広がる方向へ自分の身体ごと入った。


 鞘で斬らない。


 身体で進路を塞ぐ。


 黒い影が彼女の肩へかすった。


 リーゼさんの顔が苦痛に歪む。


「リーゼさん!」


 セリアの声が携帯札から響いた。


 森の入口ではなく、薬草予定地からの通信だ。


 彼女も異常を察したのだろう。


 リーゼさんは歯を食いしばったまま答えた。


「問題ない」


「問題あります!」


「まだ動ける」


「それは問題ないとは言いません!」


 こんな状況なのに、ダリオさんが一瞬だけ笑いそうな顔をした。


 だが、すぐに水脈棒へ視線を戻す。


「リーゼ、あと少しだ。押し返すな。止めるだけでいい」


「ああ」


 リーゼさんは左足を踏み直した。


 影は彼女の脇を抜けられない。


 苛立つように揺れ、黒い腕を何本も伸ばす。


 鞘に触れた腕は、形を保てず崩れる。


 だが、消えはしない。


 地面へ落ちた黒い滲みが、また影へ戻る。


「倒せないのか」


 俺が呟くと、ダリオさんが答えた。


「倒す必要がない。時間を稼げばいい」


 そうだ。


 これは戦闘ではない。


 これは作業を守るための時間稼ぎだ。


 リーゼさんは、敵を倒すために立っているのではない。


 俺たちが水土見守り基点を外す時間を作るために立っている。


 その時、村側から次々に通信が届いた。


『中央井戸、青反応上昇。水面揺れあり。濁りなし』


『薬草予定地、土壌保持安定。芽、異常なし』


『ハルマ村、濁り増加なし』


『北沢集落、水温変化小』


『ミード村、止血草、葉の丸まり進行なし』


 細い青い反応が、ひとつに重なる。


 水土見守り基点の中央印が、強く青白く光った。


 森の冷たさが、一瞬だけ和らぐ。


 黒い影の輪郭が揺らいだ。


 ダリオさんが叫ぶ。


「青反応、最大! レオン、今だ!」


 俺は修復針へ集中した。


 命令線外縁は、すでに緩んでいる。


 黒紫の同期は、観測点へ絡みついている。

 だが、水土見守り基点の青い反応が、その下から立ち上がっている。


 切るのではない。


 外す。


 何度も自分に言い聞かせる。


 命令線を断ち切るのではなく、観測点側の留め具を外す。


 黒石祠の命令を破壊するのではなく、水土見守り基点がそれを受け取らない状態へ戻す。


 針先をわずかに回す。


 地面の下で、黒紫の絡みが軋んだ。


 抵抗が来る。


 強い。


 まるで、黒石祠が「見る権利」を手放すまいとしているようだった。


 だが、その下から青い反応が押し上げる。


 中央井戸の水。

 薬草の土。

 周辺村の記録。

 見守る相手の存在。


 水土見守り基点は、もう黒石祠だけを見ていない。


 戻る場所を思い出している。


「外せ……!」


 ダリオさんの声が震えた。


 俺は、押し切らない。


 ただ、黒紫の絡みを青い導線から浮かせる。


 ほんの少し。


 その瞬間、残滓影が激しく揺れた。


 リーゼさんへ突っ込む。


 今までで一番速い。


 黒い腕が鞘をすり抜けるように伸び、俺たちへ向かう。


 リーゼさんは、ついに剣の柄へ力を込めた。


 抜くのか。


 一瞬、そう見えた。


 だが、彼女は抜かなかった。


 柄を握ったまま、鞘ごと剣を横に構え、膝を沈める。


 黒い腕が迫る。


 リーゼさんは、その腕を斬るのではなく、鞘の腹で受けた。


 そして、踏み込まず、引いた。


 受け流す。


 黒い腕は、その勢いのまま斜めに逸れて、地面の石へ叩きつけられる。


 黒い滲みが跳ねた。


 リーゼさんの右腕が痺れたように下がる。


 それでも、彼女は立っていた。


「行け」


 声は短かった。


 それだけで十分だった。


 俺は修復針をさらにわずかに回した。


 黒紫の同期が、青い反応から浮いた。


 完全には外れていない。


 だが、外れる寸前まで来ている。


 中枢室の携帯表示が青く明滅する。


《水土見守り基点:青反応最大》

《黒石祠同期:浮上》

《観測点側同期外し:可能》

《注意:次動作で同期解除》


 次。


 次で外れる。


 だが、黒石祠本体もそれを理解したのか、森の奥でさらに強く脈打った。


 残滓影が二つに裂けた。


 一つはリーゼさんへ。

 もう一つは、俺たちの足元の命令線へ向かう。


 ダリオさんが水脈棒を投げるように地面へ立てた。


「足元に来る!」


 俺は動けない。


 リーゼさんは前の影を止めている。


 足元の黒い滲みが、命令線へ戻ろうとする。


 その時、携帯札からセリアの声が響いた。


『薬草予定地、青反応を強めます。強すぎない程度に、土壌保持線を支えます』


「セリア、無理は――」


 俺が言いかけるより早く、彼女が答えた。


『無理はしません。必要な弱さで支えます』


 薬草予定地から、柔らかい青が届いた。


 強い浄化ではない。


 命令を消し飛ばす力ではない。


 土の湿りを保つ、静かな支え。


 それが水土見守り基点へ届き、足元の青い導線が一瞬太くなる。


 黒い滲みが命令線へ戻りきれず、揺らいだ。


 ダリオさんが叫んだ。


「今しかない!」


 俺は修復針を回した。


 切らない。


 外す。


 黒紫の同期が、青い導線から剥がれる。


 ぱきん、と音がした。


 実際に音が鳴ったのか、それとも頭の中でそう聞こえただけなのか分からない。


 だが、水土見守り基点の青い光が、森の中に広がった。


 残滓影が大きく揺らぐ。


 リーゼさんはそれを見ても追わない。


 ただ、鞘を構えたまま立っている。


 影はまだ消えていない。


 黒石祠もまだ残っている。


 しかし、今この瞬間、水土見守り基点の青反応は最大になった。


 黒紫の命令は、そこへ届ききっていない。


 ダリオさんが息を呑む。


「外れた……いや、外れかけてる。レオン、維持だ。次で固定する」


 俺は修復針を握り直した。


 ここで終わりではない。


 外しただけでは、また絡みつく。


 次に、本来導線へ保護する必要がある。


 だが、青い光は確かに立っている。


 水土見守り基点は、黒石祠ではなく、村の水と土へ向かって返事をしている。


 森の中で、リーゼさんが静かに言った。


「まだ通さない」


 鞘の先が、黒い影の前に置かれる。


 斬らない剣が、青い光の前に立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