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第十一話(終) ふたりの再スタート

 日曜日の朝

初夏の澄み渡る青空の下、約束の場所にやってきた真治は、

車から降りてきた美咲の姿を見て思わず息をのんだ。

 そこにいたのは、派手なリリさんの衣装でもなければ、

ここ最近、自宅でエプロンを着けて

家事に追われていた妻の姿でもなかった。

 淡いサックスブルーのシンプルなワンピース。

風になびく黒髪。

 それは、数年前――

ふたりが初めてデートをした日に美咲が着ていた服と、

驚くほどよく似た装いだった。


「……美咲」

「なに? 変かしら」

「ううん、全然! すごく……すごく、かわいい」

真治は顔を真っ赤にして頭を掻いた。

 かつて「リリさん」を相手に、自信満々で

キザな言葉を囁いていた男の面影は微塵もない。

 まるで甘酸っぱい初恋に照れる、

恋に奥手な男子高校生のようだった。


 車を走らせ、たどり着いたのはあの思い出の海岸。

以前「リリさん」を誘ってドライブに訪れ、

そして先日の日曜日には、衝撃のネタバラシによって

真治が砂浜に崩れ落ちた、

いわばふたりにとって因縁の場所だ。


 けれど、今日波打ち際を歩くふたりの間に、

あの重苦しい空気や刺々しさはもうなかった。

潮風が心地よく吹き抜け、

美咲のワンピースの裾を揺らしている。


 波音を聞きながらしばらく無言で歩いていた真治だったが、

ふと立ち止まると、意を決したように大きく深呼吸をした。

そして緊張でガチガチになった面持ちで美咲に向き直り、

深々と頭を下げた。


「あのさ、美咲……。

身勝手なのは分かってるんだけど…

…僕と、もう一度デートしてくれませんか?」


「……もう一度?」


 美咲が首をかしげると、真治は真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。

その瞳には、かつて指輪を隠して浮気に走ろうとした

愚かな男の影はなく、ただひたすらに目の前の女性を愛おしむ

純粋な光が宿っていた。


「僕、君のこと…

…もう一度最初から追いかけたいんだ。

バカな真似をして、傷つけて、

本当に取り返しのつかないことをした。

でも……僕が愛しているのは、

昔も今もこれからも、世界で美咲だけなんだ」


 一世一代の告白。

かつて結婚指輪を外し、偽りの恋に酔いしれていた夫が、

今度はすべてを曝け出して、泥臭く自分を求めている。


 美咲はしばらく無言で真治を見つめていたが、

やがて呆れたような、

けれど溢れんばかりの愛おしさを込めた微笑みを浮かべた。


「いいわよ…。

でも、リリさんじゃなくて『美咲』としてね?」


「もちろん! 当たり前だよ!」


 真治は心底ホッとしたように顔をほころばせ、

美咲の手をギュッと握りしめた。

その手は少し汗ばんでいて、

けれど結婚前のあの頃と変わらない確かな温もりがあった。


「ここから、また始めよう」


真治の爽やかな言葉に、美咲も小さく頷く。

すれ違い、偽り、遠回りをしてしまったけれど

――この愚かで愛おしい夫と、

もう一度恋を始めるのも悪くない。


 そう思いながら、美咲は握り返した手に力を込めた。



「……で、美咲」

海岸沿いを仲良く手を繋いで歩きながら、

真治がどこか誇らしげな顔で口を開く。


「僕、今日のために特別にレストランを予約してあるんだ!

ほら、前に行ったあのレストラン『深淵』…

…覚えているだろ?

あそこのランチコースを予約したんだよ!」


 反省期間を乗り越え、無事に許してもらえたことで

調子を取り戻したのか、少しカッコつけようとする夫。

 その現金な様子に、美咲はクスクスと笑いながら、

ふと思い出したように一言付け加えた。


「あら、嬉しい。……あ、そういえば真治」

「ん? なに?」

「あの店の個室、ふたつ予約しなくて大丈夫?」

「………………」


 脳裏をよぎったのは、あの「ダブル・ディナー」の記憶だ。

同一人物だと確かめるために妻と浮気相手を同時に呼び出したあの夜。


「あ、いや……あれは……っ」

冷や汗をダラダラと流す真治だったが、ふと我に返り、

情けない顔で美咲を見つめ返した。


「……ていうか美咲。

あの時…あのディナーの時に

『実は私がリリだよ』

ってバラしてくれてたら、僕だってあんな

『離婚してくれ』

なんてバカな告白をしなくて済んだのに!

なんであの時、

わざわざ部屋を行き来してまで僕をハメたんだよぉ…!」


情けない声で「そこまでしなくても……」と訴えかける夫に、

美咲はくすっと意地悪く微笑んだ。


「だって……徹底的に反省させないと、また同じことするでしょ?」

「うぐっ……! す、すみませんでしたぁぁっ!!」


ぐうの音も出なくなった真治は、ついに耐えかねたように砂浜へ崩れ落ちた。


青空の下、海岸に響き渡る夫の情けない叫び。

美咲は今度こそお腹を抱えて、声をあげて笑った。


愚かで、愛おしい、世界でたった一人の夫。

さざ波の音と美咲の笑い声に包まれながら、

ふたりの新しい物語が、いま静かに始まった。



(完)

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます

途中行き詰まる時もありましたが、一人でも読んでくださっている方が

いらっしゃったので最後まで書き上がることができました。

少しでも「面白かった」「読んでよかった」と思っていただけましたら、

作品ページ下部にある

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