九、残香〈上〉
麗殊は落ちつかない心境のまま、おもむろに椅子から立ち上がる。そして、簪を引き抜いて髪を解き、深く息を吐き出す。儀式は身体への負担が大きく、本当に肩が凝るのだ。
「お、終わったんですか?」
儀式を近くで見ていた陶鼓が、おずおずと近寄ってきた。そして、唖然とした様子のまま麗殊に詰め寄る。
「何をするのかずっと気になっていましたけど、まさか降霊を……!?」
「降霊?」
「食事の所作が竹妃様そのもので……まるで、娘娘がそこに居るかのようでした」
たしかに、甜氏の儀式は降霊や霊媒の種類に含まれるのかもしれない。麗殊は食事行為を触媒として、生死を問わず魂身の記憶を見ることができるのだ。
「今のは、私の一族が行う儀式です。竹妃様の記憶を見ました。そのために遺品が必要だったのです」
麗殊は陶鼓を相手に、幻食ついて簡潔に説明する。
この世界では、異能を持つ一族がいるということ自体は一般的な理解のため、陶鼓は度々首を傾げながらも納得してくれたようだった。
「──それで、どんな記憶を見たんだ?」
突然、横槍が降ってくる。そういえば、今回の儀式には他にも観衆がいた。
麗殊は陶鼓から視線を外して、壁際に佇む朔を流し見る。
「喜怒哀楽、様々なものを。具体的な結論はもう少し後に説明いたします」
「結論って、竹妃様が亡くなられた理由が分かったんですか……!?」
朔ではなく陶鼓が驚嘆の声を上げる。
「すみません……まだ調査が必要ですので、もうしばらくお待ちください」
今の段階で言えることはない。たとえ、相手が竹妃と親しい侍女であったとしても、この推測を軽々しく口にしていいものではないだろう。
麗殊は誤魔化すように、陶鼓に尋ねる。
「そういえば、四夫人は他者とは異なる膳を食べることができるとか」
「は、はい。高位の妃は各人のお好み、ご希望に合わせた特別な献立を振る舞われます。それ故に、尚食局の女官たちは頭を悩ませるそうですが」
「じゃあ、竹妃様もご要望を申されたのですか」
「はい」
陶鼓が頷くのを見て、麗殊は箸を皿の上に置き、壁際で静かに控えていた尚食局の宮女に声をかける。小柄でおっとりした雰囲気の娘だが、麗殊よりは幾分か年上に見える。
この娘は終始口を噤んでいたが、怪訝そうな表情は隠しきれていない。麗殊の一連の行動をさぞかし不気味に思っていることだろう。
「この食膳、全体的に酸味を整えたものばかりですが、竹妃様のご意向でしょうか」
「はい。酸味や甘味を感じられるものを食べたいとおっしゃられていましたので」
「それはいつ頃からですか?」
「ひと月ほど前でしょうか。それまでは特にご要望はないとのことだったので、少し驚きました」
「そうでしたか」
麗殊の問いに、宮女はすらすらと答えてくれる。
食から得られるものは出揃った。次は、継ぎ接ぎなこの欠片を縫い繋げなければ。
麗殊が「最後に竹妃の自室を確認したい」と申し出ると、陶鼓が案内してくれた。こちらに対する警戒心が緩んだのか、円滑に事が進む。
竹妃の自室は、麗殊たちが竹枢宮に来て最初に向かったあの房室だった。そこには、華やかな鏡台、戸棚や衝立などの調度品が置かれている。広い寝台には柔らかそうな寝具と温石が置かれていた。
不思議なことに、房室は無臭で残り香はない。
麗殊が目に留めたのは、窓際にある立派な文机だ。儀式で見た三つ目の断片において、竹妃はこの机上で、誰かに向けて思いの丈を述べる文を綴っていたのである。
視線を動かし、陶鼓の様子をうかがう。彼女は朔との会話の最中で、夢中になって耳を傾けている。何を話しているのかは知らないが、朔は"陶鼓の気を逸らしてください"という麗殊の指示を忠実にこなしてくれていることは見て取れた。
