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後編

【5】



「呪いなんてひどい! なんでそんなもの!」

 ばたばたと走りこんだ父の書斎で一人、呪術関係の本をひっくり返しながら憤りを吐き出す。

 突然倒れこんだヴァルハイル様は、顔は青ざめ、呼吸を乱し、ひどく苦しげなうめき声を上げていた。何事かとその押さえつけるように胸に当てた彼の指の先を見ると、恐らく魔法なのだろう、心臓の辺りをぐるぐると蛇のように蠢く、細い鎖が見えた。私の魔力の使い方が悪いのかうっすらとしか見えなかったが、鎖はどこかいびつで、引っ張ればすぐに解けてしまいそうな見た目の、しかし確実にヴァルハイル様を苦しめているらしいどろどろとした強さを感じる黒い力。

 慌てる私に、呪いだと、数分で落ち着くと無理に目をあわせ教えてくれたヴァルハイル様は、気丈にも口角を上げて私に笑みを見せてくれた。……心配するな、と目が言っていた。大丈夫なわけ、ないのに。


 解かなきゃ。


 彼は私を、怖がらないでいてくれた。落ち着けと、泣いていいのだと言ってくれた。

 母が人ではなかったと、私もその血を継いでいると知って、はっきり言ってしまえば衝撃はあった。ショックであったと言っていい。……だがそれを認めてしまうのは、自分を、何より大切な母を否定する気がして、不安定な気持ちはぐらぐらと揺れた。間違っても、母を責めるようなことはあってはならない、と。

 泣いていいのだと言われて、どれ程安心しただろうか。それでも母は私を思っていたのだと第三者の彼から言われて、どれ程安堵しただろうか。

 母が私を大切に思ってくれているのは間違いない。両親の元に生まれてきて、よかったと思っている。でもどうして、と言葉にならない不安と困惑を、あの人は認めてくれたのだ。出会ったばかりの、平民の小娘のことを、案じてくれた。あの人は恩人だと言うが、私の行動は傍から見ずともただの痴女、しかも勝手に行った口付けは痛みを伴う散々な失敗っぷりという残念さ加減である。

 私にもし、できるなら。あの鎖が見えるのだから、可能性はきっとある。


 父は芸術家だ。書斎にはもちろん、芸術関連の歴史や知識が詰まった本や、取引先となる各地の常識流行、材料の産地などの本が多く揃えられている。

 だが、本はそれだけじゃない。父が有名なのは、その作品の造形の美しさだけではないのだ。作品に守護の力が篭められた、守護品としての価値が非常に高い。父は魔法はあまり得意ではないが、その指先から生み出す作品に強い守護の魔法を篭められる。今回の仕事である氷像ももちろんだ。

 それに伴い、父の書斎には物に魔力を宿す魔法書が取り揃えられている。守りに関する本が殆どであるが、それと表裏一体とも言えるのは呪いの媒介としての芸術品。表を知るなら裏もね、呪いから守る為の作品も依頼はあるから、と父がいくつか本を所持していたのは、記憶にある。

 あれでもない、これでもないとばらばらと乱雑にページを捲り、目次を引いては眉を顰め、必死に探しても気が焦る。呪い返し、呪い返しと呟きながら(怪しいことこの上ないが)一歩踏み出した私は、その瞬間息を飲んだ。なんか足がおかしい方向に曲がった。


「えっ」

 視界反転、足が滑り、どん、とお尻から背中にかけて強い衝撃。あまりの事に視界がちかちかとし、唖然としたところで続けて額にも衝撃。

 い、痛い。何が起きたか分からず唖然と天井を見つめた私の全身に、どたどたと荒っぽい振動が響く。……足音?

「リィナ! くそ、どこだ!」

 聞こえた声に、はっと思考を取り戻して身体を起こそうと力を入れるも、激痛に呻く。う、と声を上げたところで、開けっ放しにしていたドアの向こうから驚いたような声が聞こえ、仰向けのまま上を見上げて驚いた。

「え、ヴァルハイル様!? ちょ、どうしたんですか、そんな真っ青な顔で!」

「っ、ふ、ふざけるな! お前こそ、なんでこんなっ……つぅっ、とに、かく。立てるか、怪我はっ」

 明らかに私より辛そうな姿で手を伸ばすヴァルハイル様を思わず支えようとした私は気合で身体を横に倒し、床に手をついてはっとした。


 ……かちこちじゃん。


「こ、氷ってる!! 何これ床が氷った湖みたい!」

「お、まえが、やったんだろ……っ!」

「わ、私はやってな……いや私か!」

 もしかしてこれ私が魔力を制御できなかったんじゃないか!? だから滑って転んだのか!

