あおいの夏
10
愛知県岡崎市。
埼玉からは電車と新幹線を乗り継いで三時間程度かかる距離。東岡崎駅を降り立つとのどかな住宅街が広がっていた。
「えっと……、どっちが前だろう」
地図アプリを立ち上げた僕は、自分が向かう方向がどっちがわからずスマホを右や左に回転させた。
お金持ちというわけではないが、あの事故でかなりの額の賠償金をもらったので一定の金額は持っている。そのお金は僕が進学し、就職するまでの大切なお金でもある。新幹線に乗るのは慣れていないが、乗ったことはあった。修学旅行や野球部の遠征で、遠出したことはある。しかし愛知県に来たのは初めてだった。
駅から続く住宅街を一〇分ほど歩いて行く。通り抜ける公園ではキャッチボールをする少年と少女を見かける。
「どこにいっても変わらないなぁ」
その光景にどこか安心する。
それから少し歩くとクリーム色の西洋風な外観の一軒家に辿り着く。
「秋山……、多分ここ、だよな」
アプリに蒼衣がくれた手紙に書いてある住所をそのまま入力すると、ここを示している。ここが秋山蒼衣の家なのだ。子供のころは狭山の蒼衣の家にはよく行ったが、もちろん引っ越してからはこっちの家に遊びに来たことはない。
「……ゴク……」
思わず唾を飲んだ。インターホンを押そうとすると、緊張した。玄関は白い上品な柵で囲われていて、そこから中庭が見える。ツタが生い茂り、赤や黄色の花が咲いている。なんの花かはわからないが漂う甘い香りは、蒼衣が発していた匂いに似ていた。
「よし……」
僕は意をけしてインターホンを押した。
――ピンポーン、ピンポーン。
甲高い音が二階鳴り響くと、心音の高鳴りを感じる。僕は緊張しやすく、動揺しやすい性格なのだと最近、理解してきた。雄大みたいに、子供のころからプレッシャーに勝つことを日常にしてきた人間と違って、負けてばかりだった僕は、すぐにドキマギしてしまうのである。
「……はい。どちらさまでしょうか」
インターホンの黒いスピーカー越しに少し子供っぽい女性の声がする。
「あ、……えっと、あの……、茅野、です」
「え? 茅野って……、陽太くん?」
「はい……、お久しぶりです」
「えー? びっくりー! ちょっと待っててー」と言うと音声が途切れる。次の瞬間までの時間が僕はとても長く感じた。
「わー! 陽太くぅんー?」
白い柵の向こうから、若くて綺麗なおばさんが出てきた。髪は茶色で長く、背も高く、とても美人だった。
「あ……、ど、どうも」
門を開けたおばさんに僕は軽く会釈をする。
「わー、ホントに陽太くんー?」
目鼻立ちがハッキリしていて、なんだか緊張する。まじまじと見つめられる。
「あ、……はい、茅野です」
「わー! おっきくなったねー! おばさんはびっくりだよー」
「あ、はい……、まあ」
「何㎝?」
「一八二です」
「わー、すごーい。いやー、成長期ってすごいわ-」
と驚嘆する蒼衣のお母さんの方こそ、子供のころと全然変わってなくてびっくりする。
「けっこ、イケメンだね」
とまじまじと顔を覗き込むのをやめてほしかった。
「うん、悪くない」
「……え、いや……」
ドキドキする。
「うふふ、そういうところは変わってないねー。なんか陽太くんって感じだわ」
辿々しいのが僕らしいのだろうか。蒼衣もそんなことを言っていたし、実際、あのころと少しは変わった思う。体が大きくなり、声も変わった。野球が上手くなって、仲間内での立場も変わって、多分、性格も少しは変わった。
「ま、あがって」
とおばさんは手招きする。上品なフリルのついたカットソーが印象的だった。
「あ、えっと」
「うん、わかってるわ。蒼衣に会いに来たんでしょ?」
「あ、はい」
「んー、とりあえずあがって」
とおばさんはそそくさと玄関へ歩いていく。僕はおばさんの後を着いて家に上がらせてもらった。
中庭を通って家の中に入ると、さっき感じた甘い花のような香りが室内に充満していた。玄関先には花瓶に活けられた花があり、家族の写真廊下の額縁に飾られている。廊下、というには少し広くて、カーペットが敷かれた床は気品を感じた。
「これ……、蒼衣ちゃん」
額縁の中の家族写真には成長していく蒼衣の姿があった。
「そうそう、ほらここ、陽太くんも写ってるわよ」
子供のころからの蒼衣の写真。たぶん、幼稚園のころの写真は赤いワンピースを着ていて可愛らしくて、少学校に入ってからと思わしき王川小の校舎を背景に撮った写真、もっと高学年かと思わしき縦縞のユニフォーム姿の写真は、僕と蒼衣のツーショットだった。場所は王川小の校庭で、蒼衣は僕の腕に抱きついて、満面の笑みで楽しそうにしている。なんとも躍動感のある写真。対して僕は困ったような顔をしている。あのころの僕は、こうしてみるとやっぱり頼りなさそうだし、蒼衣はエネルギッシュだ。
「こんなにちっちゃかったのにねー。変わるもんだわー」
と言うおばさんは、「懐かしい」と言ってばかりだった蒼衣にそっくりだった。
「それで、蒼衣に会うんだよね?」
とおばさんは切り出す。
「だったら……、ちょっと準備するからここで待っててもらえる?
