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第101話 旧水路下流、残滓掃除

翌朝、リベル村の旧水路下流には、いつもより早く人が集まっていた。


 水量板の前にトマ。

 その横にダリオさん。

 少し離れて、村の若者たちが網と瓶と木札を抱えて立っている。


 セリアは低濃度浄化水の小瓶を布に包んで持っていた。

 ニコルは記録板を抱え、まだ眠そうな目をこすりながらも、筆だけはしっかり握っている。


 俺とリーゼさんは、水路脇の土手から全体を見る位置に立った。


 今日は、森へ行かない。


 遮断札二号の実地試験をする前に、旧水路下流の残滓を少しでも減らす。


 黒石祠の命令線は、旧水路下流の濁りに反応しやすい。昨日の試験ではっきりした。ならば、その濁りを減らすことが、命令線を弱める準備になる。


 派手な作業ではない。


 水路の底に沈んだ黒い粒子を、流れを乱さず、少しずつ取り除く。


 言葉にすると簡単だが、実際にはとても面倒だった。


「いいか」


 ダリオさんが、水路の前で全員に言った。


「今日やるのは掃除だ。だが、普通の泥さらいじゃない。水を濁らせたら逆効果だ。底をかき回すな。水量板を動かすな。流れを変えるな」


 トマが胸を張る。


「水量板は触らない」


「その通り」


「昨日から俺、ずっと言ってる」


「言い続けろ。大事だ」


 トマは少し照れた顔をした。


 ダリオさんは続ける。


「黒い粒子だけを浅くすくう。泥までごっそり取るな。水が濁ったら中断。採ったものは捨てるな。瓶に入れて札をつける。場所、時刻、採取者。全部書く」


 若者の一人が不安そうに聞いた。


「黒い粒を見つけたら、すぐ浄化ですか?」


「違う」


 セリアが答えた。


「まず採取して記録です。浄化はここではしません。治療所前の確認台で低濃度にします。水路の中で直接浄化すると、反応が広がるかもしれません」


「分かりました」


 若者は真面目に頷いた。


 ニコルが記録板に書き込む。


『作業方針:水量操作なし。底泥を乱さず、黒粒子のみ浅く採取。採取物は現地廃棄不可。場所、時刻、採取者を記録。浄化は治療所前確認台で実施』


 トマがその字を覗き込んだ。


「なあ、俺の“水量板は触らない”も書いた?」


「書きました」


「毎回?」


「毎回ではありません。でも重要箇所には」


「重要箇所……」


 トマはなぜか満足げだった。


 作業は、上流に近い地点から始めた。


 旧水路下流といっても、濁りは均一ではない。


 水の曲がり角。

 石の隙間。

 少し流れが緩む場所。


 そこに黒い粒子が溜まりやすい。


 トマが細い網を水面へ入れた。


 最初は、少し深すぎた。


 底の泥がふわりと舞い上がる。


「止めろ」


 ダリオさんの声が飛ぶ。


 トマは慌てて網を止めた。


「悪い!」


「引き抜くな。そのまま、ゆっくり上げろ。急に動かすと余計に濁る」


「お、おう」


 トマは息を止めるようにして、網を上げた。


 泥は少しだけ舞ったが、大きく濁るほどではない。


 ダリオさんは水面を見て、短く言った。


「今のはぎりぎり失敗未満だ」


「失敗未満って何だよ」


「失敗に入りかけたが、戻れたということだ」


「褒めてる?」


「半分だけ」


 トマは悔しそうに顔をしかめた。


「もう一回」


「次は浅く。水をすくうんじゃない。黒い粒をなで取る感じだ」


「なで取る……」


 トマは網の角度を変えた。


 今度は水面近くから、ゆっくり斜めに入れる。


 底に触れる直前で止め、黒い粒子が溜まった石の横を軽くすくう。


 網の端に、細かな黒粒が数粒引っかかった。


 水は大きく濁っていない。


 ダリオさんが頷く。


「それだ」


 トマの顔が明るくなった。


「これか!」


「大声を出すな。手元が揺れる」


「はい」


 素直だった。


 若者たちも、それを見て真似し始めた。


 一人が採る。

 一人が瓶を持つ。

 一人が木札を書く。


 最初はぎこちなかったが、少しずつ動きが合っていく。


 リーゼさんが水路の上流側を見ながら言った。


「戦いより難しそうだな」


「戦いの方が簡単ですか」


 俺が聞くと、彼女は少し考えた。


「敵が見える場合は、な」


「今回は敵が粒ですからね」


「しかも、斬れない」


 その不満そうな言い方に、思わず少し笑ってしまった。


 リーゼさんは横目で俺を見る。


「笑うところか」


「すみません」


「いや、いい」


 彼女は水路を見た。


「斬れないものを守る訓練にはなる」


 その言葉は、彼女らしかった。


 セリアは採取された瓶を受け取り、場所ごとに並べていく。


 黒い粒子の量は、場所によって違った。


 曲がり角の内側が多い。

 石の沈んだ場所にも多い。

 水草の根元にも、少し絡んでいる。