「ゆ、雪女が自分の氷で滑って転ぶってどうなの」

「自分でわかっているようで、何より。それより、いつまでも転がってるな、冷える」

 ぐい、と引っ張り上げられて、抵抗する間もなく温かな腕の中に身体が落ち着く。ちょ、ちょっと痛い。というか、え、ナチュラルに抱き上げないでください、これどうしたら!? ひ、膝の上!! 難易度が高い! しかもヴァルハイル様のほうが身体、大変なはずですよね!

「ヴァルハイル様、私は転んだだけです、大丈夫です! だから、ヴァルハイル様は休んで」

「いや、少し、落ち着いてきた。大丈夫だ」

 いや、冷汗流して苦しそうに呼吸しながら何を言っているんですか、騎士はやせ我慢が仕事なのでしょうか? いや、間違ってはいないのかもしれないけれど、今は仕事じゃないんですから。

「……額が赤い」

 さらりと前髪を寄せられて、額が温かい手に撫でられる。思わず気持ちよさにうっとりと目を閉じかけて、しかし視界に映りこんだ鎖を見て意識が再浮上。

「ほ、本がたぶん転んだ拍子に落ちてきただけです。それより」

「それよりって、この分厚い本か……?」

 いや痛いだろ、と眉を寄せるヴァルハイル様だが、貴方のほうがそれどころじゃないです。じっと目の前にあるヴァルハイル様の心臓の辺りを見つめる。鎧の紋様と重なるように、いやきっとその奥にある心臓に絡みつくように蠢く『蛇』は今も彼を苦しめている筈だ。あっ、おでこ撫でるのやめて気持ちいいから!

「……見える、のか? 鎖……何かが」

「あれ? これ、ヴァルハイル様は見えないんですか? 本人はわからないのかな」

 はっきり、とは言わずとも目立つこれが見えないのか。魔法なんてまったくわからない初心者雪女の私が見えるのに……ヴァルハイル様は母程ではないようだが強い魔力を感じるのに?

 うーん、と唸り恐る恐るそこに手を当てると、びくりと肩を跳ねさせたヴァルハイル様が少し焦ったように「おい」と声をあげ離れた。

「大丈夫なのか? 俺には見えないが、呪いだ。下手に触れて何かあったらどうする」

「でも、いまいち鎧が邪魔で触れなくて……大丈夫じゃないですかね? なんともないですよ」

「……お前は危機感とかそういったものをどこに置いてきたんだ」

 はあ、とあきれたようにため息を吐くヴァルハイル様の呼吸が大分落ち着いてきていることにほっとする。

「どう、見えるんだ。鎖がそこにあるのか?」

「えっと、そうですね。黒くて細い、ちょっと脆そうな鎖が……その、心臓の辺りに蠢いて見える、というか……」

 ちらり、と顔を見上げる。……ち、近い。奥に行くほど深みのある宝石のように輝く瞳に視線を逸らしたくなって、少し逃げたくなる。だが表情がとても真剣で、真剣なその色に、視線が逸らせない。

 きっと、嫌な思いをしたのではないだろうか。心臓に呪いがかかっている、だなんて、……まるで命を狙われているかのようで。……命!?

「そ、そうだ解呪! 呪い返しぃ!」

「落ち着け。慌てなくてもすぐに死んだりしない、たぶんだが」

「たぶん!?」

 まったくそれ落ち着けないんですが! ああでも、やっぱり初心者に呪い返しなんてハードルが高い……? というか、だ。

 それこそすっかり落ち着いて見えるヴァルハイル様は、この呪いに心当たりがあるのだろうか。ヴァルハイルさんをあれ程苦しめる呪いにもし心当たりがあるのならそれはきっと……苦しい。

