表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

106/173

第106話 黒石祠の反撃――水ではなく噂

 黒石祠の反応は、夜が明けても完全には静まらなかった。


 中枢室の結晶柱には、薄い黒紫の揺れが残っている。


 昨日、遮断札二号で命令線を弱めた。

 観測点――水土見守り基点の青い反応は守れた。

 中央井戸も薬草予定地も、大きく崩れていない。


 けれど、黒石祠本体は確かに反発した。


 残滓影形成の兆候。


 その表示が、頭の隅に張りついたままだった。


 朝のリベル村は、いつも通りに見えた。


 水車が回り、子供たちが薬草予定地の柵の外から芽を覗き込み、トマが旧水路下流の採水瓶を確認している。


 だが、みんな少しだけ森の方角を気にしていた。


 黒石祠が次に何をしてくるのか。


 水を濁らせるのか。

 井戸を冷やすのか。

 薬草の土を乾かすのか。


 俺たちは、そう考えていた。


 だから、最初に来た報せが「水」ではなく「人の口」からだったことに、一瞬、反応が遅れた。


 昼前、ハルマ村から使いが来た。


 走ってきたのではなく、早足だった。


 息は切れている。

 しかし、井戸が急に濁った時のような切迫した走り方ではない。


 広場にいたトマが最初に気づいた。


「ハルマの人だ」


 男は村の入口で立ち止まり、こちらへ向かって頭を下げた。


「リベル村の村長殿に、話がある」


 声が硬かった。


 俺はその硬さで、良い話ではないと分かった。


 村長宅に通すと、男は椅子に座る前にこう言った。


「ハルマ村で、変な話が広がっています」


 村長は杖を手元に置いた。


「井戸か」


「井戸も、少しは。ですが、水そのものより……噂です」


 広間の空気が変わった。


 ダリオさんが目を細める。


「噂?」


 男は頷いた。


「リベル村が黒石祠をいじったから、ハルマの井戸まで悪くなったんだ、と。王都が管理すれば安全なのに、リベル村が勝手に古代設備を触っている、と」


 トマが立ち上がった。


「誰がそんなこと――」


「トマ」


 セリアの声が静かに飛んだ。


 昨日と同じだった。


 不安な人に怒鳴ったら、黒石祠の思う通り。


 トマは唇を噛み、ゆっくり座り直した。


「……悪い」


 使いの男は、少し驚いた顔をした。


 怒鳴られると思っていたのかもしれない。


 村長が静かに聞く。


「誰が言い出した」


「はっきりとは。ただ、昨日の夕方に行商人が来まして。王都の方で、リベル村が危ない術式を独自に扱っていると噂になっている、と。それを聞いた村の何人かが不安になりました」


「ハルマ村の井戸は、今どうなっている」


「濁りは薄くなっています。水量も大きくは変わっていません。ですが、一度不安になると……」


 男は言葉を濁した。


 分かる。


 水は暮らしそのものだ。


 井戸が悪くなるかもしれない。

 子供に飲ませていいのか分からない。

 畑が乾くかもしれない。


 そんな話を聞けば、人は冷静ではいられない。


 しかも、黒石祠や古代施設の話は、普通の村人には分かりにくい。


 分からないものは怖い。


 怖いものに、分かりやすい犯人が与えられると、人はそこへ不安を向ける。


 リベル村。


 追放鑑定士。

 除名技師。

 危険な古代施設。


 噂としては、嫌になるほど形がいい。


 ダリオさんが低く言った。


「黒石祠の残滓より厄介だな」


「水ではなく、口から広がりますからね」


 俺は答えた。


 セリアは男に向き直った。


「ハルマ村の皆さんは、今、リベル村に怒っていますか」


 男は少し困った顔をした。


「全員ではありません。リベル村から記録を送ってもらって、助かっているという者もいます。ただ、不安な者はいます。井戸の水を毎日見ている者ほど、怖がっています」


「それなら、説明に行きましょう」


 セリアの声は、穏やかだった。


 だが、迷いはなかった。


 トマが顔を上げる。


「俺も行く」


 ダリオさんが即座に言った。


「怒鳴るなよ」


「怒鳴らない」


「本当に?」


「……たぶん」


 リーゼさんが睨む。


 トマは慌てて言い直した。


「怒鳴らない!」


 セリアが少しだけ笑った。


「トマさんには、水路掃除の説明をしてもらいたいです」


「俺が?」


「はい。昨日、旧水路下流の残滓をどう採ったのか。水量板を動かさなかったこと。底泥を乱さなかったこと。ハルマ村の方にも、実際に作業した人の言葉で伝えた方がいいと思います」