 ただ、水草を抜くことはしない。


 抜けば流れが変わる。


 だから、根元に絡んだ粒子だけを、細い木の匙でそっと取る。


 トマは最初、それに苦戦した。


「これ、面倒くさすぎる」


 ダリオさんが即座に返す。


「面倒くさいから効く」


「ほんとかよ」


「雑にやって効く作業なら、昨日のうちに終わってる」


「それはそう」


 トマはまた木の匙を水に入れた。


 水草の根を動かさず、粒子だけをすくう。


 成功すると、隣の若者が小さく拍手した。


「おお」


「拍手すんな、揺れる」


 そう言いながらも、トマは少し得意げだった。


 ニコルは作業記録を取りながら、時々採水瓶を光に透かしている。


「清掃開始前の下流水と、現在の下流水を比較します」


 彼は小瓶を二つ並べた。


 片方は朝一番に採ったもの。

 もう片方は作業開始後、一刻ほど経ったもの。


 まだ大きな違いではない。


 だが、黒い粒子の量は確かに少し減っている。


「わずかに改善しています」


 ニコルの声が少し明るくなった。


 トマが顔を上げる。


「本当か?」


「はい。完全ではありませんが、清掃効果ありと記録できます」


 トマは拳を握った。


「よし」


 ダリオさんがその横で水面を見ている。


「油断するな。こういう時に調子に乗ると底をかき回す」


「乗らない。今日は乗らない」


「今日だけか」


「明日もたぶん」


「たぶんを外せ」


「明日も!」


 そんな会話の間にも、作業は続いた。


 セリアは採取瓶を持って治療所前の確認台へ移動した。


 俺も一緒に向かう。


 瓶の中の黒い粒子は、見た目にはただの砂のようにも見えた。だが、鑑定すると黒石祠由来の微弱な残滓反応がある。


 セリアは低濃度浄化水を準備した。


「ここでも、強くはしません」


「はい」


「昨日の一号札のこと、まだ少し考えています」


 彼女は瓶を見つめたまま言った。


「強く浄化すれば、すぐ消せるかもしれないと思ってしまいます。でも、消せなかった時に強く反発されたら、水路へ戻せなくなる」


「だから、低濃度で危険度を下げる」


「はい」


 セリアは黒粒子の入った小瓶へ、一滴だけ浄化水を落とした。


 水面に灰色の輪が広がる。


 黒い粒子の表面が、わずかに薄くなった。


 消えはしない。


 だが、鋭さが落ちる。


 俺は鑑定した。


《旧水路下流残滓・採取一》

《状態:黒石祠由来残滓・微弱》

《低濃度浄化後:反応低下》

《危険度:低》

《推奨:封印保管》


「危険度、低。封印保管推奨です」


 セリアは小さく頷いた。


「消さなくても、危険を下げられるんですね」


「はい」


「それも、守る方法なんですね」


「そうだと思います」


 彼女は少しだけ笑った。


 強く光らない浄化。

 消し去るのではなく、薄める浄化。


 今のセリアには、それがよく似合っていた。


 昼近くになると、旧水路下流の作業は一度中断になった。


 理由は、疲れと、濁りの再確認のため。


 ダリオさんは「まだ行ける」と言ったトマを止めた。


「疲れた手で続けると、水を乱す」


「でも、もうちょっとであの石の横が取れそうなんだよ」


「“もうちょっと”が一番危ない」


「……分かった」


 トマは名残惜しそうに網を置いた。


 リーゼさんが水路の縁で見ていた。


「撤退判断が早くなったな」


「俺が?」


「ああ」


 トマは少し照れたように鼻をこすった。


「まあ、俺も成長してるからな」


「水量板から離れただけで、ずいぶん成長したように見える」


「リーゼまでそれ言うのかよ」


 昼食は、水路脇で簡単に取った。


 黒パンと豆の煮込み。


 ダリオさんは豆の煮込みを食べ、目に見えて機嫌が良くなった。


 トマがそれを見て言う。


「師匠、豆で動いてるよな」


「師匠じゃない」


「豆師匠?」


「もっと嫌だ」


 ニコルが小声で笑った。


 セリアも口元を隠している。


 村の若者たちも、緊張が解けたように笑っていた。


 水路はまだ完全に澄んでいない。

 黒石祠の問題も終わっていない。


 でも、作業の合間に食べる豆の煮込みは、たしかに村を支えていた。


 午後、再び作業が始まった。


 今度は、下流のさらに先。


 昨日まで黒い粒子が溜まりやすかった場所だ。


 水路の底に沈んだ平たい石の下に、残滓が入り込んでいる。


 トマは石を持ち上げようとして、手を止めた。


「……持ち上げたら駄目なやつだよな」


 ダリオさんが頷く。


「よく気づいた」


「石の下に溜まってるけど」


「石を動かせば、そこに溜まっていた残滓が一気に流れるかもしれない。今日は横から取る」


「横からって、細かすぎる……」


「細かいから安全なんだ」


 トマは渋い顔をしながらも、細い竹匙を使って、石の横から少しずつ黒粒子を掻き出した。