 赤い瞳をまっすぐと見つめられなくて、その奥に悲しみが潜んでいる気がして、視線を彼の頬や口元で彷徨わせ、胸に触れさせた手を握り締める。

 けれど長い間そうしていることもできなくて。

 ぐっと力を一度いれて、もう一度視線を合わせる。私をまっすぐ見つめる瞳は、果たして私を今、見ているのだろうか。

「とりあえず、えっと、……床をちょっとなんとかして、もう一度本を探してみます。これ、このまま融けたら書斎が大打撃だろうし」

「湿気はよくないだろうな。だが、腹が減ったんじゃないのか?」

「……そう、でした。待っていてください、何か作りますね! 苦手なものはありますか?」

「いや……とくにないな。俺も何か手伝おう」

「いえいえ、これでも父と料理するが好きなので、そこそこ食べれるものが作れると思いますよ! ヴァルハイル様は、待っていてください。何かあればお願いしますから」

「それは、いや、少し待て」

 どこか困ったように笑ったヴァルハイル様が、そこでそっと怪我がないかと確認した私を離して部屋の外まで手を引き、そして一人室内に戻っていく。なんだ? と首を傾げた私の前で片膝をついたヴァルハイル様が氷りついた床に手のひらをあてた。何かを唱えたその瞬間そっとその赤い瞳が伏せられると、少しして髪が揺らぐほどの魔力が放たれる。

「……すごい」

 氷が融けた。いや、消えたのか。水滴一つ残さず消え去った氷を見て、思わず室内を見回す。

「すごいと言っても、魔力量はお前にはまったく及ばないがな」

「ええ、私こんな綺麗に術が使える気がしません。自分で作った氷で転ぶし」

「ははっ! いいんじゃないか、初心者なんだろ?」

 笑うヴァルハイル様はまったく先程のように苦しそうにはしていなくて。ほんの少しだけほっとして、私は料理する為、落ち着かない感情を隠して台所へと向かったのだった。



 結果から言うと、料理は大失敗の後大成功? を経て、そこそこの料理が完成した。

 分かりやすく言うと、座っていてください、とヴァルハイル様を居間に押し込んだはいいが、初っ端からまさかの野菜氷結、かと思いきや炎が爆発するかのように燃え上がり、焦って消そうとしたところ調理台ごと氷に閉じ込めるというちょっと目も当てられない大失敗を起こし、悲鳴で駆け込んだヴァルハイル様に「だから手伝うと言っただろう!」と手助けしてもらう羽目になった。しかも手首を火傷するという失態。

 顔色を変えたヴァルハイル様に強制的に流水に手を浸され、もういいよ! という程冷えた手は軟膏を塗ってぐるぐると包帯を巻かれた。そこで漸く、ほらやるぞ、と手際よく氷を消し去って調理台の前で隣に並んでくれたヴァルハイル様は、はっきり言って不器用だった。大根の皮を剥いてもらうつもりが、皮がどこまでかわからない、と言い出し、大根が半分以下になるという悲劇。そうだよね、貴族(仮?)は料理しないよね……。聞けば、騎士団でも野営は匂いが獣を呼びつけてしまう為に干し肉や日持ちする穀物類の保存食ばかりで、調理という調理はほぼやらないらしい。

 少し拗ねたように言う彼の隣で笑い合って、大根をやわらかくなるまで煮込み、胃に負担がかからないように白粥を作る。タマゴを加えてもいいかもしれない。彼はずっと意識がなかったのだから、がっつり肉料理はやめておいたほうがいいだろう。

 そうして鼻歌混じりに作っていた私は気づかなかったのだが、ふと、彼が鍋をかき混ぜる私の手を止めた。急に触れないでくれ、心臓に悪い。

 だが、彼が言ったのは予想外の言葉だった。

「お前、歌に魔力が含まれているな。まるで強力な呪文詠唱だ」

「え」

 あれ、そういえば母がなんか言ってたような。だが説明できる程知識がない私が首を捻っていると、彼はどこか考え込む様子で視線を彷徨わせる。

「……とにかく、お前が先程魔力を暴走させた原因だが、たぶん……俺から離れたせいだ。雪女の覚醒時はとにかく魔力が不安定らしい」

「……そんな、よくある小説みたいなネタを」

「残念だがこれは現実だな」

「ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません!」

 よくある話、であってたまるか! とんだご迷惑だよ! これじゃ私雪女じゃなくて金魚のほにゃららだわ!