」とドアを開けた先はリビングだった。うちとは違って、サーキュレーターが回る広々として落ち着いたお洒落なリビングだった。
「え?」
「蒼衣、今ここにいないから」
と言うとおばさんはリビングから出て行ってしまった。
僕は困惑しながらリビングを眺める。大きなテーブルは六人くらい座れそう。ソファはふかふかで高級感がある。テレビは六〇インチはあろうかと思うほど大きいし、アイランドキッチンから見える大きな冷蔵庫や高そうな調理器具……、場違いな気がしてちょっと恥ずかしくなる。
でも、そういえば蒼衣の家はこうだったなぁ、と昔を思い出す。狭山に合った蒼衣の家も、古ぼけた僕の家とは違って、新しくて綺麗だった。
ソファに座ろうどうか迷ったまま立っていると、おばさんがリビングに戻ってきた。
「なにー? 立ってたの? 座ってたらよかったのに」
と砕けた調子で言ったおばさんは上にカーディガンを羽織っていた。
「陽太くんはうちの子みたいなもんなんだから。リラックスしてね」
「あ、いえ、僕はそんな」
「蒼衣とは姉弟みたいなものよ。蒼衣もきっとそう思ってる」
それは、なんとなくわかる。蒼衣にとっての僕は、きっと頼りない弟のままなのだ。
「ま、いいわ。じゃ、行くわよ」
「え? 行くって?」
「蒼衣に、会いに来たんでしょ? 車で行くからちょっと着いてきて」
とおばさんは玄関の方へ向かった。僕は色んなことを考えながら、後を追った。
*
東岡崎総合病院。
蒼衣の家から車で一〇分くらいの距離にある総合病院だ。おばさんの運転する黒のノアに乗り、瞬く間にこの病院に着いた。
「さ、行くわよ」
「え……、ここ、ですか」
駐車場で降りると、おばさんは淡々と歩き始める。四〇台くらいは止められそうな駐車場。午後一三時。生温かい風が吹いている。
「そ。まあ正直……、こないだ電話した時には言わないようにしてたんだけど……、会いに来ちゃったらもう……、ね」
とちょっと呆れたようにおばさんは言う。
「いい友達……、いや蒼衣的には弟なのかな。陽太くんはいいこだね」
「いや、僕はただなんか気になったから」
入り口のエントランスを通るとエレベーターに乗った。慣れた様子でエレベーターを操作し三階のボタンを押す。重低音とこもった空気。静寂。変わらずおばさんからは色っぽい香りがする。三階で降りると、スムーズに右へ左へおばさんは歩いていく。看護師、医療器具、ナースカート、病院に来ると、三上琴音先生のことを思わず連想してしまう。あれから半年近く、児童医療センターに通院している僕にとっては、病院は、家と学校の次に慣れ親しんだ場所かもしれない。
「ん、寝てるかな―」
おばさんは三〇二号室と書かれた部屋の前で立ち止まることもなく、中に入っていく。この階はどうやら入院病棟らしかった。
僕は様々なことを思い巡らせながら後を着いていった。
「蒼衣ー」
三〇二号室は多床室で、ベッドが八床合った。吹きぬける窓からただっ広い駐車場がよく見えた。夏空から照らす太陽がレースのカーテンを艶やかに揺らしている。白いベッドに寝転んだ蒼衣は赤と蒼のパジャマを着ていて、長座位になりながら白い生足をだらんと投げ出していた。
夏の空をぼんやりと眺めながら。
いつにも増して白い肌に、少し伸びた黒い髪。
「ん、お母さん?」
と蒼衣が振り返ると、僕と目が合った。
「あ」
「寝てたー?」
おばさんが砕けた感じで言うと、蒼衣は、
「いや……、起きてたけど……」
と喉につっかえたように言った。僕は何も言えない。ただ、気になったんだ。
赤と蒼のパジャマが袖まくりされた左手首。
分厚く巻かれた、白い包帯。
「あ」
と蒼衣は慌てたように左手の袖を下ろすが、何か後ろめたいことがあるように、視線を落として黙り込む。
「蒼衣―、陽太くん、会いに来てくれたよ」
とおばさんは変わらない調子。
「聞いたよー? 蒼衣、陽太くんのところに泊まらしてもらってたんだってね!」
「うん……、そうだよ」
蒼衣は気まずそうだった。
「そうだよ、じゃないでしょー。挨拶もせずに帰ってきたんでしょー。お母さんはそんな子に育てた覚えはないぞー」
「ごめん……」
蒼衣は元気がなさそうだった。
「謝る相手が違うでしょー」
「うん……」
と蒼衣は何かを恐れるように上目遣いで僕を見た。
「ごめん……、陽太。ありがとう」
「いや……、いいんだけど」
蒼衣の空気がいつもと違ったせいか、僕は何を言ったらいいのかわからなくなっていた。
ここに来たのは、野球はどうするのか、聞きたかったから。それに連絡先も知りたかったから。
でも、言えなかった。
違う言葉が口から勝手にこぼれ落ちる。
「それ……どうしたの?」
こんなことを言いに来たわけじゃなかったのに。
「手首」
太い包帯が巻かれた小さな手首は見るからに痛々しかった。ぼんやりと覇気の感じない蒼衣の雰囲気が、どうあっても隠せない違和感を醸し出す。
