第十七章 トルエステの瞳
真っ白な扉を前にナスタは立ち止まり、手櫛で髪をささっと整えた。その粟色の剛毛を前に果たして効果があったかどうかは定かではないが、どうも自分の身なりが気になってしかたがない。それは先輩の騎士たちに冷やかされる理由のためであり、こうも自分の心を乱してしまう原因のため。
つまりは目の前の扉の奥に寝静まる少女のせいなのだが。
落ち着きなく騎士服の襟を正し、ナスタはコホンと咳を一つして喉の調子を整えると、扉を二回ほどノックした。
「杏奈。入ってもいい?」
中からクスクス、と忍び笑いのような声が聞こえてくる。何か失敗をしただろうかと顔に熱が集まりだしたナスタだが、「どうぞ」とどこまでも透明な彼女の声が聞こえ、ほっとしながら金のドアノブに手をかけた。
「失礼」
扉を開けると、まるで別世界のような淀みのない清浄な空気と少しばかり鼻につく薬品の臭いが漂い、それがこの部屋が病室であることを告げていた。真っ白なシーツの上に上半身だけを起こした漆黒の少女は、異国の服装に身を包みながら、にっこりと花開く笑顔でナスタを出迎える。それにナスタはほっと安堵の息を吐くと共に顔に血が上るのを自覚した。
顔を真っ赤にしてうろたえるナスタに、侍女たちはまたも忍び笑いを再開した。何とか誤魔化せないものかと、頭を掻きながらナスタは杏奈に曖昧な笑みを向ける。
「やあ。具合のほうはどう? 少しは良くなった?」
「大分いいですよー。もう、歩きまわってもいいぐらいなんですけど」
「だめですよ。気力のほうは良くなりましても体はまだ万全じゃないんです。ちゃんとご静養なさいませ」
まだ十五にもなっていないだろう年若い侍女が笑いを潜めてから眉を少し釣り上げて、杏奈を叱咤する。彼女に仕える侍女は三人ほど。しかしどれも彼女とそう年の変わらない新人ばかり。
それも、すべては杏奈がディアートという特殊な存在だからなのだが。
ベテランの侍女たちからは敬遠され押しつけられた形の仕事に、最初は怯え戸惑っていた年若い侍女たちも、今ではすっかり杏奈に懐いている。それも彼女の太陽のように周囲を温かな気持ちにさせる雰囲気のなせる業なのだろう。ナスタは一人頷いた。
「そうですよ。杏奈様は少し自重なさってください。聞いてくださいまし、ナスタ様。実は杏奈様ったら、昨夜夜中にお部屋を抜け出して、城内を歩きまわっていらしたんですよ」
「まったくはしたない。見張りは一体何をやっていたんですかね。まあ、途中で衛兵に捕まったらしいですけど。で、そのとき理由を聞かれましたところ」
「だって、お腹が空いたんだもの――だそうです。なんとその手にはパンケーキが」
それに三人は顔を見合わせぷっと吹き出し、笑い出した。その中心の杏奈は、あはは、と渇いた笑いを浮かべながら目を泳がせる。
胸に燻ぶる感情も忘れ、ナスタは呆れたように杏奈を見た。
「それ、本当?」
「え、あ、まあ。確かに真実はいつも一つですけど、事実はやや曲解されることがなきにしもあらずなのです」
「なにそれ。曲解って?」
「パンケーキじゃなくてパンロールですよ」
がく、と肩を落としたナスタ。侍女はお腹を抑えて辛そうだ。もしかしたら笑いで彼女たちの恐怖を取り除いたのではないかとナスタは疑いを抱く。
「えっと、本題に入っていいか」
「あ、はい。ありがとうございます。お見舞いの品ですね」
いや、違うけど。と思いつつ、確かにそれも本命の一つではあるので、手に持った手提げを侍女に渡した。果物を盛り合わせたそれに、わあと侍女は驚きの声を上げる。
「すごいですよ、杏奈様。見てください。アリマ。エルモ。ピエロギまであります」
