It's a fantasy and wonderful life!
最終話「素晴らしきかな!ファンタジー人生」
ヤクシの図書館。
地上の書架に、新しい本が一冊並んでいた。
『エレノア・レーンの記録——もう一つの建国史』
翻訳:矢島タカシ
監修:クミスティーナ・ジョーダン、エメラルド・ヨーク
製本はジャックがやってくれた。鍛冶師の手は繊細な作業にも向いているらしい。革の表紙に、角ばった文字で——ドワーフの石文字で——タイトルが彫り込まれている。
「いい出来じゃねえか」
ジャックが本を手に取った。ページをめくる。翻訳の中に、ドワーフの石文字に関する章がある。エレノアが記録した石文字の特徴。角ばっていて、美しい文字。
「……じいさん」
ジャックが本を抱えるように持った。目が赤い。
「じいさんの言葉が、本になった。図書館に並んでる。……誰でも読める」
「泣くなよ、ジャック」
「泣いてねえ。汗だ」
「目から出る汗は涙って言うんだぞ」
「うるせえ!」
ジャックが鼻をすすった。
「いい本が入ったじゃない」
ベティが書架の横に立っていた。酒瓶片手に。今日は復活している。
「あんたの翻訳、なかなかいいわよ。読みやすい」
「読んだのか」
「朝から読んだわ。酒のつまみにちょうどいいのよ、歴史書って」
歴史書を酒のつまみにする奴は初めて見た。
「おい人間!」
図書館の入り口から、聞き覚えのある声がした。果物屋のホビットだ。身長1メートルちょっとの体で、ずかずか入ってくる。
「今日はズボン持ってきたか?」
「だからやらんって。もうGパン売ったの忘れたのか」
「いやいや、あんたが次に何持ってくるかなと思ってな。ローブか? ローブなら買うぞ」
「なぜ俺を脱がせようとする」
ホビットがげらげら笑って去っていった。こいつはいつもこうだ。
「ねえタカシ」
ベティが酒瓶を揺らしながら近づいてきた。
「昨日、面白い話を聞いたのよ。ブラウネル長老がね、古い文献を調べてくれてるらしいの。召喚術の逆——帰還の術について」
足が止まった。
「……ブラウネルが?」
「あの人、根は真面目だからね。あんたに借りがあると思ってるんじゃない? まだ見つかってないけど——見つかるかもしれない、って」
帰れるかもしれない。
元の世界に。
「……そっか」
「で、見つかったらどうするの?」
ベティが俺の目を見た。あの真剣な目だ。
「帰るの?」
俺は少し考えた。少しだけ。
「……まだ教えてないことが山ほどあるからな」
「は?」
「関係代名詞。仮定法。現在完了進行形。あとTOEICの対策?」
「何言ってんのあんた」
「英語の先生の仕事はまだ終わってないってことだよ」
ベティがぽかんとして、それから笑った。声を出して笑った。
「……あんた、最高ね」
図書館を出ると、外でクミとエミリーが待っていた。
「おっそーい。何してたの」
「ベティと話してた」
「また!?」
ツインテール、微振動。通常運転だ。
「ねえタカシ。ベティに何か聞いた?」
「……ブラウネルが帰還の術を調べてるって話か?」
クミの表情が変わった。
「……知ってたんだ」
「今聞いた。で、お前らは知ってたのか」
「……ブラウネル長老がエミリーに伝えたんだよ。昨日」
エミリーが申し訳なさそうに俺を見た。
「お伝えしようか迷っていたんですの。タカシさんが……帰りたいと言ったら、止められないと思って」
「……」
「で、帰るの?」
クミが聞いた。声が少し震えている。ツインテールがぴんと立っている。
「帰らねーよ」
「え」
「まだ仮定法も教えてないのに帰れるか。"If I went home, I would miss your terrible English."——もし帰ったら、お前らのひどい英語が恋しくなる。ほら、仮定法」
「ひどいって何!!」
「冗談だよ。ひどくない。めちゃくちゃ上手くなった」
クミが口をぱくぱくさせている。
「べ、別にあんたに残ってほしいとか思ってないからね!」
ツインテール全開。涙目。思いっきり思ってるだろ。
「紅茶のハーブ抜き、もう慣れましたし。ずっと淹れて差し上げますわよ」
エミリーがにこにこしている。目元が赤い。
「あたしんちにも遊びに来なさいよ。今度こそ一杯やりましょ」
いつの間にかベティが後ろにいた。酒瓶を掲げている。
「……ありがとう」
俺は——たぶん、笑っていたと思う。
三人で帰り道を歩いた。ベティは途中で「じゃあね〜」と手を振って自分の家の方に消えた。
夕暮れの野原。緑の草が風に揺れている。遠くに山が見える。空がオレンジから紫に変わっていく。
この風景も、もうすっかり見慣れた。
クミが鼻歌を歌い始めた。
あの子守歌だ。
意味のわからない、でも綺麗な旋律。エルフの言葉の、最後の欠片。
エミリーがそっと合わせた。二人の声が重なる。ハモるというより、溶け合う。歌の言葉だから——旋律が自然に二つの声を結びつける。
二人の歌声が、夕暮れの野原に響いていた。
俺はその歌を聴きながら歩いた。
まいったなあ。
非常にまいった。
まさか自分が、異世界に残るなんて思いもしなかった。
バイトの英語講師が、エルフに英語を教えて、数百年前の日記を翻訳して、失われた言語の歴史を掘り起こす。誰が予想する? こんな人生。
でも、目の前には——土下座じゃなくて、笑ってる二人のエルフがいる。
片方はツンデレで、片方はおっとりで、どっちも英語がまだまだで。
悪くない。
全然、悪くない。
「お前ら」
「ん?」
「なんですの?」
「次の授業は過去完了な。めちゃくちゃ難しいぞ」
「はいはい!」
「はいですわ!」
しまらない返事が二つ、夕暮れの野原に響いた。
でも——最初に聞いた時とは、全然違って聞こえた。
歌はまだ続いている。
授業も、まだ続く。
It's a fantasy and wonderful life.
---
(了)