「これ……?」
蒼衣は視線を左手首に送って、
「なんだと思う?」
なんて、誘惑するように甘い声を出す。
「何って……」
ずっと蒼衣に感じてきた違和感。一緒にいて昔と変わらない蒼衣のようで、でも時々、違う蒼衣がいた。その正体がわからなくて、僕はきっとそれを知りたくて蒼衣に会いに来たんだと思う。
「なんか……切っちゃった。手首。あはは」
と蒼衣は自嘲するように笑う。
「なんかー、暴走? したっていうか……、はは」
と冷めた声で言った。
「暴走って……」
「血がいっぱい出てねー……、気を失っちゃって……、はは、なんか陽太みたいだね」
そんな乾いた笑顔が見たかったわけじゃない。
違うんだ。
「はは……ごめん。陽太……、今はちょっと……話せない」
と言うと、蒼衣じゃないみたいな暗い影が病室を覆った。
「ちょっと蒼衣ー」
「ごめん……、今は無理……」
とその声も闇に覆われた。
「わかった」
僕はそう言って病室を出た。
「ごめん……」
そう言った蒼衣の姿を振り返ることはなかった。
病室の外に出ると、おばさんも一緒に出てきた。おばさんはそのままラウンジのベンチに腰掛けて、「ごめんね。蒼衣、変な子で。まー、座ってよ」と僕を隣に誘った。
「はい」
と僕が隣に座ると、おばさんは流れるように僕の二の腕を掴んで、「おー、ふっとーい。さすがプロ注目の野球少年だ」とおどけたように言った。まるで蒼衣みたいだった。
「うほほー、胸板もお腹も硬ーい」
と体中を揉んで、気持ちの悪い顔をしている。状況が状況だったらこんな美人のお姉さんに触られたら嬉しかったかもしれないが、今はそんな気分でもない。
「さすが桜ヶ丘学園のエースピッチャーだね」
「……?」
僕は不思議だった。おばさんはそんな僕を見て、
「なんでそんなこと知ってるんですか、って顔だね」
とおちょくるように言った。
「え、ええ、まあ」
蒼衣から聞いたのかもしれないが、疑問は感じる。
「じゃあ、教えてあげる」
とおばさんは長い話しを始めた。
「――蒼衣はね、ずっとひきこもりだったんだ」
――六年生の三月、卒業式が終わると、蒼衣は家族と共に愛知県に引っ越した。最後の日、僕らは蒼衣の家に行って見送った。夏海は軽く手を振っていた。雄大は視線だけ送っていた。僕は、何をしていただろうか。よく覚えていない。
「引っ越して、中学生になって、蒼衣は野球部に入った。あの子、野球好きだったから」
その話しは知っていた。六年生のころは、みんなスマホを持っていたから引っ越してもLINEでのつながりは終わらなかった。「女子だけど頑張って野球続ける! 甲子園で会おう!」なんて蒼衣はおどけてた。女子選手は規定で甲子園には出場出来ないが、「私がその規定を変える!」なんて息巻いてた。子供のころよくプレイした野球ゲームには同じような境遇で活躍する蒼衣と同名のキャラクターがいて、影響されていたみたいだった。
「でも……、だめだったみたい」
「……? だめ?」
「女子だからって理由で、蒼衣は部活で虐められたみたい」
「……え、そんな……」
「蒼衣ってさぁー、まーああいう性格だから。はは……、私はね? 蒼衣の元気で真っ直ぐだった性格をとてもいいと思ってたけれど……、中々、慣れない環境では難しかったみたいで」
遠くから引っ越してきたばかりの勝ち気な女の子。態度が大きくて喧嘩っ早いし、プライドも高い。ルックスはよかったかもしれないが、それを利用して男子に混じっていくようなタイプでもなく、きっと蒼衣はあのころのまま、僕らの前にいた時のまま、新しい中学校生活をスタートしたんだと思う。
そんな《異物》を、素直に受けいれられるほど思春期の子供たちは世界を知らない。
「なんか……、浮いちゃったみたいで。みんなから避けられるようになっちゃって。……でも蒼衣は弱さを見せず強がってた。ほら? 蒼衣ってそういう子だったでしょ? 昔から」
蒼衣はわかりやすかった。悩みがあったり、怒っていたり、落ちこんでいる時は、なんというか雰囲気が違った。具体的に何がどう、という感じでは説明出来ないが、よく、口よりも顔がたくさん喋ってる、なんて言い方をするけれど、蒼衣はそんな感じだった。話さなくても、何を考えているのか、心が見通せた。どこまでも真っ直ぐで、素直だった。
「でも……、二年生? になったくらいからかな。お腹が痛いって言って、時々学校を休むようになってね……、段々とその数が増えていった」
蒼衣とLINEが通じなくなったのは、いつくらいからだっただろうか。一年生の冬ごろか、二年生になってからか。ともかく、二年の夏にはもうLINEは出来なくなっていた。
「そんな話し……、全然知らなかったです」
「蒼衣はね、ああいう性格だから、言えないんだと思う。自分の弱さを見せるのが、苦手なのよ。でも寂しがりで甘えんぼで、ほんと面倒くさい性格よねー」