 トマは一瞬、戸惑った。


 そして、少しだけ背筋を伸ばした。


「分かった」


 村長が頷いた。


「行く者を決めよう。レオン、セリア、トマ。ダリオは?」


 ダリオさんは少し考えた。


「行く。技術の説明が必要になる」


 リーゼさんが言う。


「私も行く」


「村の守りは?」


「森へは近づかない。村にも見張りを残す。だが、道中で何かあれば対応が必要だ」


 村長は頷いた。


「よい。ニコルは残れ。中央記録と井戸を見よ」


 ニコルは少し悔しそうだったが、すぐに頷いた。


「分かりました。ハルマ村へ持っていく写しを準備します」


 そう言って、彼は昨日作った報告書の写しを取り出した。


『黒石祠外縁安定化および地域水脈保全記録』


 厚い。


 ハルマ村で全員に読んでもらうには長すぎる。


 だから、ニコルは短い説明用の抜粋も用意した。


 一枚目。


『リベル村が行っていないこと』

・黒石祠本体を開けていない

・水土見守り基点を開封していない

・命令線を切断していない

・水量板を操作していない

・強い浄化を使用していない


 二枚目。


『リベル村が行ったこと』

・井戸、水路、薬草予定地の定時記録

・旧水路下流の黒粒子採取

・低濃度浄化による危険度低下

・採取残滓の封印保管

・水路を乱さない残滓掃除

・黒石祠命令線の弱化試験


 三枚目。


『ハルマ村井戸の記録』

・濁りは発生したが、リベル村外縁安定化後に薄化傾向

・水量の大幅低下なし

・水温変化は要継続記録

・飲用は煮沸推奨、完全封鎖は現時点で不要


 トマがそれを見て呟いた。


「分かりやすいな」


 ニコルは少し照れた。


「王都向けの報告書とは別に、村向けにしました」


「お前、本当に記録係の鑑だな」


「ありがとうございます」


 出発は昼過ぎになった。


 リベル村からハルマ村までは、歩いて半刻と少し。


 急ぎすぎなければ、無理のない距離だ。


 旧水路沿いに進み、低い丘を越える。道はぬかるんではいないが、昨日までの湿りがまだ残っていた。


 道中、ダリオさんは何度か水脈棒を地面へ近づけた。


「黒石祠の反応は?」


 俺が聞くと、彼は首を横に振る。


「強くはない。むしろ、昨日の反発の後で少し引いてる。ただ、ハルマ側の水脈はまだ癖が残ってるな」


「噂の方が先に動いたわけですね」


「水を濁らせられないなら、口を濁らせる。嫌な話だ」


 トマが前を歩きながら、拳を握っていた。


 セリアがその横に並ぶ。


「トマさん」


「怒鳴らない。分かってる」


「はい。でも、怒るなとは言いません」


 トマが彼女を見る。


 セリアは続けた。


「怒っていいと思います。私も怒っています。でも、その怒りを、説明する力にしてください」


 トマはしばらく黙った。


 それから、少しだけ笑った。


「セリア、ほんと強くなったな」


「怖いだけです」


「怖いまま強いんだろ」


 セリアは少し驚いた顔をした。


「それ、リーゼさんみたいですね」


 後ろを歩いていたリーゼさんが、少しだけ視線を逸らした。


「悪くない」


 ハルマ村へ着いたのは、昼の鐘から少し経った頃だった。


 村の広場には、すでに何人かが集まっていた。


 ハルマ村の村長。

 井戸番の老人。

 畑を持つ女たち。

 若い母親たち。

 そして、昨日の行商人から話を聞いたらしい男たち。


 空気は歓迎一色ではなかった。


 警戒。

 不安。

 苛立ち。


 それが混じっている。


 ハルマ村の村長が前へ出た。


「来てくれて助かった」


 その声には疲れがある。


「すまん。村の中が少し騒がしくなっている」


 リベル村の村長は同行していない。


 代わりに、俺が頭を下げた。


「状況は伺っています。まず、ハルマ村の井戸を確認させてください。その後、皆さんへ説明します」


 男の一人が、すぐに声を上げた。


「確認も何も、そっちが黒石祠を触ったんだろう!」


 トマが一歩出かけた。


 セリアがそっと腕を押さえる。


 トマは止まった。


 俺は男へ向き直った。


「黒石祠本体は開けていません。水土見守り基点も開封していません。命令線も切断していません」


「そんな言葉で言われても分からん!」


 男の声は荒い。


 けれど、その目は怒りだけではなかった。


 怖いのだ。


 自分の村の水が悪くなるかもしれないことが。


 セリアが一歩前に出た。


「分からないのは当然です。私たちも、最初から全部分かっていたわけではありません」


 男は少し黙った。