 そんなこんなでまずは体調の様子見、ということで作った料理はそこそことかまあまあと言える、言うなれば普通の出来で、それでも彼は美味しいな、と綺麗に食べきってくれた。食欲はあるようなので、次はもう少し栄養があるものでもいいかもしれない。

 若干現実から目を逸らし未来の、というより次の食事を考える私の横で、食後のお茶を飲み一息ついていたヴァルハイル様が、さっくりと私を現実に引き戻す。

「お前、手を見せろ」

「はい?」

 ほら、とこちらが何か言う前に強引に、しかし優しい手つきで、包帯が巻かれた手をとられ、ゆっくりと解かれていく。薬を塗りなおすとか? と首を傾げた私は、はらりと落ちた包帯を視線で追い、手首を見て、絶句した。

「治ってるな。やはり、歌声に含まれた魔力で回復したか……恐れ入る。魔法という形式に囚われず発動させることができる程とは……」

「えっええっ、さ、さすが雪女……?」

「まぁ、そうなのかもしれないな。だが、今のところ俺……いや、男がそばにいなければ所構わず凍らせるという若干扱いにくい魔力だが」

「その点につきまして大変ご迷惑をおかけしております」

 すごい申し訳なく思っています、男がいないと魔力が暴走しますとか痴女か、変人変態か、生物兵器か! 涙しか出ない……。

 遠い目をしていた私の隣で、そこは素早いんだなと笑った後しばらく何か考え込んでいたヴァルハイルさんだが、ぽつりと、俺は迷惑だとは思っていない、と呟いた。神か。騎士様はとても優しかった……。



【6】


 そんなヴァルハイル様と二人、気をつけているつもりがつい何かを氷らせてはヴァルハイルさんがため息混じりにそれを解くという主に私がまったく学習しない日々を数日過ごすこととなった。やることなすこと新しい感覚に、日々どきどきしっぱなしである。主に仰天的な意味で。

 ちなみに寝る場所だが、うん。本当に申し訳なく思っています。まさか寝ている間に部屋が銀世界になるとは、思わなかったんだ……。

 考えてもみればほぼ初対面の知らない異性と二人いきなり生活するなんて、という吃驚話だが、ヴァルハイルさんは少し(結構、いやかなり)意地悪なところはあれど、非常に紳士で大人で騎士だった。これはもう、語りつくせないかもしれない。これは惚れ、じゃなくてその、とにかく、反対に私は迷惑をかけまくった自信がある。

 料理だけはなぜか少し不器用で、でも力強くて、いろいろ興味深い話が多くて。言葉が乱暴な事はあれど、気遣ってくれて……『雪女』と共にいるのに、嫌な顔もしなければ、私の体質を知りながら行き過ぎた行為の強要もない、優しい人だった。

 やっぱり彼の呪いを解きたい。……でも、家の本には、蛇のような鎖の解呪において参考になりそうなものは、なかった。

 この数日で彼が発作を起こしたのは、あれから三度。苦しそうで、苦しくて、横で悔しさに耐えた一度目。握り締められた手のひらが傷つかないようにと手を重ね握りこんだ二度目。ふと気付いて、震える声で誰もが知る歌を歌った三度目。お願い治癒術、あるのなら発動してと願ったその時、少し楽になった、と笑う彼の表情に、どれだけ安堵したことか。

 ありえないような日を繰り返し、私の知らないまったくの非日常が、九日目を迎えた。明日は恐らく、予定通りなら両親が帰宅するというその日の昼。昼食を終えた彼は、私をそばへと呼んだ。


「俺に呪いをかけたのは、上の位の貴族もしくは王族の可能性がある」

 そう話を切り出した彼は、大分、言うのを躊躇っているようだった。なんで王族。少し前に、彼が侯爵家の出であるとは、聞いたけれど。貴族って、騎士って、ううん、ヴァルハイル様って、そんな怖いところに呪いをかけられるような何かがあるのか。