とおばさんはやっぱり他人事みたいに言った。
「私に似てカワイイんだから、ちゃんと甘えたらみんな可愛がってくれるはずなのに」
なんて言いながら、「ね?」と笑って僕を見る。
「は、はぁ……」
と僕はなんと言えばいいのかわからず困惑する。
「そのまま不登校になった。野球部も、それでやめちゃった。後から聞いたら、冬ごろから練習も出てなかったみたい。学校に来なくなった蒼衣に、家まで声をかけに来てくれる友達はいなかった。陽太くんたちみたいな、ね」
そんな話し、LINEで聞いたことは一度もなかった。通じなくなるまでは、一ヶ月に一度くらい、世間話とか近況報告をしていたのに。蒼衣がそんな事情を抱えていたことはショックだったけれど、それ以上に、僕に何も話してくれなかったことが言いようもなく辛く感じた。
「ま、ユニフォームを家に持って帰ってこなくなったから部活やめたのはなんとなくわかってたんだけど……、蒼衣は学校で洗うことになったとかなんとか言ってたけど」
「そんな……、ことがあったなんて」
「私もさー、蒼衣がこっちで上手くいってないのはわかってたから、声かけたのよ。遊びに行こうとかご飯食べに行こうとか、もうちょっと周りに合わせられるようにしようとか、もうちょっと可愛くしようとか……、でも蒼衣は何も聞いてくれなかった」
あのころの蒼衣の性格はわかる。だから蒼衣が何を思っていたのかも、なんとなく察しがついた。
「強がりだから。蒼衣ちゃんは」
「そうなのよー! 蒼衣は負けず嫌いで強がっちゃうから、きっと私に何か言われるのが嫌だったんだろうね」
蒼衣のお母さんは昔からこんな感じでふわふわっとした人だった。家に遊びに行くと、テレビとか芸能人の話題を出したり、流行りのケーキとか料理とかをよく食べさせてくれた。たまの休みの日に蒼衣の家に行ったら、おばさんが車を出してくれて、出来たばかりのファッションモールとか、流行りの映画とかを観に行った。流行に敏感で見るからに世渡りが上手そうな、そんな人だった。蒼衣がそんなお母さんを嫌っていた印象は持っていないけれど、特別に仲がよかったという記憶もない。多分だけど、そういう風になれない不器用な自分が嫌だったんじゃないかと思う。
「学校に行かなくなって……、蒼衣はひきこもるようになった。余程辛かったんだろうね。家から一歩も出なくなった」
「あの蒼衣ちゃんが?」
「そう。男の子よりも外が大好きで、冬場でも短パンだったあの子がね……」
「ちょっと想像出来ないです」
「人は変わっていくのよ。でもね、そこにはちゃんと理由があるの。陽太くんがここまで大きくなったのだって、きっとそれまでにたくさんの人生があったでしょ? 蒼衣も……、同じ」
中学校で背が伸びた。毎日筋トレとランニングを続けた。高校でエースになった。県大会決勝まで行った。両親が事故で死んだ。PTSDになった。三上先生と出会った。
六年間の様々な思い出が、一瞬にして脳裏を巡る。
「最近ね、昔のことをたまに話してくれるの。例えば学校でね、誰にも口をきいてもらえなくてずっとひとりぼっちだったこととか、時々ね、上履きがなくなってたり、体操着がゴミ箱に捨てられていたりとか……、ね」
「……酷いですね」
「誰が悪いとか、そういうのはもう蒼衣も気にしてないのよ? 自分にも悪いところがあった、って蒼衣は言う。だったら私はそれでいいと思ってる。昔のことを忘れて、少しでも前に進んでいこうとしてるなら、背中を押してあげたいと思う」
蒼衣は正義感が強くて虐めなんて大嫌いな子供だった。虐められている子を見つけたら、その子の盾になって守ってあげる優しい女の子だった。同時に、強くて喧嘩っ早くて、盾だけじゃなく剣にもなって、反撃したら絶対に勝利する、スーパーヒーローだった。
自分が虐められるようになった時、蒼衣はどんなことを思ったんだろう。
きっと納得するまで対面を切って争ったに決まっている。それは言葉で? 時に、手が出ることもあったかもしれない。でも蒼衣が、何もせずやられっぱなしになるわけがない。そういう割り切りを出来るような性格じゃなかったから。
「ある日、部室に閉じこめられたことがあった。そんなに野球がやりたいんだったら、ずっとここにいろ、ってね。先輩たちに言われて。年の瀬だったらしいわ。寒くて凍えそうだったって。その時、心が折れたって」
「先輩……」
「蒼衣はほら、口の利き方とか礼儀とか、それこそ上下関係とか、そんなの出来るような子じゃないでしょ? 狭山だったら……、まあみんな小さいころから蒼衣のことも知ってたけれど……、こっちでは誰も知らないし、ましてや中学生になってそういう人間関係も複雑になって、嫌われちゃったみたいで」
子供、を絵に書いたようだった蒼衣が、子供ではなくなったのはいつだったのだろう。
中学生になった時? 不登校になった時? それとも高校生になった時?
