一〇四 獅子身中の虫
~~~魏 洛陽~~~
「曹真君が倒れただって?」
「蜀軍を相手に心労を重ねていた。図太い男だが限界を迎えたのだろう」
「先にはワタシの同郷の郝昭も亡くなりま~した。
蜀軍との戦いの厳しさがわかりま~すな……」
「残念じゃがワシらは次のことを考えねばならん。
曹真の抜けた穴は空けられんぞ。後任は誰にするのじゃ?」
「迷うことはない。司馬懿君に任せよう」
「し、司馬懿殿ですか……。
そ、そのなんと申しますか。彼の知略は問題ありませんが、性格にいささか問題が……」
「そんなことは誰もが知っている。
張郃や杜襲が脇を固めていれば問題あるまい。不安ならば私も行こう」
「おっ。久々に戦場が恋しくなったのか?
腰痛がなければワシが行きたいところじゃがな!」
「遊びに行くわけでも政務が嫌になったわけでもない。国のためにやるだけだ」
「待ってください。司馬懿の性格なら友人の俺が熟知しています。
そういうことなら俺が――」
「やめておけ。友人のお前が行けば司馬懿はお前に全面的に依存するだろう」
「……あいつの性格をよくご存知で」
「それに老人ばかりが都に残るのはよろしくない。若い君は残りたまえ。
……いや、これは失言だったな。忘れてくれ諸君」
「お前が無礼なのは誰もが知っとるわ!」
~~~魏 長安~~~
「さささささ早速蜀軍が四度目の遠征軍を出してきました!
みみみみみみなさんには謝らなくてはいけません!
わわわわわ私が指揮官になったせいで死ぬことを!」
「戦う前から不吉なことを言うな。士気が下がる」
「はっはっはっ。この旦那のネガティブぶりは都の子供だって知ってるぜ。
今さらなんとも思わねえよ」
「恐れ多い! 国家の将来を担うべき都のお子様方にまで
私ごときの存在が知られているなんて!
穴があったら入って埋まって土に帰って虫けらか何かに生まれ変わりたい……」
「話が進まん。蜀軍は例によって祁山に本陣を置き、
陳倉に進出しているのだったな」
「はい。前回のようなウガアアアッ!作戦はとらず、
我々の出方をギャアアアオ!っているようです」
「電撃作戦はとらず、出方をうかがっているようであります」
「陳倉をめぐり以前とは逆の立場になったな。
どうする? 素直に陳倉を攻めるか」
「諸葛亮ならば城に爆弾や落とし穴を仕掛けるかもしれん。
それに付き合う必要はあるまい」
「ならば持久戦か」
「曹真将軍は蜀軍に前線を突破されないことを第一義にしていた。
持久戦に持ち込めば兵站に問題を抱える奴らは、手もなく撤退するだろうよ」
「うむ。我々も曹真の作戦を踏襲する。それでいいな司馬懿」
「滅相もない!
皆々様方がそう仰るというのに私に異議があるものでしょうか!」
「ああ。形式的に聞いただけだ。
蜀軍への警戒を厳にしろ。行け」
~~~蜀 北伐軍~~~
「……長雨のせいで兵糧輸送が遅れたと、そう言うのだな?」
「へいへい。全くその通りでやんす。
まるで天の底が抜けたかのような大雨でやんして、
大事な大事な兵糧を濡らしてはいけないと、
あちきは屋根の下に息を潜めて、雨がやむのを待っていたでやんす」
「馬鹿め。雨など降ってはおらぬ」
「これはこれは右将軍……いや、
前回の北伐の功績で丞相に返り咲かれたでやんしたな。
いくら丞相のお言葉でも、降ったものを降っていないとは言えないでやんすよ」
「余人はともかくこの余をたばかれると思ったか。
雨は降っておらぬ。余が降らせなかったのだからな」
「…………へ?」
「まだ疑うのならば貴様の補給部隊に密かに同行させた
諸葛均の報告書を見せてやろう。読め黄月英」
「はいです。○月×日。快晴。今日も苟安は酒を飲んでサボっていた。
○月△日。快晴。今日も苟安は芸者を呼んでどんちゃん騒ぎ。
○月□日。快晴。今日も苟安は昼寝を――」
「あわわわわわわわ」
「殺せ」
「はいです。殺すです」
「お、お待ちください!
