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第107話 周辺村共同記録網

ハルマ村の井戸のそばに、小さな机が置かれた。


 それだけのことだった。


 けれど、その机には妙な存在感があった。


 粗い板を組んだだけの簡単な机。

 上には、インク壺と筆と、リベル村から持ってきた記録表。

 横には、採水用の透明な小瓶が三本。


 井戸番の老人は、最初の欄にゆっくり文字を書いた。


『昼。濁り微弱。匂い弱い。水温やや低。煮沸推奨』


 字は少し曲がっていた。


 でも、それでよかった。


 綺麗な字である必要はない。

 王都の役人みたいな書き方である必要もない。


 井戸を使う人が、井戸を見た時に分かる言葉で残す。


 そこから始めればいい。


 ハルマ村から戻った翌朝、リベル村の村長宅には新しい地図が広げられていた。


 リベル村。

 ハルマ村。

 北沢集落。

 ミード村。


 それぞれの井戸と水路、畑、薬草の試験地に小さな印がついている。


 ニコルはその地図を見て、すでに顔を引きつらせていた。


「これ、もしかして……」


 ダリオさんがにやりと笑う。


「お前の仕事が増える地図だな」


「やっぱりですか」


「喜べ。出世だ」


「僕、村の記録係だったはずなんですが」


 ニコルは記録板を抱えたまま、地図を見下ろした。


「これでは、地域の記録係です」


 村長が笑った。


「肩書きは後で考えればよい」


「後で考えると、だいたい増えるんです」


「よく分かってきたな」


 トマが横から言った。


「地域水脈記録長とか?」


「やめてください。急に責任が重くなります」


「じゃあ、井戸メモ係」


「軽すぎます」


 セリアが少し笑った。


「でも、ニコルさんの記録があったから、ハルマ村でも話ができました」


「それは……嬉しいです」


 ニコルは照れたように目を伏せた。


 しかし、すぐに真面目な顔へ戻る。


「問題は、村ごとに記録の取り方が違うと比較できないことです。ハルマ村は昨日始めましたが、北沢集落は水温、ミード村は土の湿りが中心です。項目を揃える必要があります」