僕はいつ子供ではなくなったのだろう。
「女なのに偉そうにすんな、女が野球やるなんておかしいだろ、と、その時に言われたみたい。それで蒼衣は思った。なんで? どうして? なんで女が野球やったらいけないの? おかしいよ。おかしいじゃん、って」
小学生のころだったら、それでもよかったのかもしれない。男も女もなく、みんな一緒になって野球をやっていた。蒼衣は僕よりも背が高くて足も早かったし、夏海は僕より野球が上手かった。試合で他校に行く時、車に乗ったら体が密着してた。多少の恥じらいはあったかもしれない。でも、それだけだった。いじめられっ子の僕を守ってくれた蒼衣は、僕の手を引っぱり、僕の腕をつかみ、あの写真みたいに笑ってた。そんな蒼衣のことが僕は忘れられない。永遠の青い空と野球ボールが、空に舞いあがる校庭の風景に、元気で明るいあの子が笑ってる。
「それから学校には行かなかった。高校は通信制で通うことになった。スクーリングっていってね、たまに通学期間があるんだけど、それも休みがちで、家から全然、出ない。年々、顔だちもハッキリしてきて、どんどん女の子らしくなっていくのに、化粧もしないし外にも出ないし、誰かと遊びに行くこともない。笑うことも少なくなって、ずっと部屋にこもるようになった。
……でも、蒼衣が傷ついてるのはわかってたのに、何も出来なかった私に、やれることはもう見守ることくらいしか見当たらなくて……、それじゃダメだってわかってるけど……、でも何も変わらずに、日々が過ぎていった」
僕が桜ヶ丘学園に入って、一生懸命に白球を追いかけていたころ、蒼衣はずっと家にこもって泣いていた。
空を背負って走っていたあの子は、今は体育座りして窓から外を眺めている。
子供のころは、背が小さかったのに、空が近くに感じた。手を伸ばせば届きそうなくらいに、青い空がそこにあった。
年月が経って、背は高くなったのに、空は遠くなった。もう手を伸ばしても絶対に届かないくらいに、遙か彼方に行った。
どうしてだろう。
なんでだろう。
あの空は、どこにいったんだろう。
「でもね、そんなある日、蒼衣がものすごい笑顔で二階から降りてきたの! ねえねえ! お母さん! 見て見て! これ! って、すっごい勢いでね……」
と話すおばさんはちょっと悲しそうで、でも顔は笑っていた。
「陽太が載ってる! ってスマホの画面を見せたの」
桜ヶ丘は県内では比較的強豪だ。甲子園出場経験はないが県大会ベスト一六、ベスト八くらいは常連である。
「俺?」
「そうよ! 桜ヶ丘学園一回戦突破! 二年生エース茅野陽太最速一四八キロマーク! って見出しと陽太くんの写真が載ってた」
高校野球は注目度が高い。甲子園に直結する夏の大会となれば、高校野球専門のニュースサイトだけでなく、一般のスポーツ新聞やニュースサイトでも桜ヶ丘の記事を見ることがある。
「私もびっくりしたけれど……、蒼衣はもっと驚いていた。それにすっごい嬉しそうだった。あんなにはつらつとした姿を見たのは何年ぶりだったかしらね」
「……なんでまた、そんな記事を……」
「さあね? 野球はやめちゃったけど、野球は好きだったみたいで、時々、テレビで試合は見てるみたいだった。ほらあのなんて言ったっけ? 子供のころ陽太くんとよくやってた野球のゲーム……」
子供のころ、蒼衣と遊んだ時は、よく野球のゲームで対戦していた。お互いにソフトを持っていたから家で練習をしていて、対戦する時は盛り上がった。選手を育成するモードもあって、そこに登場する蒼衣と同名の《あおい》というキャラクターに蒼衣は入れ込んでいる様子だった。《あおい》は、勝気で負けず嫌いの女子野球選手で、様々な人を巻き込みながら高校野球を変えていくという魅力的な人物だった。《あおい》は、下手投げ=サブマリン投法を駆使し、やがて仲間と共に甲子園に乗り込んで優勝する。蒼衣から直接聞いたわけではないが、しかし、子供のころこのゲームの新作が発売になり、《あおい》の人物像がもっと掘り下げられる、と話題にした次の日からサブマリン投法の練習を急にやり始めた。
「ああ、あのゲームですね」
「そうそう。あれもよくやってたわ。懐かしいわねー」
「今もたまになっちゃんとかとやりますよ」
「え? なっちゃん……、って…、あの? 栗山夏海ちゃん?」
「はい……栗山夏海」
「えー、今でも付き合いあるんだー」
「あるっていうか……高校も同じで……、去年まで野球部のマネージャーもやってました」