たしかに苟安の罪は重いですが、彼は兵站を担当する李平の腹心です。
彼を斬れば李平の面目は丸つぶれとなります!」
「で?」
「う…………」
「それで? それがどうかしたのか?」
「り、李平がもし苟安の処刑を不服として魏に寝返るようなことがあれば、
我々は窮地に立たされます。この場はどうか怒りをお鎮めください!」
「フン。ご高名であらせられる李恢殿に
そうまで言われては顔を立てざるをえないな」
(心にもないことを……)
「よかろう。この場は処刑をとりやめてやる。
だが代わりに百叩きの刑に処する。死ななければよいな」
「ひ、ひいいいいいいい!!」
~~~魏 司馬懿軍~~~
「……で、お前は魏に降ることにしたというのか」
「へ、へい。諸葛亮へのこの恨み、晴らさでおくべきかでやんす!」
「絵に描いたような逆恨みだな」
「いずれにしろこの男は使える。苟安と言ったな。
お前は成都に戻り、流言飛語を流せ」
「は? モクギュウリュウバ?」
「諸葛亮が謀叛を企み、遠征軍を率いて成都へ攻め上がるという噂を流すのだ」
「それはお安い御用でやんす!
主人の李平様も抱き込んで大々的に噂を流すでやんすよ!」
「……しかし諸葛亮に劉禅は絶大な信頼を寄せていると聞くぞ。
はたしてそのような噂を信じるだろうか」
「私が聞くところ、信頼というよりもあれはウオォォォン!
失礼、諸葛亮に全てを丸投げしているだけだと思われます。
劉禅はともかくも周囲には諸葛亮の権力が大きすぎることを
懸念している者もいるでしょう。……それにしても生肉が食べたい」
「おめえ、虎の呪いが悪化してねえか?」
「そうだ。劉禅ではなく周囲の誰かが信じればよいのだ。
――司馬懿、それでいいな」
「はッ! そのようにはからってください!」
~~~蜀 北伐軍 先鋒~~~
「ッ!!」
「関興! 深追いはやめろ!」
「魏軍は消極的だ。
兵を動かしても小競り合いだけにとどめ、すぐに退却してしまう。
下手に追撃し藪をつついて蛇を出すようなことは避けるべきでござろう」
「………………」
「張苞の分までがんばりたいって気持ちはわかるが、無理は禁物だぞ」
「………………」
「かーーっ! 張苞がいねえと話が通じてるのかどうかもわからねえな!
関羽さんってのもこんな感じだったのか?」
「いいや、もっと無表情だった。…………関羽将軍。
関羽将軍!! ううっ……」
「ああ、また泣き出した! 廖化の前でそれは禁句だと言ったでしょう!」
「………………」
「おやおや関興さん? それって……アンタさん、吐血してはいやせんか?」
「ど、どこか斬られたのか!?」
「いいえ。外傷はありませんね。お怪我ではなくご病気ではないでしょうか」
「見たところ負傷はしていないな。どこか身体が悪いのではないか」
「馬忠の言う通りだ。おい、急いで関興を医者に診せな!」
「楊儀」
「は? 私は医者ではなく学者だぞ」
「魏延の身体をあちこちいじってるじゃないか! とにかく早く診察しろ!」
「い、医者と学者を一緒にするな!」
「………………」
~~~蜀 北伐軍~~~
「ほう。劉禅から全軍撤退の命令が来ただと」
「本物の命令書です。玉璽が逆さに捺されてるです」
「むむむ……。
劉禅陛下のことですからろくに目も通さずに捺されたのでしょうが……。
蔣琬や費褘らは何をしているのだ!
いずれにしろ命令は命令です。無念ですが引き上げる他ありますまい」
「馬鹿め。蔣琬も費褘もお手柄だ。
全ては余の思うままに進んでおる」
「へ?」
「こたびの北伐は膿を出すことにあった。
これからが本当の戦いだ。成都に戻り獅子身中の虫を殺せ」
「だ――誰のことを言われているのですかな?」
「クックックッ……。戻ればわかる」
~~~魏 司馬懿軍~~~
「追撃はするな」
「これは劉曄殿の言葉とも思えん。
全軍撤退を始めた今をおいて蜀軍に決定的な打撃を与えられるとでも?」
「蜀軍は苟安の流言によって帰還するだけだ。
兵力は損耗していないし、士気も落ちていない。
下手をすれば我々のほうが痛い目にあう。それに――」
「ああ。あまりに蜀軍は整然としすぎている。
まるで撤退命令が下されることをずっと前から承知していたようにな」
「た、たしかに私などがもし陛下から突然の撤退命令をいただいたら、
首をはねられるのか拷問にかけられるのか、
良くて権力を奪われ平民に落とされるのかと、戦々恐々としてしまうでしょうな!」
「あんたはいつでも戦々恐々としてるじゃねえか」
「……軍師殿らの意見は伺った。
だが軍人として敵の背中を指をくわえ眺めているのは耐え難い。
俺の手勢だけでも追撃を掛けさせてもらう」
「……曹真将軍がいない今、この場で最も地位が高いのはお前だ。
お前がそこまで言うのならば、誰も止めはせんよ」
「ウガアアアアッ! 将軍の手勢だけでは無謀です!