「だから、今日は記録を持ってきました。言い訳ではなく、見て分かるものを持ってきました。井戸の水、濁りの変化、何をしたか、何をしなかったか。順番にお話しします」


 ハルマ村の村長が頷いた。


「まず井戸へ」


 広場から井戸までは近い。


 歩いて数十歩。


 井戸の周りには、不安そうな村人が集まっていた。


 俺は井戸水を採った。


 水は少しだけ濁っているが、以前届いた瓶より薄い。


 匂いは強くない。

 水温はわずかに低いが、危険なほどではない。


 鑑定する。


《ハルマ村中央井戸》

《濁り:微弱》

《黒石祠由来残滓:低下傾向》

《水温:やや低》

《危険度:低》

《推奨:煮沸飲用/定時記録継続》


「危険度は低です。飲用前の煮沸は推奨しますが、井戸を完全に封鎖する段階ではありません。黒石祠由来残滓は、前回より低下傾向です」


 ハルマ村の井戸番が、ほっとしたように息を吐いた。


「前より悪くなっていないのか」


「はい。少なくとも、今確認した水では悪化していません」


 男がまだ疑わしそうに言う。


「本当に、リベル村がいじったせいじゃないのか」


 ここでトマが口を開いた。


 声は少し硬かったが、怒鳴らなかった。


「俺、昨日リベル村の旧水路下流を掃除した」


 周囲の視線がトマに集まる。


 彼は少し緊張したように喉を鳴らしたが、続けた。


「でも、水量板は触ってない。水の流れも変えてない。底の泥もかき回してない。黒い粒だけを、浅く取った。場所と時刻も記録した。採ったやつは捨ててない。瓶に入れて、セリアが低濃度で浄化して、封印した」


 トマはニコルが作った抜粋を広げた。


「これ、記録。俺の字じゃないから読みやすい」


 その一言で、少しだけ場が緩んだ。


 セリアがすかさず続ける。


「リベル村が黒石祠に触ったから井戸が悪くなった、という話があるそうですが、実際には逆です。黒石祠の反応が上がった後、リベル村は水路を乱さないように残滓を取り、濁りを減らしました」


 俺はハルマ村の記録とリベル村の記録を並べた。


 日付。

 時刻。

 濁りの濃さ。

 水温。

 水量。


「ここを見てください。ハルマ村の井戸の濁りは、リベル村が外縁安定化をした後、少し薄くなっています。旧水路下流の残滓掃除後も悪化していません。もちろん、これだけで完全に安全とは言えません。だから記録を続ける必要があります」


 畑を持つ女が尋ねた。


「では、王都に管理してもらえば安心、という話は?」


 ダリオさんが答えた。


「王都管理なら何でも安全、というわけじゃない。そもそも黒石祠と似た管理体系が、ローゼン侯爵家の古い資料に残っていた。安全監視線という名で、見守りを命令に変える仕組みだ」


 村人たちがざわつく。


 難しい話だが、「王都なら絶対安全」という言葉に疑いを入れるには十分だった。


 ダリオさんは続けた。


「王都が悪いと言ってるんじゃない。リベル村だけで抱え込むつもりもない。だから記録を王都にも送ってる。ただ、現場の水を見ずに、遠くから管理だけ持ってくれば安全になる、という話ではない」


 セリアが頷く。


「ハルマ村の水は、ハルマ村の皆さんが一番よく見ています。だから、一緒に記録したいんです」


 若い母親が、不安そうに聞いた。


「私たちは、何をすればいいんですか」


 セリアは優しく答えた。


「難しい術式を見る必要はありません。井戸の水を、決まった時刻に見るだけです。濁り、水温、匂い、水量。昨日と比べてどうか。飲む前に煮沸する。急に悪くなったら、瓶に採ってリベル村へ送る。それだけで十分です」


 トマが補足した。


「あと、噂だけで井戸を封鎖しない方がいい。封鎖する時は、記録見てから。水って、焦っていじると余計悪くなるから」


 ダリオさんが少し驚いた顔でトマを見た。


「なんだよ」


「いや。いい説明だった」


「だろ」


 トマは照れながら胸を張った。


 ハルマ村の村長が、深く息を吐いた。


「共同で記録を取る、ということでよいか」


「はい」


 俺は頷いた。


「リベル村と同じ形式の簡易記録表を置いていきます。朝、昼、夕方。無理なら朝と夕方だけでも構いません。大事なのは、同じ見方で続けることです」


 井戸番の老人が言った。


「わしならできる」


 畑の女も頷いた。


「水量は、畑の側でも見られる」


 若い母親が不安そうに聞く。


「もし、また変な行商人が来て、リベル村が危ないと言ったら?」


 セリアは少し考えた。


「その時は、まず井戸を見てください。水の記録を見てください。それでも不安なら、リベル村へ聞いてください。怒ってもいいです。でも、記録を見る前に決めつけないでください」