「えー! びっくりー!」
と驚いたおばさんは今日一のリアクションだった。
「そっかー、野球好きそうに見えなかったのになー、はー、意外だー」
夏海は野球が好きではないと思う。でも人を応援したり、助けたりするのはきっと好きなんだ。
「え? じゃあ、桜ヶ丘の野球部ってことは……、もしかしたら私、姿見てたかもしれないわね」
「見てた?」
「うん! だって去年の大会、私たち全部観たもの!」
去年の夏の埼玉大会。桜ヶ丘学園は一回戦を突破した後、決勝戦まで計七試合を戦った。
「インターネットのスポーツチャンネルでね、さっきいてもらったあのリビングのテレビで蒼衣と一緒に応援したのよ!」
比較的注目度の高い高校の試合となれば、ネットや衛星放送のチャンネルで全試合視聴することが出来る。場合によっては練習試合まで放送されることもあるくらいだ。僕ら球児にとってもそれはメリットで、多くの人に観てもらえることでアピールのチャンスにもなるし、上手い選手のプレーを観て参考にすることも出来る。同時に、スカウティングの素材にも出来て、悪いことはあまりない。
「え……なんで?」
「なんでって……」
とおばさんは呆れたように言う。
「なんでって……、本気で言ってる?」
と穏やかだが強い口調で言った。
「え、ええ……」
困ったような僕を見て、おばさんは一拍を置き、「ふふー、はー、うん……、まぁ……、陽太くんもいろいろあったんだろうから、とやかく言わないけど」と大人の表情をする。
「陽太くん、野球やめたの?」
最近、この言葉をよく言われる。
「実は……、はい……すいません」
「え? なんで謝るのよ」
「いや……、最近、よく同じこと言われるので」
「なんでやめたのって?」
「はい」
「んー、……そっかぁ」
とおばさんは納得したように天井を眺める。病院の無機質な蛍光灯。
「それはきっとさぁ……、陽太くんといえば野球だったからじゃないかしら。それに、去年の陽太くん、とってもかっこよかったから。みんな印象に残ってるんだと思う」
桜ヶ丘学園。茅野陽太。去年の夏の埼玉大会。一回戦から準決勝まで。六試合に登板。六勝〇敗。五〇回。一五失点。防御率二、五二。投球数五四〇球。奪三振六六。自責点一四。四死球一七……。
「真っ黒に日焼けして、大きな体からバッターを見下ろすように投げるあの姿……、威圧感があって自信に満ちていて、なんか……、いいなぁって思ったわよ」
「そうですか……」
僕は返す言葉に困った。
「すいません」
つい謝った。
「だからなんで謝るのよ」
「……すいません」
自分でもわからなかった。
「はいはい……、わかったわかった。この話はオシマイ……」とおばさんは話題を変えようとするが、しかし、「でも……、蒼衣もそう言ってたわよ」と再び戻す。
「陽太かっこよくなった、って。見違えたって、蒼衣ずっと言ってた」
「別に大して変わってない、ですよ」
「変化って自分じゃわからないものよ。特に野球をしてる自分の姿なんて、陽太くんは全然、意識してないんじゃないの?」
試合の映像を見たり、練習で自分の動画を撮ってもらってフォームをチェックしたりはするが、確かに他人のプレーのように客観的に見るのは中々難しい。
「陽太くんはね、変わったよ。だって小さいころはね素人の私から見ても自信なさげで、弱々しかったけど、去年、ピッチングしてる時の陽太くんは堂々としていて、俺が抑えるんだっていう気迫に満ちてた」
必死だった。去年の夏は、急遽回ってきたチャンスで、何も考えてなかった。ただ抑えたかった。ただ勝ちたかった。先輩たちにとって最後の夏を僕が終わらせるわけにはいかなかった。
でもそうやって試合に勝っていくうちに、どんどん楽しくなって、欲が出てきた。
その結果が、あの事故。
「蒼衣はね……、まぁ、蒼衣の口から言うべきだったんだけど、言ってないみたいだから私から言うわ」
「……?」
「蒼衣はね、陽太くんが希望の光だったんだよ」
「え?」
「ずっとひきこもってた蒼衣がね、陽太くんのことを見つけてからはすっごい嬉しそうにしてた。陽太の試合はまだかなぁ、対戦相手はどんな相手かなぁ、陽太は今何してるかなぁ、甲子園行ったら応援に行きたい、って、目をキラキラさせてた」
蒼衣は嘘つきだ。「嘘はだめだ」と僕に言ったくせに、自分が一番嘘つきじゃないか。
「陽太くんが投げてる時、ホントにねチームの一員みたいに声を振り絞って応援してた。テレビだからね、応援なんて届かないかもしれない。でもね、蒼衣は楽しそうだった。あのころの、ヤンキースのころみたいに」