見殺しにはできません。俺もお供をいたす!」
「及ばずながら本官も力添えを――」
「待てい!」
「「!!」」
「戦う前から死は覚悟しても、敗北した時のことを考えるのは愚かだ。
俺はいつでも勝つために戦っている! 人それを『祈り』と呼ぶ」
「……いちおう何者だって聞いたほうがいいのかな」
「お前たちに名乗る名は無い!
後を頼んだぞ。トォォウ!!」
「……ご武運を」
~~~蜀 木門道~~~
「暫時待て」
「む。俺のセリフを横取りした貴様は……姜維だな。
殿軍として立ちはだかるか。
ならば天水の麒麟児とうたわれたその力、見せてもらおう!」
「魏にその人ありと響いた実力……。偽りに非ずか」
「お前のほうこそ噂に違わぬ剣さばきだ。
だがこれが受けられるか! ゴッドハンドスマ――」
「しばし別れの時を刻もう」
「なに? 逃げるのか姜維! 待てい!」
「オォォォォォォォォン!!」
「あれは――魏延か!
俺のお株を奪い、次々と新手を繰り出すつもりか。来い魏延!」
「ウァァァァァァァァア!!」
「なるほど、まるで野生の獣を相手にしているようだ!
だが鍛え抜かれた俺の奥義を、反射神経と勘だけでかわし切れるかな!」
「もう十分だギヱン! 引き上げろ!」
「またしても戦い半ばで矛を収めるか……。
どうやら俺を誘い込もうとしているようだな。
だが蜀に俺と互角に打ち合える将はそう多くはあるまい。
さあ、次はどいつだ!?」
「………………」
「関羽の息子か!
…………む? お前、どこか病んでいるな?
下がれ! この張郃、病床の人間と戦う剣は持ち合わせていない!」
「…………ッ!」
「病人だろうと向かってくるならば容赦はせんぞ!
人それを『決意』と呼ぶ!」
「ッ!」
「やはりその身体では無謀だ。つむじ風を背負い撤退しろ。
後は私と魏延が引き受ける。あの丘の風に吹かれながら……」
「………………」
「そうやってこまめに交代し、俺を疲れさせる算段か?
無駄だ。その前に剣狼がお前の首を刎ねる!
喰らえッ! バーストキィィィック!!」
「自壊せよロンギヌスの黒猫。一読し、焼き払い、自ら首を刎ねるがいい。
覇道の九――撃」
「それがお前の奥義か! 笑止!!」
「くっ…………!」
「ま、まずい! 姜維と病み上がりの関興ではあいつに敵わないぞ!
ギヱンよ再起動しろ!」
「ガァァァァァァァァオ!!」
「ゴッドハンドファイナル!!
お前たちの技はすでに見切った! 俺には通用しない!」
「姜維たち三人がかりでも敵わないのか!?
かくなる上は俺も加勢に――」
「やめろ! 我々では力不足だ。かえって姜維らの足手まといになる」
「だからってこのまま見殺しにはできねえぜ!
なんとか一瞬でも隙を作れれば――」
「ッッ!!」
「む!? な、なんのつもりだ!」
「関興!」
「か、関興が捨て身で張郃に飛びかかったぞ!!」
「ゴッドハンドスマッシュ!!
――ぐうっ!!」
「隙、有りだ」
「か、関興が迎撃された隙に姜維が一撃を入れた……!!」
「…………そうか。すでに命を捨てるつもりだったか。
あたら若い命を捨てるとは愚かな……。
だがその覚悟……人、それを『勇気』と呼ぶ……」
「…………………」
「やった! 関興がやったぞ! は、早く医者の元へ運ぶんだ!」
~~~蜀 成都 玉座の間~~~
「あれ? 諸葛亮なんで帰ってきたの?
わしは勝ったとも負けたとも聞いてないけど?」
「まったくだ! せっかく俺様が兵糧を用意して送ってやろうとしてたのによ。
その矢先にのこのこ帰ってきやがって――」
「これを読め」
「これは……わしの命令書? なにこれ?
