パリの沈黙
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
一日ほどで駆け抜けてきた、パリからヴァレンヌ。
その距離を戻るのにだらだらと三日もかかったのは、あたしたちの馬車にヴァレンヌに集まってきた大群衆が、そのままぞろぞろとくっついてきたからだ。歓声とも罵声ともつかぬ声を上げながら。
あたしたちの馬車に同乗してきた、例の三議員は民衆を止めようとしなかった。
理解はできる。怒りをぶつける対象が目の前にいるのだ、下手な止め方をしたら彼ら自身もその対象になりかねない。ならば解散すら命じず飽きるまでついてこさせたほうがマシということは。
下卑た語彙を羅列してのあたしの人格攻撃は……まあいつものことだ。けれどあたしが心中驚いていたのは、ルイくんへの直接的な罵倒の多さだった。
基本、ルイくんへの感情というのは、それほどこれまで悪い物ではなかった。困った王様ではあっても、それでもあいかわらず――いや、フランスというナショナルアイデンティティーを獲得した今のフランス国民にとってはなおのこと――フランスというものそのものの化身でもある、国王という概念はけっして粗末には扱えないはずのものだったのだ。
それが、今、踏み躙られつつある。
ただ、追従者にはあたしたちに敵意を向ける者しかいなかったわけではない。
護送の道中、あたしたちの馬車に伴走してきた貴族がいた。身なりからして伯爵あたりだろうか。どうやらシャロン近隣にでも所領のある貴族でもあったらしい。
身構える三議員をまるっと無視して、彼はルイくんへ丁重な礼をした。馬上からできる最敬礼だ。
これにはルイくんも笑顔で答礼した。
なにせ、ルイくんとしては、これまで国王として庇護してやっていたはずの民から悪意をぶつけられ続けていたのだ。トレードマークのような茫洋とした無表情もどんどん固くなっていたところを見れば、だいぶへこたれていたのだろうとは思う。滅多なことでは見られないような、晴れやかな顔になったのも当然だろう。
だが、罵声に捕まえられたように彼の姿が後ろに流れたと思った、その直後だった。
一発の銃声があたしたちの耳を撃ち抜いたのは。
……まさか。
あたしは反射的に後ろを見やった。
しかし車体そのものが、そして壁のような群衆が何もかも覆い隠し、何も見えなかった。
……惨劇を子どもたちは理解できなかったようだ。あたしはその方がいいとすら思った。
だけどこれは、もうフランスにあたしたちの望む未来はない、はっきりとそう思い知らされる出来事だった。
それでもまだ、国境近くでは好意的な権力者が多かったらしい。
夜も遅くなって辿りついたシャロンでは、地元の名士らが豪華な夕食でもてなしてくれた。彼らが差し出してくれた好意には、逃走の手引きすらあったのだ。
けれど十重二十重に屋敷の外を取り囲む、怒り狂った群衆の前に脱出の可能性はなかった。滞在を引き延ばして頃合いを見ようにも、すぐさまパリに向けて立たねば何をされるかわからない。
翌朝には出発せざるを得なかった。
かんかんと日が照りつけ、馬車の中はむしむしと息苦しいほどだった。ぎゅう詰めにされて立ち上る体臭と香水の暴力は、鈍感になったあたしの鼻でさえも打ちのめす。
耐えきれずに窓を開けた途端、罵声が黒く巨大な悪意の塊となって雪崩れ込んできた。
敵意は群衆ばかりから向けられた訳ではない。
侍女たちを別の馬車に乗せてまで割り込んできた議員たちは、当然というべきか敵対的だったし、パリに近づけば近づくほど、それは土地の有力者にもそれは及んだ。
モーのあたりからは宿駅に着くたび町長がわざわざ嫌がらせの挨拶にくるようになり、ルイくんは繰り返し国外に逃げる気はなかったとやんわり釈明はしていたが、誰も信じてはいなかったろう。
この状況をあたしは看過していたわけではない。悪意が害意に、そして殺意に変わる前に早いところ手を打たねばそれこそ命にかかわるだろうと思えばなおのこと。
もちろん、悪意は向けられている側は解こうとしてもかなり難しい。だが感情や印象は塗り替えることが不可能ではないものだし、そうするには遠くの群衆よりより手近な個人の方がやりやすい。
だから、あたしはひそかに三議員へと神経を尖らせていた。
まずはさらなる悪意を招かぬこと。