 その言葉は、広場に静かに落ちた。


 怒ってもいい。


 でも、記録を見る前に決めつけない。


 それは、リベル村自身にも向けられた言葉だった。


 ハルマ村の人々は、すぐに全員が納得したわけではない。


 まだ疑わしそうな顔もあった。

 不安そうな顔もあった。


 けれど、最初のような刺々しさは少し薄れていた。


 少なくとも、怒鳴り合いにはならなかった。


 井戸の横に、小さな机が置かれた。


 ハルマ村簡易井戸記録所。


 ニコルが用意した記録表が広げられ、井戸番の老人が最初の欄に書き込む。


『昼。濁り微弱。匂い弱い。水温やや低。煮沸推奨』


 トマが覗き込み、うんうんと頷いた。


「いいじゃん」


 井戸番が笑った。


「若いのに偉そうだな」


「すみません」


「いや、助かった」


 その一言で、トマは少し黙った。


 そして、短く頭を下げた。


 リベル村へ戻る頃には、日が傾き始めていた。


 急いで帰れば夕方前に着けたが、俺たちは道中でも水路沿いの様子を確認しながら歩いた。


 黒石祠の反応は、朝より大きくはなっていない。


 リーゼさんが後ろを振り返る。


「ハルマ村は、味方になったと思うか」


「まだ味方というより、一緒に見る相手です」


 俺は答えた。


「でも、それで十分です」


 セリアも頷いた。


「不安なままでも、同じ井戸を見ることはできます」


 トマが言った。


「怒鳴らなくてよかった」


「はい」


「危なかったけどな」


「止まれました」


 トマは少し照れた。


「まあ、俺も成長してるからな」


 ダリオさんが言う。


「今日は本当にそうだな」


「師匠に褒められた」


「師匠じゃない」


 リベル村へ戻ると、ニコルがすぐに駆け寄ってきた。


「どうでした?」


「ハルマ村に簡易井戸記録所ができました」


 俺が言うと、彼の顔が明るくなった。


「本当ですか」


「はい。井戸番の方が最初の記録を書きました」


 ニコルは胸を押さえた。


「よかった……」


 村長も静かに頷いた。


「噂の濁りは、少し薄まったか」


「完全には消えていません」


 セリアが答えた。


「でも、怒鳴り合いにはなりませんでした。記録を見る場は作れました」


「十分じゃ」


 村長は言った。


「水も噂も、一度では澄まぬ。見続けることじゃ」


 その夜、王都へ追補報告が送られた。


『ハルマ村にて、リベル村危険管理の噂が流布。現地説明を実施。

井戸水を鑑定し、濁り微弱、危険度低、煮沸推奨と確認。

リベル村が行った作業、行っていない危険行為、旧水路下流残滓掃除の記録を提示。

ハルマ村側と合意し、簡易井戸記録所を設置。

今後、朝・昼・夕の水温、濁り、匂い、水量を記録予定。

噂への対抗として、記録共有を開始』


 俺は個人記録にも書いた。


『黒石祠の反撃は、水だけではなかった。

噂が来た。

リベル村が危険だという言葉は、井戸の不安に混じって広がりかけていた。

トマは怒鳴りかけたが止まった。

セリアは、不安な人に怒鳴れば黒石祠の思う通りだと言った。

ハルマ村には、簡易井戸記録所ができた。

完全に信頼されたわけではない。

だが、同じ井戸を見る場所はできた。』


 最後に書く。


『水の濁りは、瓶に採れる。

噂の濁りは、言葉の中に混じる。

どちらも、見ないふりをすれば広がる。

だから、見る。

怒る前に、見る。

決めつける前に、記録する。

それもまた、修復だ。』


 森の奥で、黒石祠はまだ沈黙している。


 だが、今日は水ではなく、人の不安を通して揺さぶってきた。


 それでも、リベル村は怒鳴り返さなかった。


 記録を持って歩いた。


 その先に、小さな机が一つ増えた。


 ハルマ村の井戸のそばに。


 それは、黒石祠の命令線とは違う、新しい線だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