 唖然とした私の前で苦笑した彼は、まるで私の体温を確かめるようにするりと頬を人差し指で撫で、額に手を触れさせた。

「お前は、物語が好きだったな。よくある話、と言えばいいか。俺は、王族の血を引いているらしい」

「……えっ」

「はは、まぁ過去にも存在しているし、ご落胤なんて珍しくもないのかもしれないが、まったく、自覚も覚えもないが、俺の父は現王の可能性が高いと、死ぬ間際の使用人から聞いた。母は……いや、母はそれを想ったまま、叶わず俺が幼い頃に散った。現王は俺の存在を知らないらしいが、俺は母とも、表面上実子として引き取った前侯爵とも違う黒髪。現王も、黒髪だ。……どこかに面影でもあるのかもしれない。まったく、ありがたい話ではないが……」

 ふと、数日前に、父の書斎でほんの少しだけ分けてもらった私のスペースに仕舞いこんであった恋愛小説を、ぱらぱらと流し読んだヴァルハイル様が眉を寄せていたのを思い出す。

 こういった話は多いのか? と聞かれて、それこそ成り上がりな話は多いのでは? まぁ、実際にあったら驚きですよね、私は雪女でびっくりでしたけど、とその頃にはあっけらかんと笑って答えた、あの時。彼はただ、少女趣味な小説だなと呆れたのかと思ったけれど。

 そう、よくある話。実は父が貴族で、と華々しくデビューした少女が数々の困難を乗り越えて王子様と恋を実らせる恋愛小説や、実は王家の血を引く孤児が、勇者となって世界を救う話。私が読んでいたもので、間違いない。ざぁ、と血の気が引いた気がした。

 よくある話、であってたまるか。物語だから、非日常だから、読めるのだ。彼はどんな気持ちで私の本棚を見ていたのだろう。愕然としたまま赤い瞳を見上げた私の前で、彼は苦笑する。


「いいか、俺の呪いは、危険なものである可能性が高い。いや、呪いがというより、かけた相手が危険だ。呪い返しなんかしたら、お前に……リィナに危険が及ぶ可能性がある。俺は、それを望まない」

「ちょ、ちょっと待ってください、ヴァルハイル様。ああ、なんで今名前呼ぶんですか、嬉しさ半減です!」

 彼はいつも、「お前」とばかり私を呼んでいた。リィナ、と呼ばれたのは、私が魔力を暴走させて書斎ですっ転んだあの日以来ではないだろうか。密かに、いつ呼んでくれるのかな、なんて楽しみにしていたのに、あんまりだ。彼は私に、この件から手を引けと、そう言うつもりなのに。

「冗談じゃありません! こんな呪いなんて、この国じゃ解ける人間もほぼいないだろうって言ってたの、ヴァルハイル様じゃないですか!」

「ああ、口が滑ったな」

「そうじゃないですよ! 私は絶対に引きません、逃げようとしたら、氷らせちゃいますからね」

 数日前から鎧を着けず騎士服のみを纏っていた彼の服を掴む。いや、決して胸倉掴み上げているわけではないが、気分はこの下にあるだろう蛇の抹殺だ。出て来い蛇め! 引きちぎってやる、氷らせて引きちぎって投げ捨ててやるんだから!

 じわ、と視界が歪んだ気がした。馬鹿、私がこんなんでどうする。だって、でも、そんなのひどい。こんなのずるい。

「はは、それは怖いな。……だがお前は、こんなものに関わるべきじゃない。これ以上背負うべきじゃない。俺は明日、お前の両親が帰宅したらここを出る。隣国に行くつもりだ。上手くいけば、だが」

「そんな、いつ発作が起きるかもわからないのに……!」

「聞け、リィナ。きちんと伝える意味を、知ってくれ。……お前の魔力は不安定だ。父君が戻ったら、父君に支えて貰え。母君に力の使い方を習うんだ。自分の魔力に負けず、のまれるな。願わくば今は誰も喰わずと言いたいところだが、今はまずなんとしても生きてくれ。……お前は、こんなことを偉そうに言いながら国を出ようと……逃げようとする俺を情けなく思うか?」

「なんっ、なんでそんなこと!」

「お前の知る物語ではきっと、主人公は逃げないだろう。困難に立ち向かい、苦難の末に見事打ち負かして、呪いを消すか、送り返すか。……だが俺は、主人公や英雄にはなれない。正直どうでもいいと思っている。王家にも王位にもまるで興味がないし、この国で騎士を続けるのも難しいだろう。最後に騎士としても敵を見つけだしやり返せればと願ってはいたが、俺は今、そんな矜持や何より……命が惜しい」