あのリビングで、メガホンを持って大きな声を出している蒼衣の姿が脳裏に浮かぶ。跳んだり跳ねたりして、プレーに一喜一憂して、きっと時々顔を真っ赤にして怒ってる。真っ直ぐで素直な蒼衣の姿。
「応援してるとね、私も嬉しかった。元気な蒼衣がいて、陽太くんがピッチングをしてる。蒼衣が調べたら雄大くんも大会に出てることがわかって……、なんかね……、私も泣けてきちゃったのよ」
「……泣けるようなことしてないですよ」
「そうね……、勝手なのよ。人間なんて。陽太くんたちにね、私が勝手に色んな期待を押しつけて、夢を見ちゃっただけなの」
とおばさんはちょっと目頭を押さえて言う。
「ごめんね……、でも、陽太くんを応援している蒼衣を、私は応援してあげたいと思った」
「勝手……、です」
人間は勝手な生き物だ。自分が嫌な想いをしないために、都合よく思考を変える。価値観や好みすら自由自在。僕はそうやって両親の死から逃げようとして野球を汚してしまった。夏海を傷つけて、やがて自分も傷つけた。
「ごめんね……、でも、そんな生活をしてた蒼衣にとって陽太くんは特別だった」
「なんで俺なんかが……」
「わからない?」
「……いや」
ここで否定してはいけない気がした。一〇〇%わかるわけじゃない。でも、蒼衣の気持ちはなんとなくだけど、想像が出来た。
「わかり……ます、とは言えないけど、でも……」
「ありがとう」
とおばさんは綺麗な笑顔で頭を軽く下げた。
「陽太くんは、蒼衣にとって、変わっていくことの喜びだった」
「変わっていく?」
「そう……、蒼衣はね、女の子だからって理由で、虐められたでしょ? 大好きだった野球も出来なくなって、何もかも失って……ふさぎ込んでた。直接ね、本人からも言われたのよ。変わりたくなかった。あのころのままでいたかった、って」
子供のころは、みんな一緒だった。野球を始めたばかりのころ、小学校一年生、二年生のころなんて、本当に男も女もなくて、練習で泥だらけになった後、学校の水道につけたホースでびしょ濡れになりながら体を洗ったりした。
あんな風景は、今、どこにあるのだろう。
「自分を痛めつけるようにひきこもって、外にも行かず遊びもせずにいる蒼衣を見てるとね、女である自分を否定しているように見えて、……私はやるせなくなった。私も女だから……、女の子の楽しさを少しは知ってるつもりだから」
僕は何も気付けなかった。
蒼衣の痛み、心の中をわかったつもりになっていただけだった。
「女の子になっていく自分……、変わりたくないって、蒼衣は思ってた。でも……、立派になった陽太くんを見ていると、きっと変わることも悪いことじゃないって少しは思えたんじゃないかな?」
子供のころ、僕にはスーパースターがいた。彼女は元気で明るくて力強くて、顔までよかった。野球も上手くてサブマリン投法に振り子打法を駆使し、大会の決勝で完全試合までした。正義感が強くて優しくて、いじめっ子がいたら問答無用で成敗する。僕はそんな秋山蒼衣にいつも守られていて、いつも憧れていた。僕は蒼衣みたいになりたかった。変わりたかった。こんな弱々しい自分から、かっこいいスーパースターになって、蒼衣みたいに輝きたかった。
「まぁ……、蒼衣がそう言ったわけじゃないんだけど、ね」
「いえ……、大丈夫です」
「ん……、ま、それで……、陽太くん、決勝戦出なかったでしょ?」
「そっすね……」
「それから試合とかも全然出なくなって……、蒼衣がネットで調べたところ野球部も辞やたらしいってなって……、なに? 怪我でもしたの?」
「そんなとこ……、です」
「まぁ、陽太くんに勝手に期待してたのは私たちだから……、本人を前にこんなこと言うのもどうかと思うけれど……、蒼衣はそれからまた、ふさぎ込むようになって、元に戻っちゃった」
「俺のせい……」
「違うわよ! 陽太くんは悪くない。むしろ蒼衣を助けてくれるヒーローなんだから」
「え? ヒーロー?」
「そうよ。陽太くんは蒼衣にとってスーパースターなんだから」
おばさんがそう言ったとき、キラキラとした後光が空から射した気がした。蛍光灯の明かりが丁度、ハレーションを起こしたのかもしれない。でも、どんよりとした廊下の光度が、突然に明るくなった気がしたのは、気のせいだろうか。
「ひきこもりの蒼衣を奮い立たせてくれるスーパースター、それが陽太くん」
「そんなわけ……、ないです。俺なんかが」