──少し後ろめたいけど……あの男と文通をしていたなら、その証拠が残っているかもしれない。
儀式で得られた記憶は己にしか見えないもの。そこから謎を解くためには裏打ちが必要だ。
麗殊はそう思いつつ、文机に何も置かれていないのを確認すると、備えられた引き出しを開く。
硯と筆、文鎮、紙……最低限の文具があるばかりで、麗殊の探しているものは見当たらない。
頭を悩ませていると、ふと、文机の右隣にある書棚が目に入った。五段ほどあるその棚には、主に古典文学や漢詩書などが並べられている。
それは、些細な違和感だった。真ん中の段の一番右側、何も文字が書かれていない青背表紙の本だけが、急いで差し込んだように手前に突き出ているのである。
焼き切れたような紙の切れ端が、表紙の裏から滑り落ちる。桑で出来た黄色の紙だが、その歪んだ隅が黒く焦げている。
これは文のようだった。
"──ことは、知られてはなりません。あなたを想っているからこそ──"
という、一部分だけ識別できる。力強い文字は記憶で見た竹妃の手跡ではない。ならばつまり──。
麗殊はその文を懐に仕舞い、陶鼓に近づいて声をかける。
「陶鼓さん、竹妃様がお亡くなりになる前日やその近辺で、なにかおかしな様子はありませんでしたか? また、竹枢宮への人の出入りなどは」
朔と話していた陶鼓はようやく麗殊に視線を向けた。
「ええと……思い当たることは、先程申し上げた持病の悪化ぐらいです。ここ数日主上のお渡りはないですし、昨日は人の出入りはありませんでした」
陶鼓は悲しげな顔で、ゆるゆると首を横に振った。本当にそれ以上の事を何も知らないように見える。
次は記憶の景色について尋ねてみる。後宮ではないあの場所は、いったいどこだったのか。
「そうですか……竹妃様は山奥にある殿舎にお住いになっていたことはありますか? 梅の木が生えている自然豊かな場所です」
「梅の木……離宮のことでしょうか? 住むというよりも、療養ですね」
「療養?」
「はい。今から三月ほど前に、二十日の間、竹妃様は霞泉宮という離宮へ移っていたのです。ちょうど持病が重い時期で、主上のお心遣いから僧に祈祷をしてもらうことになりました」
陶鼓の言葉を聞き、麗殊ははたと思い出す。
そういえば、雛嬪が竹妃について色々と話してくれていたときに、数ヶ月前に離宮で療養していたとも言っていた。
麗殊はあまり気に止めていなかったが、思い返してみればそれくらいの時期に、四夫人の誰かが郊外に移るという事態があったような気がする。それが竹妃だったのだろう。
「その霞泉宮に、あなたたち侍女や宦官の他に男がいませんでしたか? すらりと背が高く、茶髪をした美丈夫です。私たちが訪れる少し前まで、ここにいらっしゃったようですが」
麗殊は固唾を呑み、思い切って問いかける。
その瞬間、陶鼓の顔色が変わり、目元がぴくりと動いた。麗殊がこれは……と思う間に、陶鼓が問う。
「霞泉宮で療養中の記憶を見たのですか?」
「ええ」
「そうですか……彼は鎖徹という名の大医殿で、先程はお悔やみをいただいたのです。竹妃様の主治医で、療養の旅にもお供してくれました」
「大医……!?」
その答えに、麗殊は咄嗟に朔の方へ視線を向けてしまう。彼は動じることなく、片眉を上げて「鎖徹か」と呟くだけだ。
「……鎖徹殿がどうかしたのですか?」
「いえっ、宦官ではない男の方だったので少し驚いただけで……そうですか、大医だったのですね」
怪訝な表情を浮かべる陶鼓に対して、麗殊は慌てて取り繕う。
そして、胸の内で得心する。療養で離宮に移るならば、そこに主治医が付き添ってもおかしくない。記憶の中で見た男は宦官ではないと思っていたが、大医だったのだ。
──陶鼓のこの反応は、どちらかしら。