「そん、そんなの、当たり前です……!」

 彼が生きようと強く願っているのは知っている。あんなに苦しそうな呪いに耐えながら、雪女の私が引っ張られたかのように、まるで体調を崩すことがないほど強く衰えない生命力。

 矜持がなんだ。よくある勇者物語がなんだと言うんだ。私はそんなものより、彼に生きてほしい。

 よくある話、であってたまるか。逃げなんかじゃない。これは彼の物語じんせいだ。彼が強い意志で選ぶその道が、どうして情けないなんてことになるのか。

「俺は生きたい。だから選ぶ道だ。……リィナ、君の歌を、もう一度聞かせてくれないか。君の歌は心地がいい」


 ここ数日何度か頼まれた願いだった。少し悩んで、私は歌った。納得なんて、できていない。彼の道を情けないとは思わないが、あまりにも危険すぎる。私が解呪できればよかったのに。勝手に零れる涙は、隠したくともきらきらと粒になって彼の手の甲を打った。

 歌は、国でよく知られた歌だった。町でも、歌い手と呼ばれる人たちが街角で歌っていた人気の歌。誰か大切な相手を思う歌だと解釈していたが、今なら分かる。これはきっと、恋の歌だ。


 恋はよく、わからない。けれど私にとってヴァルハイル様は、とても大切な人となっていた。離れたくない、とこっそり願ってしまう程に。


 助けたい。助けたいのに。私を助けてくれた貴方を。


「っう」


 歪んだ視界の上で、苦しげな声が歌に重なった。はっと顔を上げたとき、ぱらぱらと舞い上がるように散った雪の向こうで、蛇が蠢く。――発作だ。


「……こんな鎖なんて!」

 今日の彼は、鎧がない。掴めないそれを睨みつけて、怒りをぶつけるように思わず引きちぎろうとした私は。



「……あ」

「ぐうっ、つ、あ……?」



「……ご、ごめんなさいどうしよう? あれ? 鎖、千切れちゃった……りして……? あはは……」


 突如現れた鎖は鎧がない彼の胸の上で、それまでの感傷を吹っ飛ばす勢いであっさりと私の手のひらに収まり凍り付いて、引きちぎられ、ぼろり、と崩れ去ったのである。あ、ホントに今まで鎧が邪魔だっただけ……?


 どうしよう、この居た堪れない、以下略。





「素手って……呪いを素手……本当に規格外なやつだな……」


 どこか項垂れた様子で、というかとうとう頭を抱え込んだヴァルハイル様は、今は姿形も一切ない鎖が消え去った跡を見つめて、相手に気付かれていやしないだろうか、と魔力の探知? を行っていた。

 すみません、私じゃその辺りの魔法さっぱりです本当にごめんなさい。


「……まずいな。これがどういった類の呪いなのかもわからない段階だ。今はまだ結界内にあるが、ご両親が帰宅し結界が解けたあとどうなるかがわからない。俺が行方をくらませば済む話ならいいが」

「いやいやダメです待ってよくないです!」

「なんで」

「私はヴァルハイル様がいないと、……っあ!」

 勢い余って出た言葉を、慌てて飲み込んだ。今何言おうとした、と口を押さえた私の前で、少し驚いたように目を見開いたヴァルハイル様が固まった。微動だにしない。……いや、私氷らせてないよね? あ、ちょっと動いた。


「……俺がいないと?」

「いえ、その、ですね」

「俺がいないと、何?」

「……えーっと」

「何、リィナ」

「そこで名前を呼びますか!」

 ずるいぞ、と顔を上げて後悔した。ち、近いですヴァルハイル様。そんな長い睫が見える距離まで近づかなくても、お話はできると思います。そのまんま言ったら、馬鹿、と笑われた。ひどい。……そんな優しい声で言うのひどいと思います。

「俺がいないと、どうなるのか言ってくれないか、リィナ」

「えー、あー、ゆ、雪女としてはですね」

「ああうん、いいや。リィナ、俺は嬉しい」

「いいやって! 人が一生懸命、えっちょ、待っ」

 ぐい、と腰を引き寄せられる。頬に触れ、顎を捕らえるごつごつとした指先。何これ既視感……じゃないわ前もあったわ! やめて! 私のヒットポイントがごりごり削れています、熱で! 熱くて! 私雪女(初心者見習い)です加減して!