 時間がかかる。


 手も痛くなる。


 だが、水は濁らない。


 村の若者が隣で瓶を構え、ニコルが時刻を書く。


 リーゼさんが少し離れて周囲を見ていたが、ふと呟いた。


「こういう戦いもあるのだな」


 俺は彼女の横に立った。


「そうですね」


「敵陣に突っ込むより、ずっと根気がいる」


「リーゼさんは苦手ですか」


「苦手だ」


 即答だった。


 だが、彼女は続けた。


「だが、必要なら覚える」


 王都で過去の見出しを書き換えた彼女は、今も変わり続けている。


 斬るだけではない。

 守る。

 待つ。

 触らない。

 回避する。


 どれも、騎士団の剣術書にはあまり書かれていなかったことかもしれない。


 夕方前、作業の成果が出た。


 旧水路下流の採水瓶を比較すると、朝より黒い粒子が明らかに減っていた。


 完全ではない。


 だが、改善と言っていい。


 中枢室へ記録を登録すると、表示が更新された。


《旧水路下流残滓:低下》

《命令線負荷:微減》

《黒石祠同期反応:わずかに低下》

《遮断札二号実地試験:条件成立》


 ニコルがその表示を読み上げた。


「遮断札二号実地試験、条件成立です」


 水路脇で、小さな歓声が上がった。


 トマは網を持ったまま、へなへなと座り込んだ。


「地味だった……」


 ダリオさんが隣に立つ。


「地味でよかった」


「でも、効いた?」


「効いた」


 ダリオさんははっきり言った。


「お前たちが水を乱さず残滓を減らしたから、命令線の負荷が下がった。明日の遮断札試験の条件が整った」


 トマは一瞬、ぽかんとした。


 それから、少しだけ顔を赤くした。


「……そうか」


「ああ。今日の作業は、ちゃんと効いた」


 トマは水路を見た。


 水はまだ、完全に澄んではいない。


 でも、朝よりは確かに軽い。


 セリアが採取した残滓を封印瓶に収めながら言った。


「完全に消さなくても、危険を下げることはできました」


 リーゼさんが頷く。


「完全に勝たなくても、守れる時がある」


 トマが笑った。


「今日、名言多くない?」


「お前も言え」


 ダリオさんが言う。


 トマは少し考えた。


「水路掃除は、腰に来る」


「ただの感想だ」


「名言って難しいな」


 村へ戻る頃、空は夕焼けに染まっていた。


 薬草予定地では、子供たちが柵の外から芽を見守っていた。


 セリアが土を確認する。


「湿り、安定しています。札の揺れもありません」


「明日、森へ行くんだよな」


 トマが聞いた。


 俺は頷く。


「はい。遮断札二号の実地試験です」


「今日の掃除が役に立つなら、ちょっと頑張った甲斐あるな」


「かなりあります」


 トマは嬉しそうに、でも照れ隠しのように顔を背けた。


「ならいい」


 その夜、村長宅で作業報告がまとめられた。


 旧水路下流残滓の採取記録。

 清掃前後の濁り比較。

 採取残滓の低濃度浄化結果。

 命令線負荷微減。

 遮断札二号実地試験条件成立。


 ニコルの記録表は、かなりの量になっていた。


「これ、王都へも送りますか?」


 彼が聞く。


「送ります」


 俺は答えた。


「リベル村が水路をどう扱っているかの証拠になります。雑に黒石祠をいじっているわけではなく、水量操作を避け、残滓を採取し、低濃度浄化し、封印保管している。これは大事です」


 村長が頷く。


「侯爵家が何を言おうと、こちらは水を乱しておらぬ」


 ダリオさんが言った。


「むしろ向こうが乱してる」


「それも、記録で示す」


 村長は静かに答えた。


 夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。


『旧水路下流残滓掃除を実施。

水量板操作なし。底泥を乱さず、黒石祠由来残滓のみ浅く採取。

作業中、トマが一度網を深く入れかけたが、即時停止。以後、浅く採取。

平石下の残滓は、石を動かさず横から竹匙で採取。

採取残滓は低濃度浄化により危険度低下。消滅はせず、封印保管。

旧水路下流の黒粒子反応は低下。命令線負荷は微減。

中枢室表示:遮断札二号実地試験条件成立』


 最後に書く。


『今日は、派手な修復ではなかった。

泥をかき回さず、石を動かさず、黒い粒だけを少しずつ取った。

完全に消すのではなく、危険を下げた。

完全に勝つのではなく、次の作業ができる状態を作った。

これも修復だ。』


 地上では、水路が静かに流れている。


 朝より少し澄んだ水が、夕闇の中で細く光っていた。


 森の奥では、黒石祠がまだ沈黙している。


 だが明日、こちらから遮断札二号を持っていく。


 命令線を切るためではない。


 まず、弱めるために。


 観測点の青い返事を、守るために。

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