「ファンなんて勝手なんだから、本人がどう思うかは関係ないのよ。色々あった蒼衣に、きっと突然に射した光、それが茅野陽太くんだったんだろうね」
「勝手なことばっかり……、蒼衣ちゃんのやつ」
「陽太くんに夢をみたんだろうね。子供のころの友達に、蒼衣が挫折してしまった夢を、重ねたんだと思う」
「重ねる……」
「小さいころは小柄でね、正直……、野球もあんまり上手じゃなかった陽太くんが、努力してすごい選手になった。それがきっと、何もかも挫折してしまって、弱くなっちゃった自分の姿と重なった」
「蒼衣ちゃん……」
「だから陽太くんの活躍は、きっと自分のことのように嬉しかったんだろうね」
「そんなこと一言も……、言わなかったくせに」
「そう……みたいね。結局、陽太くんの情報はそれっきり出てこないから直接会うためにわざわざ狭山まで行ったのにね」
「何も言わずに出ていったんですか?」
「そうね。ある日突然よ。私のLINEにね、一言、《ちょっと旅に出てくる》、って。それだけ。あはは、蒼衣らしいでしょ?」
「男」
「蒼衣は可愛いけど無愛想だからねー。陽太くんも苦労したでしょ? 泊まってたんでしょ?」
「……無愛想……、ていうか、あの……、正直子供っぽくてわがままばっかりで……振りまわされっぱなしで」
蒼衣は自由奔放で好き勝手やってた。でも、そんな蒼衣の身軽さが、僕の心にあのころの空を見せてくれた。
「へー、そうなんだ」
とちょっと驚いたようにおばさんは言う。
「嬉しかったのかな?」
「え?」
「だって蒼衣、そんな姿、私といる時は全然……」
とおばさんは目をぱちくりさせる。
「いつも無愛想で無口で……」
「え? あの蒼衣ちゃんがですか?」
「あはははは。そうよ!」
と吹き出したようにおばさんは笑った。僕にはその意味がわからなかった。
「そっか、そっか……、ん、うん。そっか……」
と噛みしめるようにおばさんは何度もうなずく。
「今年の、蒼衣の夏はね……、きっと楽しかったんじゃないかな?」
蒼衣が来てから二週間、色んなところに行って色んな人に会った。たくさんの思い出。家で一緒にご飯を食べて、自転車で二人乗りして、バッティングセンターに行き、大宮に行き、王川小へ行き、池袋にも行った。ずっと会ってなかった雄大やあかり、諒、晴臣……みんなとも久しぶりに話すことが出来た。
僕にとってもこの高三の夏は、刺激的な毎日だった。
「陽太くんに会えて、蒼衣はきっと楽しかったんだと思うわ」
おばさんの言葉には母性を感じた。
「だから……、ちょっと疲れちゃったんだと思う」
「そう……かもしれないです。蒼衣ちゃん、元気だったから」
「楽しくて、無理、しちゃったのかもしれない。……でも、それくらい陽太くんといるのが楽しかったんだよ」
「そんなわけないですよ、あんな態度で」
「だってスーパースターだよ」
「それ蒼衣ちゃんが言ったんですか?」
「言うわけないじゃない、あの無口な子が」
とその言葉から蒼衣の姿はやっぱり想像出来ない。
「でも、態度見てたらわかるのよ」
「じゃあ、蒼衣ちゃんにこれだけは伝えといてください」
今の蒼衣に会うのはあんまりいいことだとは思えない。LINEは聞きたいが、今じゃなくてもいい。野球のこともまた今度でいいと思う。だって夏はまだ長いんだから。
でも、一言、言いたいことはあったんだ。
「嘘つきはいけないことだぞ、ってお願いします」
「はい、スーパースター」
「その言い方やめてください」
「えー、だって私にも陽太くんスーパースターだもーん」
とおばさんはおどけた調子で言って、
「陽太くぅーん」
と僕の腕に絡みついてくる。
「ちょ、ちょっと……あ、あの」と強く出るわけにもいかず、オロオロしてると、おばさんは味を占めたのか、「あー、やっぱり若くて逞しい男の子っていいわー、好き!」と腕に顔をすりすりしてみたり、腹筋を指先でなぞったりする。
「わー! 割れた腹筋ー! いい! いいわー!」
なんて激しいリアクションをする。野球はやめてから長いが、毎日のランニングと筋トレをしない日常がどうにも慣れなくて、結局、最近また、トレ―ニングは再開している。野球をやる気はもうないが、しかし動いてないとどうにも気持ちが悪いのである。
「ちょ、ちょっとおばさん……」
「やーだー。おばさんなんて言わないでー、お姉さんでしょー?」と甘ったるい声を出すおばさんは、やっぱり近くて見ると美人で、ちょっとエッチで、そして蒼衣と同じように甘い香りがした。