「ああ、もう無理だ。一緒に逃げないか、リィナ。巻き込んだことは、悪いと思っている。かっこつかないが、俺はお前を、雪女でもあるリィナを守る、お前の騎士になると誓おう。頷いてくれないか、俺の歌姫」

「俺のっ!? ちょっと待っていきなりハードルが隣国との境にある万年雪山の如くですね」

「ああうん、いいや。一緒に来い、リィナ。お前に喰われる男に立候補しよう。喜んで喰って……じゃない、喰らわれてやるから」

「今喰うって言ったぁああ!」

 熱いっほんと熱い融ける! 雪女初心者見習い、マリーナ・エセル、なんだかよくわからないうちに、全身火傷の危機を迎えております、お母さん、私にはまだ男性を食べられそうにありません……!




【ED】


「あらぁ、リィナ、失敗し……じゃないわ、無事でよかったわぁ」

「お母さん……」

 なぜか予定より少し早い九日目の夕刻のうちに到着した両親は、顔を見るなりほっとした様子を見せてくれた、のだが。

 やばい、お母さん間違いなく私が所謂雪女的な意味でヴァルハイル様を食べていないの気付いてる。何これ雪女のスキルですかね。

 にこにこ笑顔で戻った母はぎゅっと私を抱きしめた後どこか嬉しそうで、その隣にいる父はなぜか涙を流しながら安堵していた。そんな心配かけてましたか、すみません。なら置いてくな。

 挨拶もそこそこに、すぐに頭を下げたのはヴァルハイル様だった。慌てた私の横で、彼は丁寧かつ冷静に私が自分にかかっていた呪いを解いてしまったこと、呪いの性質が分からず、解けたことが下手に相手に伝わっているようなら私の身も危険な可能性があることを詫び、そして続けて、私を連れて隣国に逃げたい、と申し出た。どうやら解呪の為に下調べをし、彼は隣国にツテを作り出していたらしい。

 ぎょっとして涙を流す父が何かを言おうとしたその瞬間、有無を言わさぬ気迫でひやりとした空気を放ったのは、雪女である、母だった。


「リィナに己が喰われる覚悟がおありかしら?」

「構いません、というより、私の見たところ、恐らく雪女が喰らうのは熱、というより体温や想いを受けているのでは? 彼女はこの数日、冷えることはあれど冷え切ることはなかった。冷えたほうが魔力が不安定で、所構わず氷山を作り、氷りつかせ、この国では解けないだろうと言われた呪いを素手で千切りとる程の暴れようでしたが、俺といると安定が早い。実際彼女は俺を喰らうことなく元気にしています。一般的な解釈と随分と相違があるのでは」

「まぁまぁ、ふふふ。私の勘もなかなかねぇ。まあ、いいのではないかしら? 『今は』それで正解よ。リィナもそれでいいみたいだし、ねぇあなた」

「うう、ううう、リィナがぁあ」

「あらぁ、まぁいいわ。さて、善は急げといいますものね。実はねぇ、私たちと共に荷を運んだ騎士の一人が、どうも怪しいお話をされているのを見てしまったの。副隊長さんだったかしら。曰く、確実に隊長の遺体を引っ張りだしておくんだった、だったかしら。五日前ね。それで私、逃げる前に後ろ姿を見られたのかもしれないのよね、困ったわ……さて、皆で逃げましょうか、あなた」

「うう、ぐす、そうだね、どうせもともとそのつもりだったから、準備はできているけども」

「さぁ出発しましょう。リィナ、もちろん荷物は包んでいるのでしょう? 遅くとも日付が変わる前には出立よ」

「え、真夜中に!?」

 大丈夫大丈夫、だって私雪女だもの、とわけが分からない説明になぜか納得させられて、慌てて残りの荷物を荷造りする。ヴァルハイル様と旅をする決心をしてこの別荘に持ち込んだ荷物はある程度荷造りしていたが、なんだか突っ込みどころ満載だ。街にある家の荷物どうするんだろう、と思ったら、とっくに協力者に頼んで引越しの手続きは終えたとのこと。どうやらうちの両親、私が覚醒したら隣国に逃げるつもりだったらしい。

