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第五十七話 淡路

鋼鉄の盾を手に、焙烙火矢へ備えた源氏の水軍。


どこまで毛利を押し返せるのか。

淡路への道は、開けるのか。


――義経の軍が干上がるまで、あと数日。

毛利の船から、次々と焙烙火矢が放たれた。


空を覆うように飛来する火を見上げ、赤井輝子が叫ぶ。


「盾を上げなッ!」


兵たちが、一斉に鋼鉄の盾を掲げた。


直後――

轟音とともに、焙烙が炸裂する。


火の粉と破片が、雨のように甲板へ降り注いだ。

鋼鉄の盾が、激しく鳴る。


「ぐっ……!」


盾を構えた兵が、衝撃に押されてよろめいた。

一人では支えきれず、後ろの兵がその背を押す。


それでも――倒れない。


これまでならば、焙烙が飛んでくるたび、兵たちは甲板へ伏せるほかなかった。

鉄砲隊も、大筒を扱う兵も。

そして何より、船を進める漕ぎ手たちも。


だが、今は違う。


「鉄砲隊!」


盾の陰から、鉄砲が一斉に突き出された。


「放てッ!」


銃声が、海上を揺らす。

迫っていた毛利の小早から、何人もの兵が海へ落ちた。


「怯むんじゃないよ!

次を込めな!」


甲板の中央に、鋼鉄に覆われた武者が立っている。


南蛮より運ばれ、堺の蔵で埃をかぶっていた西洋騎士の鎧。

それを身にまとった、赤井輝子であった。


「輝子様!

危のうございます、お伏せくだされ!」


「この鎧で伏せたら、二度と起き上がれないんだよ!」


「……!」


「構うんじゃない!

前へ出しな!」


再び、焙烙が炸裂した。


破片が輝子の鎧を叩く。

甲高い音が響き、身体がわずかに揺れた。


それでも、一歩も退かない。


「この程度で死ぬようなら、こんな重たいもん着た甲斐がないだろ!」


挿絵(By みてみん)


「……輝子殿らしいのう」


隣の船から、その姿を見ていた大内義興が、思わず苦笑した。


だが、その表情はすぐに引き締まる。


「来るぞ!

右舷じゃ!」


鉄砲隊が一斉に右を向く。

先の斉射を逃れた小早が、猛烈な勢いで迫っていた。


「撃ちな!」


先頭の一艘が、大きく揺れる。


だが、その後ろから、さらに二艘。

三艘。


「まだ来るのかい……!」


装填が間に合わない。

毛利の兵が声を上げ、鉤縄を振り回した。


「柳生!」


輝子の声が飛ぶ。


別の源氏船が、輝子の船の脇から飛び出した。

船首には、鋼鉄の盾を構えた柳生の兵が並んでいる。


矢が飛ぶ。

鉄砲が鳴る。


鋼鉄の盾が、火花を散らした。

一人が倒れる。

それでも、後ろから別の兵が、その盾を拾った。


「寄せろ!」


二艘が、激しくぶつかる。


「今じゃ!

盾を捨てよ!」


柳生の兵たちは、重い盾を甲板へ投げ捨てた。


刀を抜く。

そして一斉に、毛利の船へ飛び移った。


「おおおおおっ!」


たちまち、船上で斬り合いが始まる。


挿絵(By みてみん)


以前とは違った。


これまでの戦では、小早に群がられ、弱った味方を守るだけで精一杯であった。

柳生を敵船へ送り込むどころではない。


だが、今日は――。


「押しておりまする、輝子様」


大祝鶴が声を上げた。


「明らかに、前へ出ております!」


義興も、その様子を凝視している。


前方に布陣していた毛利の大船が、じりじりと距離を取っていた。

源氏の大筒と鉄砲の射程を、嫌っているのだ。


「大筒――!」


輝子が腕を振り上げる。


「撃てぇッ!」


轟音が鳴り、海面に巨大な水柱が立った。

毛利の大船が舵を切り、さらに後ろへ下がる。


「退いたぞ!」

「毛利が退くぞ!」


源氏の船から、歓声が上がった。


「進みな!

淡路まで押し込むんだよ!」


輝子が叫ぶ。

船団が、さらに前へ出た。


***


だが――。


一刻、また一刻と戦い続けるうちに、兵たちの顔から笑みが消えていった。


「また来ます!」


毛利の小早である。

一艘を沈めても、また一艘。


「……いったい、何艘いるんだい」


輝子が、息を切らせた。


西洋の甲冑は、すでに煤で黒く汚れている。

肩には焙烙の破片が当たった跡が残り、鉄板の一部がへこんでいた。


鋼鉄の盾も、同じである。

矢が刺さり、焦げ、へこみ――

もはや原形を留めぬものまであった。


そして、盾が守れるのは、あくまで兵である。

船までは、守れない。


「火じゃァ――!」


後方で、声が上がった。


一艘の帆に、火が回っている。

別の船では、漕ぎ手が幾人も倒れ、船脚を失っていた。


そこへ、毛利の小早が群がっていく。


「救援を!」


「待て!」


義興が止めた。


「すでに二艘、向かっておる!