鎖徹という大医を話題に出した瞬間、この娘はただならぬ反応を示した。しかし、驚いた様子はあれど焦った様子は見えない。
「あの、これで調査は終わりでしょうか。竹妃様の真相は……」
「いえ、他にも少し調べたいことが。調査の結果をお報せするのは、主上へご報告してからになると思います」
「そうですか」
この調査は皇帝からの指示だ。その結果が陶鼓たちに知らされるかどうかは、皇帝の意向次第である。
「今回の件は密命なので、くれぐれも内密にしてくださいね」
朔が念押しすると、陶鼓は小さく頷いた。
麗殊と朔は竹枢宮を後にする。夕間暮れで、橙色の空が暗闇に染まりかけている。
通りの角を曲がり、殿舎が見えなくなったところで、麗殊は朔に話しかけた。
「陶鼓と何を話してたんですか?」
「生前の竹妃様の素晴らしさについて。ねえ、鎖徹がどうかしたの?」
「……その鎖徹という大医はどういう方ですか」
問いに問いを返されても、朔は嫌な顔ひとつせずに答えてくれる。
「鎖徹は先帝が寵愛していた大医の息子だ。主上よりも歳上の男で、穏やかそうに見えてプライドは高い。その腕は優秀だから太医の座を与えられてるけど、俺とは合わない種類の男だ。正直に言うと、気に食わない」
はっきり物を言う朔に、麗殊は少し意外に感じた。こちらの要望にはすぐさま頷いてくれるが、嫌なものは嫌だという男なのか。
「朔殿と鎖徹殿は、あまり関わりはないんですか?」
「管轄が違うからあまり会うことはないが、何度か話したことはある。ちょうど今朝も竹妃宮で会ったところだ」
「竹枢宮で……?」
「ああ、竹妃の検視を担当したのは鎖徹だからね」
──これは、やっぱり……。
麗殊は口の中で呟く。
「鎖徹殿と話をしたいのですが、融通を効かせてくれますか」
「いいよ。彼に会って、何か分かるのか?」
「……まだ推測だけで、確証はないのです」
「へえ、今回も黙って見てろと?」
眼光を鋭くさせる朔に、麗殊は「はい」とだけ返す。
朔は「そう……」と息を吐き出し、後宮の南方を指して言う。
「外廷へ続く門の近くに大医の仮宿がある。鎖徹は竹枢宮への行き来が多いから、最近はずっとそこにいるみたいだ」
「朔殿も仮宿に?」
「いや、俺はあまり使わない。……ついて来て」
どうやら、仮宿まで案内してくれるようだ。
朔の後に続いて歩く間、無言が続いた。麗殊は頭の整理に時間を使っていたが、朔は幾度か視線を背後に向け、何か考え込んでいるように見えた。麗殊ではなく、それよりも奥にある竹枢宮の方を気にしている素振りだ。
足を動かすこと十数分。聳え立つ黄瑞門と塀が、眼前に大きく見えてくる。
黄瑞門より少し離れた東側に小さな殿舎が建っており、朔はそこで足を止めた。
仮宿の名通りそこは妃が持つような立派な殿舎ではなく、簡素な造りである。
「あれ?」
ところが、門をくぐれば、粗末な印象に彩りが現れた。軒下を囲むように、可憐な小花が咲いていたのである。
途端、麗殊は「これっ!」と小さく悲鳴を上げる。
「あの……これ、茉莉花ですよね?」
恐る恐る尋ねた麗殊に、朔は頷く。
「妃の宮では見かけなかったのに、どうしてここに……」
「たしかに、後宮ではあまり見かけないな。薬効があるのと……妃は茉莉花よりも華やかな花々を好むんだろうね」
「そう、ですか」
花弁から漂う甘く優しい香り。同じものを竹枢宮で二度、感じた。
麗殊の中で、断片がひとつの形を成していく。
茉莉花は東方の国から輸入され、国内でも香料用や食用に栽培される。麗殊も茉莉花茶を飲んだり、花弁を食べたりしたことがある。この植物は開花すると、湿度の高い夜に香りが強くなる夜行性の花である。
麗殊が見たところ、仮宿の茉莉花は白い花が見事で、開花したばかりのようだった。