「……強行軍だな。リィナ、少し眠らなくて大丈夫か?」

「ヴァルハイル様こそ、うちの両親がなんかすみません、急で」

「いや、俺のせいというのもあるが……、とにかく、道中でも眠くなったら言えばいい。お前一人くらいなら担いでいける」

「そこは……担がないでお姫様だっことか……」

「してほしいのか?」

「荷造りしてきます!」

 にやり、と笑った彼から慌てて逃げるように部屋に飛び込む。壁を背に、ずるずると座り込むと、動揺のせいかぱきぱきと床が凍った。相変わらず暴走魔力である。

「ったく」

 急に背の扉がなくなってひっくり返りそうになった私はあっさりと拾い上げられ、わぁわぁと騒ぐ私をものともせず扉を閉めなおしたヴァルハイル様が、床の氷を消し去った。また転ぶつもりかと笑う彼は、私を降ろすと屈んだ体勢のまま私に視線を合わせた。


「なんだかいろいろばたばたしているが、大丈夫か? 不安は、吐き出していい」

 正直不安だらけだろ、と言う彼の赤い瞳は、私をまっすぐに捉えていた。きらきらした宝石に、私は閉じ込められてしまったかのように囚われる。

「大丈夫です。私きっと、ヴァルハイル様と離れるほうが後悔する」

「……そうか。そういえば……リィナは初め俺を治癒するとき、口付けしたんだったか?」

「意識のない男性を襲うような真似をしてしまい大変申し訳ございませんでした」

 スライディング土下座の勢いで頭を下げた私の頭上で、くつくつと笑い声が聞こえる。どうしよう、この人に痴女とか言われたら私は家を氷漬けにする自信がある。

「いやでも、ほんと、ロマンチックの欠片もなく勢い余って歯が当たるような感じでして、事故と思って頂いても」

「ああ、わかった」

「うっ、それはそれで、私初めての口付けだったのに」

「俺は覚えてないからな。それならリィナの初めて、やり直させて」

「は?」

 そんなのどうやって。いや待てやり直すってことはもう一度じゃん、と脳内で突っ込みをしたその時、熱を持った宝石は私の目前で煌いた。吐息が、熱を含んで、肌を擽る。


「突拍子もなくて規格外で無鉄砲で、あ、あとちょっと馬鹿だけど」

「えっそれ私!? さ、散々な」

「それでも俺は、目が離せないお前が」

「ま、まっ、私お姫様でもないし、ゆき、」

「待たない。そこ、俺気にしないから。……好きだ、リィナ」

「……んんっ」


 熱くて頭から融けそうになる口付けは、やわらかな綿雪が触れてほんのりと融けるほど甘く優しいものだったけれど、じわじわと、きっと生涯忘れないだろう熱を胸に残した。

 頬を伝う涙は、雫となって、床を濡らす。

 なんで、私を好きなところっていいとこないじゃない、とか、離れた瞬間照れて慌てたように言い募る私は、見越されていて。


「旅している間にでも、どこが好きかゆっくり語ってやる。俺の姫はどうやら、やりすぎると熱を出しそうだからな」

 にっと笑う彼はどこか余裕そうで悔しい。けど、悔しくなって軽く叩いた胸は、いつもより熱い気がした。

「も、物語なら、きっとここでハッピーエンドね」

「……ここでよくある話だったね、なんて終わらせてたまるか。ゆっくり融かしてやるから、覚悟してろよ、初心者雪女見習いさん」


 よくある物語の私たちは、どうやらよくある完結ハッピーエンドを経て、新たに道を歩むようです。



閲覧、評価、お気に入り登録など、応援ありがとうございました。

この後、出来上がり次第でぽつぽつと番外編を更新していく予定ではありますが、一旦完結とさせて頂きます。お時間がありますときまた、どうぞよろしくお願い致します。

この時どうだったの、と質問等あれば、出来そうなものは補足SSとしてツイッターかこちらで番外編投稿させて頂きますのでお気軽にご連絡ください。

急ぎ足でしたが、応援、ありがとうございました。

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