「いや、こっちの果物の名前はわかんないんだけど」
「ふふ。ナスタ様が奮発なさってくださったってことですよ」
きゃきゃ、と騒ぐ侍女たちに、これでは恐らく話も落ち着いてできまいと確信したナスタは一つ咳払い。それでぴたっと声を収めて姿勢を正しナスタの言葉を伺おうとするその行為は、一応教育が施されている証拠なのだろう。ナスタは、ああ、と言いにくそうに声を上ずらせてから扉を指差した。
「少し、彼女と話があるんだ。悪いが、席を外してもらっていいかな?」
三人はまたも顔を見合わせると、にまあ、と笑い、
「ええ」
「もちろん」
「言うまでもありません」
そう言うと、とたとた、と部屋の外へと出て行った。前言撤回。教育は不十分だったらしい。何かしらの誤解を受けたこと間違いなしの侍女たちであったが、訂正を申し出るために彼女たちを追いかけるほどの気力は、生憎とナスタにはなかった。女が三人集まれば姦しいとはよく言ったものだ。
驚くほどに静かになった部屋で、杏奈はまっすぐナスタの瞳を見つめている。そこでようやく自分と彼女が二人っきりだという事実を認識して、ナスタはまた顔に血が上るのを感じた。いやいや、落ち着け。相手はまだ年端もいかない子供じゃないか。
「お見舞いだけじゃ、ないんですか?」
首を傾げてさらりと揺れる艶のある黒髪に目を奪われながら、ナスタは首を振った。
「あ、いや。残念だけど、一応今回は任務でね。女王様との謁見の日取りが決まったから、伝えに来たんだ」
「………四日後、でしょ」
「え?」
自分の言葉を先取りされた驚きに、ぽかん、と口を開けるナスタを、杏奈は可笑しそうに笑った。
「あはは。ナスタさん、変な顔」
「わ、笑うんじゃない。い、いや、そんなことじゃなくて。誰かから聞いてた? さっき決まったばかりのはずなんだけど」
「ううん。誰からも。ただ、見えただけ」
「見えた?」
「うん」
杏奈は静かに目を閉じる。思わずどきっと心臓が跳ね上がるナスタだが、間をおかず開かれた瞼に少しがっかりした。『そう』いうことではないらしい。しかし、肩を落とす暇もなく、ナスタはその開かれた右目とその目の周りの紋様に息を呑む。
神秘的な雰囲気さえも漂わせ、杏奈は言葉を紡いだ。
「これが私の、ディアートとしての力。真名は『トルエステの瞳』。能力は、未来の目視」
「……未来の、目視?」
「信じられない? ナスタさんがこの部屋に来るっていうのも、昨日の内に見えたんだけど」
侍女たちの忍び笑いをナスタは思い出した。事前に言っていたのだろうか。けれど多分それは杏奈の力から出たものではなく、ナスタの気持ちを推し量ったものだと彼女たちは考えたのだろう。そうでなかったらあんなに無邪気に笑えるはずがない。
すでに『見えていた』という言葉を否定しようにも、杏奈の眼を前に口を挟むことはできなかった。
「そ、そっか。杏奈は、ディアートだったな」
「戦禍を生む者、だっけ?」
あは、と屈託なく笑う杏奈。化粧のように艶やかに、蒼き紋様は杏奈の右目を彩り、飾り、その肌を染める。額から頬にかけて描かれたその光は、美しいけれど、どこか空恐ろしかった。それはあたかも目の前に神がいるかのようで。
ナスタは一歩、後ずさる。
「本当は、違うんだよ」
「え?」
「本当は私たち、そんな大層な者じゃないんだ。ただの、学生なんだ」
窓の外に視線を移す杏奈。視線の先に映るのは、しかし晴れやかな青空ではなく無骨な灰色の仕切りだった。
「ただの学生に、まるで化け物みたいな扱いだね」
「………俺は、そんなことは」
乾いた喉で呟いた言葉に、杏奈はただ寂しく笑っただけだった。