全軍撤退しろって命令したの? いつ? どこで?」
「テッテレー! ドッキリ大成功~!!」
「し、蔣琬殿! こ、今度は屋根をくり抜いて現れるとは――」
「あれ、陛下は驚いてませんね?」
「だってそこに怪しいハシゴがあるし、
さっきからずっと天井にいるお前の足音が聞こえてたぞ」
「あらら。急いで用意したから準備不足でしたね。
おじさん反省します。反省! 終了!」
「それで蔣琬殿。陛下が撤退命令を下されたなど、私も聞いておりませんぞ。
これはどういうわけですかな」
「それは拙僧から説明いたそう」
「おっ。費褘じゃん。今日は珍しく朝議に出席してるんだ」
「喝! 名ばかりの軍議になど拙僧が出るまでもない。
だが諸葛亮丞相がおられるなら話は別だ」
「単にサボっていることを偉そうに言うな……」
「陛下は以前、食事中に裁決をいただいた書類を覚えておられるかな。
餓鬼道に堕ちた亡者のように、晩餐を意地汚く平らげておられた時に」
「あーあー。お前と蔣琬が持ってきたヤツか。
なんだっけ。風呂場の扉が壊れたから直したいとかなんとか。
ご飯中にうるさいから玉璽をポンと適当に捺したけど」
「南無三! あれが全軍撤退命令書です」
「へ?」
「丞相の指示により、拙僧と蔣琬が
こっそりと裁決をいただいたのだ。迷わず成仏されよ」
「し、諸葛亮丞相! これはいったいどういうことじゃ!?」
「馬鹿め。それは余の台詞だ。
聞いての通り全軍撤退命令は余が自ら出したものだ。
それだというのに成都に戻る道すがら、こんな世迷い言を漏れ聞いたぞ。
曰く、余が謀叛を企み北伐軍を率い成都に攻め上がるとな」
「わっはっはっ! それわしも聞いたぞ! 馬鹿な話だよな~。
諸葛亮がその気になれば北伐軍なんか動かさなくても、
指一本でわしを殺せるのにさあ。
だいたいパパが死ぬ前に、諸葛亮に帝位を譲るって言ってるんだよ。
それを断っといて、なんで今さら謀叛しなくちゃいけないのさ」
「そこの無能の言う通りだ。
余はわざわざ謀叛など企まぬ。撤退命令も余が下したものだ。
それなのに浅はかにも、余の謀叛を恐れ、
劉禅が撤退させたという噂を流した愚か者がおる」
「諸葛均に調べさせたです。噂の出どころは李平の腹心の苟安です」
「ぐぬぬ……」
「余を失脚させる好機とでも思ったか? 馬鹿め。罠に嵌ったのは貴様だ。
――ついでに来敏。貴様は噂を積極的に広めたそうだな」
「んぐっ! いや、それはその……。
丞相ならばやりかねないと、そのくらいは言ったかもしれんが……」
「李平、苟安、来敏を殺せ」
「はいです。殺すです」
「れ、例によってお待ちください!
苟安はともかく李平も来敏殿も、先帝(劉備)が厚く信頼した人物です。
これまでの功績を鑑み、死罪だけはなにとぞ考え改めください!」
「また貴様か。減刑ばかり嘆願しおって、後世で人格者と褒められたいのか?
無駄だ。貴様はただのむむむ男だ」
「む……むむむ……」
「諸葛亮、わしからも頼むよ。
しょっちゅう顔を合わせてたこいつらが殺されたら目覚めが悪いじゃん。
それに玉座の間を汚されても困るし」
「フン。李恢はどうでもいいとして、皇帝陛下サマに頼まれては否とは言えぬな。
李平、来敏は平民に落とす。苟安は殺せ」
「はいです。殺してくるです」
「ちきしょう……」
「わ、わしの老後設計が……」
「--・-・・・----・・・・---・-・・・・・-・・・・・-(自業自得)」
~~~蜀 成都~~~
「苟安はとっくに逃げてたです。魏にでも降ったみたいです」
「そんな小者はどうでもよい」
「あと帰ってくる途中に李恢にこれを渡されたです。辞職願です。
胃が溶けて無くなる前に辞めたいそうです」
「好きにしろ」
「まったく、なんで私がこんな
使いっ走りのようなことをさせられなければならんのだ……。
こうしている間にも私の偉大なる頭脳が浪費され――あ、丞相!
ご、ご報告に上がりました!」
「李恢の辞職なら聞いた。消えろ」
「へ? 李恢殿が辞職?
い、いえ。私が報告に上がったのは、関興が亡くなったという――」
「そうか。消えろ」
「は、はあ。失礼いたしました!」
「いや、待て。ちょうどいい。李恢の後任は貴様だ」
「――――え?
わ、私が、あの、李恢殿の代わりに、丞相の、直属の側近に!?」
「李恢の代わりなど誰でも務まる。やれ」
「かしこまりました! み、見たか!
丞相は私の卓越した頭脳を買ってらしたのだ! うははははは!!」
「すごい浮かれようです。まるで馬謖二世です」
「フン。馬謖よりはマシだ。
そんなことよりも第五次北伐の準備を手配しろ」
「はいです。
……あれ? です。これは楊儀の仕事です」
「連れ戻してこい」
「はいです。首に縄かけて引きずってくるです」
~~~~~~~~~
かくして諸葛亮は成都に巣食う病原を排除した。
一方で若武者たちを失い、蜀の戦力はさらに落ちていく。
その頃、呉が虎視眈々と魏の隙を窺っていた。
次回 一〇五 合肥新城の戦い