これ以上、船を割くな!」


「なれど――!」


「分かっておる!」


義興は、歯を食いしばった。


一艘を救うために、二艘が戦列を離れる。

その二艘を守るため、さらに別の船が動く。


そうなれば――

また別の船が、毛利の矛先となる。

それを、また守る。


前へ進めなくなる。


これまでと、同じであった。

違うのは、以前よりも少しだけ、前で戦えていることだけ。


「……遠いの」


義興が呟いた。


視線の先。

霞んだ海の向こうに、淡路が見えている。


確かに、近づいている。


だが――

あまりにも、遠かった。


***


その時であった。


「……待ちな」


輝子が声を上げた。

西洋兜の面頬を上げ、目を細める。


毛利の船の動きが、変わっていた。


「義興殿!」


鶴も気づいた。


「毛利の船が……!」


一艘。二艘。

さらに、その後ろにいた数艘。


戦列から、離れていく。


「退いておる……?」

「今度こそ、押したぞ!」


誰かが叫んだ。


「一気に淡路まで――!」


船上に、再び歓声が戻る。


だが義興は、黙っていた。

その目が、離れていく船を追う。


北へ、向かっている。


「……尼崎」


「え?」


輝子が振り返った。


「信長殿じゃ」


義興の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「信長殿が……尼崎を、奪ったのじゃ」


石山本願寺への海路は、毛利にとって失うことのできぬ道である。

尼崎を押さえられて、放っておけるはずがない。


この海に集めた船の一部を、北へ回さざるを得なくなったのだ。


「はっはっは!」


輝子が笑った。


「やってくれたじゃないか、信長殿!」


そして刀を抜き、淡路を指す。


「なら、好機だよ!

一気に――」


「なりませぬ」


鶴が、遮った。


輝子の動きが、止まる。


「……何だって?」


「退きましょう……」


しばし、誰も言葉を発しなかった。


「鶴姫……」


輝子の声が、低くなる。


「敵が退いてるんだよ」


「ええ」


「淡路は、もう目の前じゃないか!」


鶴は、静かに頷いた。


「ならば、なぜだい!」


鶴は答えず、周囲を見渡した。


挿絵(By みてみん)


燃えている船。

曳かれてゆく船。

折れた櫓。

血に染まった甲板。

座り込み、肩で息をする柳生の兵たち。


そして――

今なお、海上を埋め尽くす毛利の船。


尼崎へ向かったのは、その一部に過ぎない。


「……今ならば、帰れまする」


輝子の顔から、笑みが消えた。


「敵が退いた、今ならば」


「……」


「ここから先へ進めば――我らも、戻れませぬ」


義興も、口を挟んだ。

そして、淡路を見る。


「確かに――先の戦よりは、進み申した」


輝子へ、目を戻す。


「盾も役に立った。

柳生も、敵船へ乗り込めた。

我らの大筒を恐れ、毛利の大船も退いた」


「ならば――!」


「されど」


義興の声が、強くなった。


「この戦い……毛利は、負けておらぬ!」


輝子が、黙る。


「今日、ここを押した。

明日、また押す。

明後日、さらに押す」


義興は、淡路を指した。


「そうすれば――いつかは、届くやもしれませぬ」


拳を、握る。


――その"いつか"では、遅いんだ。


誰もが、そう思った。


波の音だけが、聞こえていた。


輝子が、淡路を見る。


「……あと少し、じゃないか」


その声は、先ほどまでとは違っていた。

鶴や義興への反論では、なかった。


輝子は、しばらく動かなかった。


やがて――

ゆっくりと、刀を下ろす。


「……全軍」


誰もが、輝子を見た。


「反転」


絞り出すような声であった。


「手負いの者を拾いな。

動けない船は、曳け。


……一人でも多く、岸和田へ連れて帰るんだよ」


源氏の船が、一艘、また一艘と向きを変えていく。


毛利は、追ってこなかった。


いや――

追う必要が、なかった。


淡路への道は、今日も開かなかったのだから。


煤にまみれた西洋甲冑のまま、輝子は船尾に立っていた。


遠ざかっていく淡路を、いつまでも見つめている。


戦えた。

押し返した。

昨日まで届かなかった場所まで、今日は進めた。


それでも――。


間に合わない。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


戦えました。

押し返しました。

昨日まで届かなかった場所まで、今日は進みました。


それでも――間に合いません。


雑賀から届いた物資も、尽きようとしています。


この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。

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