最初に顔を合わせた時、そして伯爵の殺害――シャロンで、群衆に射殺されたのは、ランピエール伯だったと聞いた――には、三人とも冷淡な反応を見せていた。とりわけバルナーヴという青年ははっきりと口を歪めさえした。
……既得権益の上にあぐらをかいた貴族に対する敵意は、国民議会の議員に共通する感情だ。だけどバルナーヴのそれにはどこか個人的な復讐にも似た感じがした。
だから、あたしはそれ以上何も言わなかったし、伯爵の射殺にも咄嗟に、『伯爵だから殺されたことに心を痛める』のではなく、『国民が国民に殺されたことを嘆いた』ようにとりつくろった。
どこまでそれが彼の心に届いたかはわからない。むしろ彼の気持ちを変えたのは、ルイくんがルイ=ジョセフのおしっこを手伝ってやる姿だったかもしれない。
平民でも、王家でも、子どもに対する親の情は、親に対する子の思いは変わりはしない。
そこをとっかかりにしたとたんに彼はみるみる心をほどいた。オーストリア女と悪の権化のごとくパンフレットで叩かれていた赤字夫人としか見ていなかったあたしも、めそめそと泣き言を言うエリザベートちゃんをなだめ、声をかけ続け、気を取り直させているさまを見れば、思っていたより悪女には思えなくなった、などとぼそりと、一人言ともつかぬ言葉を吐き出しさえもした。
聞こえよがしな一人言には聞かぬ振り、あるいは間に侍女を挟めて直答を許さないという対応をするのがヴェルサイユならば正しい対応。
だけどあたしは直接反応を返した。
そこからうまく会話を繋げれば、彼の中のあたしは、人の話に真摯に耳を傾ける魅力的な女性にみるみる塗り変わったらしい。まさかフェルセン侯子のような色の目を向けられるとは思わなかったが。
バルナーヴの身の上も多少なりとも聞き出した。貴族を彼が憎むのは、少年のころに母親が貴族に侮辱されたことが大きな影を落としていたらしい。
……それが劇場で席を奪われた、というのは想定外だったけど。
けれどあたしは大仰に同情してみせた。あたかも彼の母親が初夜権を無体にも強いられた被害者な乙女でもあるかのように。
これが、あたしの戦い方だ。
あたしは現世のおかあさま、為政者マリア=テレジアの血を感じる。彼女もまた『人を指に巻く』――たやすく人を手玉に取ることのできる、人心収攬能力の高い人間だった。
いくらしょっちゅう手紙で叱責だのしつけだのをされねばなんともならないできそこない扱いされてはきていても、あたしだってその女帝のやり口はいくぶんなりとも見て育ってきたのだ。
そうとも、いくら悪評があろうとも、塗り替えることはあたしにだってできる。
しかしその自負も、ぺしゃんこに潰された。
お通夜のような静寂は、パリに戻ってきてからも続いた。
墓石のような冷たく固い沈黙は、テュイルリー宮殿の中にまで敷き詰められていたのだった。
憎しみの沈黙で帰還を迎えられたパリであたしたちは知った。
プロヴァンス伯が自分の妃すら置き去りにして、ベルギーへするっと亡命を果たしていたことを。
……ひょっとしたら、あっちもあたしたちの逃亡を密告していたのかもしれない。
違うのはあたしは計画どまりでためらい、プロヴァンス伯は良心の呵責なく、不利益を周囲になすり着けて自分の利を着実に手に入れたということだろう。
幸いなことに――と言ってもいいのだろう。あたしがこっそり危惧していたような、パリに着いたら即座に牢屋にでもぶちこまれるとか、ギロチン直通にされる、ということはなかった。
群衆に石を投げられることも。
なぜなら、国民議会ってばあたしたちの逃避行を、王党派による国王一家の誘拐劇にしたてあげたのだ。
道すがら膨れあがった民衆が真実を知っているというのに、とんだ三文芝居でしかない。
とはいえ、国民議会にとっても、これは苦肉の策だったのだろう。
立憲君主政確立を目指す以上、国民議会の目指す未来の政治形態において、国王はなくてはならないお飾りなのだ。
ここで下手な泥をつけ、価値を落とすなどとんでもない。
かくしてブイエ将軍は、あたしたちの誘拐実行犯の汚名をなすりつけられた。そのせいだけじゃないとは思うが、彼はとっとと国外に逃げ出したという。
なんだろうねこの役立たずっぷり。
おめおめとパリからヴェルサイユまでやってきた市民が、暴漢として宮殿に乱入してくるまで護衛していた、あのいとこのラファイエットと甲乙付けがたい無能さである。