 俺は頷いた。


「共通項目を決めましょう」


 机の上に紙を広げる。


 周辺村共同記録表。


 項目は六つにした。


 一、時刻。

 二、水温。

 三、濁り。

 四、匂い。

 五、水量。

 六、周辺土の湿り。


 さらに、備考欄。


 そこには「子供が飲んだ後に腹を壊した」「煮沸後に匂いが消えた」「畑の端が乾く」など、村人が気づいたことを自由に書けるようにする。


 王都向けの記録とは違う。


 正確さは大事だが、生活の言葉も必要だった。


 セリアが言った。


「匂いの欄は、具体的な例があった方がいいかもしれません」


「泥っぽい、鉄っぽい、腐ったような、薬草っぽい、などですか」


「はい。匂いを言葉にするのは難しいので、選べるようにしておくと書きやすいと思います」


 トマが鼻を鳴らした。


「俺、泥っぽいと鉄っぽいくらいなら分かる」


 ダリオさんが言う。


「十分だ。分からないなら“分からない”と書けばいい」


「それも記録になるのか?」


「なる。分からないのに適当に書くより、ずっといい」


 リーゼさんが腕を組みながら地図を見ていた。


「周辺村すべてへ、今日行くのか」


「距離的に、一日で全部を回るのは難しいです」


 俺は地図を指した。


「ハルマ村は昨日行きました。今日は北沢集落へ行き、明日ミード村へ行くのが自然でしょう。ハルマ村には、使いを出して記録開始後の状況を聞きます」


 村長が頷いた。


「無理に急げば、説明が雑になる。北沢へは昼前に出ればよい。戻りは夕方じゃな」


 北沢集落は、リベル村から北東へ少し外れた場所にある。


 森を抜けるわけではないが、丘道を回る必要がある。

 歩いて片道一刻弱。


 行って説明し、井戸を見て、記録表を渡して戻るなら、一日は見ておくべきだった。


 同行者は、俺、セリア、ニコル、リーゼさん。


 ダリオさんはリベル村に残り、遮断札二号の負荷記録と黒石祠の監視を続ける。


 トマは行きたがったが、水路班を任された。


「俺も北沢行きたかった」


 トマが不満げに言うと、ダリオさんが即答した。


「水路を見る者がいない」


「若い衆いるじゃん」


「お前が一番、水量板を触らない訓練を受けてる」


「それ、褒めてる?」


「今日に限ってはかなり褒めてる」


 トマは妙な顔をした。


「じゃあ残る」


 単純だが、頼もしくもある。


 昼前、俺たちは北沢集落へ向かった。


 道中、セリアは布包みを抱えていた。


 中には、簡易記録表、採水瓶、低濃度浄化水の説明書き、そして薬草予定地の土を少しだけ入れた小袋がある。


「土も持っていくんですか」


 リーゼさんが聞いた。


「はい。北沢集落は水温低下が続いています。土の湿りも見てもらいたいので、リベル村の薬草予定地の土と比べられるようにと思って」


「比べる基準か」


「はい。正確な技術道具ではありませんが、触った時の湿りや重さの違いを話すきっかけになります」


 ニコルが感心したように言った。


「セリアさんの説明、最近すごく分かりやすいです」


「そうですか?」


「はい。僕の記録表より分かりやすい時があります」


「それは困ります」


「困らなくていいと思います」


 リーゼさんが少し笑った。


「二人とも、分かりやすい方法が違うのだろう」


 丘道を進むと、風が冷たくなった。


 北沢集落が近い証拠だ。


 この集落は、もともと水が冷たいことで知られている。夏場には重宝されるが、最近はその冷え方が不自然になっていた。


 井戸の水温が下がりすぎる。


 水量も少し落ちる。


 濁りは少ないが、じわじわと水の元気がなくなる。


 黒石祠の影響は、村ごとに違う形で出ていた。


 北沢集落へ着くと、集落長と井戸番の女性が出迎えてくれた。


 ハルマ村のような刺々しさはない。


 だが、不安はある。


「リベル村からの記録は読ませてもらったよ」


 集落長はそう言った。


「難しいところはよく分からなかったが、井戸を見続ける必要があることは分かった」


 井戸番の女性も頷く。


「うちは濁りより冷えです。朝と昼で水温があまり変わらない。前はもう少し違ったんですが」


「確認します」


 井戸へ案内される。


 北沢集落の井戸は、木立の近くにあった。


 水面は澄んでいる。


 匂いも悪くない。


 けれど、手を近づけた時点で冷たさが分かった。


 水温を測ると、リベル村の中央井戸よりかなり低い。


 ただし、危険なほどではない。


 俺は鑑定した。


《北沢集落井戸》

《濁り:なし》

《水温:低下傾向》

《黒石祠由来残滓:極微弱》

《水脈停滞影響:あり》

《危険度:低》

《推奨:水温定時記録/水量記録/土壌湿度確認》


「濁りはありません。危険度は低。ただ、水脈停滞の影響はあります。水温と水量を継続して見る必要があります」


 井戸番の女性は、少しほっとしたような、まだ不安そうな顔をした。


「飲めますか」


「現時点では飲用可能です。ただし、しばらくは煮沸を推奨します。問題は、急な悪化よりも、冷えと水量低下が続くことです」


 セリアが小袋を開き、薬草予定地の土を見せた。


「これがリベル村の薬草予定地の土です。今は安定している土です。北沢の畑の土と触り比べてもいいですか」


 集落長は驚いた顔をした。


「土を?」


「はい。水だけでなく、土の湿りにも影響が出ることがあります。北沢では冷えが出ているので、畑の端や井戸周辺の土も見ておきたいです」


 井戸番の女性はすぐに頷いた。


「それなら、畑の北側が少し変です。乾いているわけではないんですが、冷たいというか」


 案内された畑の端で、セリアはしゃがみ込んだ。


 土を手に取る。


 湿ってはいる。


 だが、指先に残る冷たさが強い。


「水分はあります。でも、土の温度が低いです。根の伸びが鈍るかもしれません」


 集落の農夫が顔をしかめる。


「今年の豆が心配でな」


 その言葉に、ダリオさんがいなくてよかったと思った。


 いたら豆の話に反応していただろう。


 セリアは真面目に言った。


「すぐに大きな被害が出る状態ではありません。でも、記録した方がいいです。土を握った時の冷たさ、湿り、作物の葉の色。毎日でなくても、同じ場所を見てください」


 ニコルが記録表を出した。


「北沢集落用には、水温欄を少し大きくしてあります。水量、濁り、匂いに加えて、土の冷えの欄も作りました」


 井戸番の女性が紙を受け取る。


