渇望溺死
1
地面を見下ろす。
そこにはなにもない。
ただの黒いコンクリート、それだけ。
寒い。
もう冬がそこまで来ているのは知っていた。
知っていたから。
だから、ジャンバーぐらいは着てきたかった。
せめて、パジャマぐらいは着ていたかった。
体の震えは止まらない。
それは、隣にいる兄も同じみたいだ。
知らない人に、声をかけられる。
寒くないのかい、大丈夫かい、と
その声に私は答えない。
だって、なんて答えたらいいかわからないから。
「ねぇ、空が綺麗だよ。」
兄がささやく。
だから私は空を見上げる。
そこには、冷たい月と小さな星が、ただ静かに、そこにあった。[newpage]
2
暗い。
熱い。
狭い。
だから嫌。
でも、そんなのよりも。
隣にいない。
兄がいない。
ただそれだけが。
とても嫌。
一人は、嫌。
独りは、嫌。
それが一番、嫌。
止まらない嗚咽と、止まらない涙。
「大丈夫、僕はここにいるから。」
上から聞こえるその声。
まだしばらくは、泣きやめないけど。
その声だけが救いだった。[newpage]
3
朝が来た。
目をこすりながら、枕元を見る。
そこには、何も無い。
私は、クマのぬいぐるみが欲しかった。
今まで、この日にプレゼントをもらったことは無かった。
でも。
今年こそは。
もらえると思って期待したのに。
だって、がんばったから。
がんばって、いい子にしてたから。
今年はいい子にしてたから。
だから、もらえたはずなのに。
プレゼントをもらえたはずなのに。
がんばったから、認められるはずなのに。
頑張った人は認められなきゃいけないはずのに。[newpage]
4
お客さんが帰ってから、私たちは下に呼ばれた。
リビングに呼ばれた。
いつもの通りに。
いつもの通りに、フローリングに正座する。
兄と二人で。
並びあって。
お母さんは、泣いていた。
お父さんが、怒鳴っていた。
あんたたちのせいで。
お母さんの第一声はそれだった。
その後は、もう憶えていない。
だって。
言葉よりも、痛みの方が刻まれたから。
私の記憶と、私の体に。
私たちは何もしていないのに。
どうして今日も、殴られたのだろう。[newpage]
5
今日もまた、お客さんが来て、帰っていった。
そしてその後、私たちは床に転がる。
涙を流しながら、床に転がる。
もう、どこが痛いのかわからない。
体が痛いのか、心が痛いのか。
そんなことさえわからない。
でも。
もっと分からないことは。
お客さんが帰った後に繰り返されるこの時間に。
お母さんが口走る、「セケンテイ」って言葉の意味だ。
何度言われてもわからない。
だって。
私たちは「セケンテイ」を見たことがなかったからだ。[newpage]
6
冷たい雨が降り続く日曜日。
私たちは外にいた。
雨は容赦なく、私たちを濡らしていく。
早くお家に入りたい。
そのことだけで、頭がいっぱい。
そのことを考えるだけで、涙が出る。
嗚咽が出る。
私は、簡単に泣いてしまう。
泣けてしまう。
なのに。
なのにどうして。
兄は泣かないのか。
私には分からない。
兄がどうして泣けないのかが。[newpage]
7
目が醒めても、雨は降っていた。
でも。
雨が体をぬらすことは無かった。
兄が。
兄が傘を持っていた。
そして、バスタオルを持っていた。
どうして持っていたのか訊ねても。
兄は答えてくれなかった。
でも。
「もしかしたら僕たちは助かるかもしれない。」
そうとだけは、言っていた。
兄の言葉はいつも本当で。
兄の言葉はいつも正しくて。
だから。
だから、私は期待を抱く。
いつか。
いつか、ここから二人で抜け出せるんだと。[newpage]
8
兄の言葉は本当だった。
ある意味では、助かったと言えるだろう。
だって。
私たちを虐げた、お父さんとお母さんはいなくなったから。
でも。
兄がいない。
お父さんとお母さんの死体の前で。
私は見た。
確かに見た。
兄がここから出て行くのを。
知らない人に手を引かれ。
私も一緒に行きたかった。
でも。
行けなかった。
体が、動かなかったんだ。
何でかは知らない。
分からない。
でも。
兄が男の人とどこかへ行った。
それだけは確かで。
ソレだけが確かで。
私だけがここに残されたわけで。
ねぇ。
どうして。
どうして、私だけが。
いつも救われないのだろうか。
夜久斗の、うそつき。