「これなら書けそうです」


 ニコルは少し嬉しそうにした。


「分からない時は、空欄にせず“分からない”と書いてください。それも大事です」


「分からない、も書いていいのかい?」


「はい。無理に決めるより良いです」


 集落長が静かに言った。


「ハルマでは、リベル村のせいだという噂が出たらしいな」


 空気が少し硬くなる。


 俺は頷いた。


「はい。昨日、説明に行きました。ハルマ村にも簡易井戸記録所ができています」


「うちは、そういう噂には乗らんつもりだ」


 集落長はそう言った後、少し苦笑した。


「ただ、不安はある。王都の話は遠すぎる。リベル村の話は近いが、難しい。だから、紙にしてもらえるのは助かる」


 セリアが静かに答えた。


「難しいままでも、同じ水を見ることはできます」


 井戸番の女性が頷いた。


「そうだね。水は毎日見るからね」


 北沢集落の井戸のそばにも、小さな記録板が置かれた。


 ハルマ村の机より少し小さい。


 だが、役目は同じだ。


 最初の記録は、井戸番の女性が書いた。


『昼。濁りなし。匂いなし。水温低い。水量少し少なめ。畑北側の土、冷たい』


 ニコルがそれを見て、丁寧に頷いた。


「完璧です」


「こんなのでいいのかい?」


「はい。とても大事です」


 北沢を出る頃には、日が少し傾き始めていた。


 無理をすればミード村へも回れなくはない。

 だが、日暮れが近くなる。


 距離もある。

 帰り道で黒石祠の反応が上がる可能性もある。


 予定通り、今日は北沢だけで戻ることにした。


 リーゼさんは道中、周囲を警戒しながら言った。


「急がなかったのは正解だな」


「はい。説明が雑になるところでした」


 セリアも頷く。


「北沢は水温と土の冷えが中心でした。ハルマとは違いましたね」


「村ごとに違う」


 ニコルが記録板を見ながら言った。


「同じ黒石祠の影響でも、出方が違います。だから共通記録と、村ごとの追加欄が必要です」


 俺は頷いた。


「その発想は大事です。王都向けの一枚表では拾えないものがあります」


 ニコルは少し困った顔をした。


「僕、本当に地域の記録係になってきました」


 リーゼさんが言う。


「嫌か?」


 ニコルは少し考えた。


「大変です。でも、嫌ではありません」


 それは、かなり大きな変化だった。


 リベル村に戻ると、トマが水路脇から手を振った。


「おかえり! こっちは異常なし!」


 ダリオさんも地下工房から出てきた。


「北沢は?」


「濁りなし。水温低下と土の冷え。危険度低ですが継続記録が必要です」


 俺が答えると、彼は頷いた。


「黒石祠の命令線が弱まっても、残った停滞の癖はすぐ消えないってことだな」


「はい」


「明日はミードか」


「予定通りなら」


 村長がやって来て言った。


「無理はせぬ。ミードへは明朝出る。今日は北沢の記録をまとめ、王都へ追補を送る」


 その夜、村長宅で周辺村共同記録網の最初のまとめが作られた。


 ハルマ村。


 主な症状:井戸の微弱濁り。

 対応:簡易井戸記録所設置。煮沸推奨。濁り低下傾向。


 北沢集落。


 主な症状:水温低下、水量やや低下、畑北側の土の冷え。

 対応:水温重点記録。土の冷え欄追加。飲用可、煮沸推奨。


 リベル村。


 主な症状:旧水路下流残滓、薬草予定地土壌保持線の揺れ。

 対応:残滓掃除、観測点仮固定、遮断札二号試験。


 ミード村。


 未訪問。

 事前情報:止血草試験種が乾き気味。

 翌日確認予定。


 ニコルは清書を終えると、机に突っ伏しそうになった。


「僕、もう本当に地域の記録係ですね」


 村長が笑う。


「だから肩書きは後で考えると言ったろう」


「嫌な予感しかしません」


 ダリオさんが豆の煮込みを食べながら言った。


「地域水脈記録官」


「王都っぽくて嫌です」


 トマが言う。


「井戸と土の見守り係」


「長いです」


 セリアが少し考えた。


「水土記録係、では?」


 ニコルは顔を上げた。


「……それなら、少し良いかもしれません」


 トマが笑う。


「採用っぽい」


 リーゼさんが静かに言った。


「名前がつくと、役目が立つ」


 その言葉に、全員が少しだけ黙った。


 水土見守り基点。

 水土記録係。


 名前を取り戻すこと。

 名前をつけること。


 それは、ただの言葉遊びではない。


 役目を見えるようにすることだった。


 王都へ送る追補には、こう書いた。


『周辺村共同記録網を開始。

ハルマ村に簡易井戸記録所設置済み。北沢集落に水温重点記録表を設置。

各村の症状は一律ではなく、ハルマ村は微弱濁り、北沢集落は水温低下と土の冷えが中心。

リベル村はこれらを一括して“黒石祠被害”と断定せず、各村の生活実感に即した記録を収集する。

ミード村は翌日確認予定。

共同記録により、噂ではなく定時観察に基づく判断体制を構築中』


 さらに、ハルマ村と北沢集落にも写しを送る準備をした。


 同じ記録を、同じ時刻に、同じ形で見る。


 それが、黒石祠の命令とは違う線になる。


 命令する線ではない。


 互いに確認し合う線だ。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『周辺村共同記録網、開始。

ハルマ村に続き、北沢集落で水温重点記録を開始。

北沢集落の井戸は濁りなし。水温低下傾向。畑北側の土に冷えあり。危険度は低だが継続記録が必要。

村ごとに症状が異なるため、共通項目に加えて村別追加欄を設ける。

ニコルは水土記録係として、各村の記録形式を整備中。本人は重責に戸惑っているが、記録の腕は確実に上がっている』


 最後に書く。


『黒石祠は、命令線で水と土を縛ろうとした。

ローゼン家は、噂で村を孤立させようとしている。

こちらは、記録で村と村を繋ぐ。

命令ではなく、確認で。

支配ではなく、見守りで。

今日、ハルマ村の机に続き、北沢集落の井戸にも記録板が置かれた。』


 外では、水車がいつも通り回っている。


 その音は、昨日より少し広く聞こえた。


 リベル村だけの水音ではない。


 ハルマ村の井戸。

 北沢集落の冷たい水。

 まだ見に行っていないミード村の薬草畑。


 それらが、一本の見えない記録の線で繋がり始めていた。

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