十、残香〈下〉
朔は勝手知ったる様子で、仮宿の房室の扉を開く。
中から空気がふわりと漂ってきて、茉莉花の香りに混じり、他の薬草の匂いも感じる。
壁沿いには何段もの棚が並び、瓶や箱が几帳面に整理されており、薬草や調剤道具が収められている。中央には木製の作業卓が据えられており、その上には調合用の乳鉢と杵、巻物や筆が置かれてある。
肝心の鎖徹の姿が見当たらず困惑していると、薄い布で仕切られた房室の奥から、物音が聞こえてくる。
そして、仕切りが腕で持ち上げられ、裏から男が現れた。
「あれ、朔様がここに来るなんて珍しいですね」
「今日はあなたに用があって来ました」
「私、ですか?」
「ええ」
茶髪の美丈夫──鎖徹は、きょとんと瞬きをして首を傾げる。重ね着の朔とは違って簡素な白い袍を纏い、長髪を緩く結い肩から流している。
──間違いない、この男だわ……!
記憶の中で見た男が目の前にいる状況に、麗殊の胸がドクドクと脈打つ。それは、竹妃と鎖徹の秘め事を覗いてしまったから、というのも大きい。
「こちらは充媛、麗殊殿です。我々は主上より竹妃様の死についての調査を任されました。それで、彼女と親しかったあなたともお話したいと、麗殊殿が」
「調査……そうですか」
僅かに胡乱な目つきをした鎖徹に促され、麗殊と朔は作業卓の前に腰掛ける。「荒れていて申し訳ありません」という言葉通り、卓上には物が乱雑に広がっていた。
目の届くところに、鎖徹の名が押された紙がある。生薬の名称がたくさん書かれてあるので、処方箋か調合記録だろう。
「鎖徹殿は、いつから竹妃様付きに?」
麗殊は気を取り直して、当たり障りない質問から始める。
「後宮が刷新されてすぐです。竹妃様が体調を崩されて、最初に診察をしたのが私でした。持病故とのことでしたので、それからは長いお付き合いに。しかし、このようなことになるとは……残念でなりません」
鎖徹はそう言って、憂いげに吐息を漏らす。麗殊は「本当に」と頷き、問いかけを続ける。
「検視は鎖徹殿が担当されたそうですが、自死であることは間違いないのですか」
「ええ。他者が関与した痕跡はなかったです」
「他になにか異変はありませんでしたか。ここ最近の間に起きた身体の変化など」
鎖徹は一瞬だけ頬を引き攣らせたが、その後は平然とした様子で「特には」と答える。
──ここまでは想定内よ。勝負はこれから……。
麗殊は逸る気持ちを抑えようと身動ぎして、姿勢を整えてから言う。
「竹妃様は以前、霞泉宮という離宮に療養されていたようですね。鎖徹殿も着いていかれたとか」
「……まるで尋問のようですね。なにが言いたいのですか」
霞泉宮の名を出した途端、鎖徹の表情が暗くなる。
その目を見て確信した麗殊は、重々しく口を開く。
「単刀直入に聞きますが……竹妃様のご懐妊にはお気づきでしたか」
これこそが、麗殊が食解きで導き出した、竹妃を死に至らせた大きな要因だった。
「な、ご懐妊……? ありえません!」
鎖徹は表情を硬くして、間を置かずにきっぱりと答える。
「そうでしょうか。竹妃様には、酸味や甘味を比較的強く感じられる料理や、胃に優しい粥などに加え、全体的に温かい食事を好むという変化が、ひと月の間で見られます。それは悪阻のせいかと」
「あの御方は元々胃腸が弱くあられるのです。寛解に向かっていた持病もぶり返してしまったので、そのためでしょう」
「そうなのですか? 昨日会った時には、目に見えて分かるほど膨らみが現れていたのですが……これは、主上にご報告しなければなりませんね」
麗殊が深刻そうに零すと、鎖徹は眉をしかめた。
「はあ? 体型に変化はありませんでしたよ。三月でそんなに大きくなる、わけ……」
鎖徹はそこまで言いかけ、瞠目して息を呑んだ。
刹那、重い静寂が場を支配する。眼前の男は顔色を無くして、めっきり口を噤んでしまった。
「三月。朔殿も聞きましたか」
「しかと」
朔を横目で見ると、彼は小さく首肯した。
「竹妃様が子を宿しておられたというのは、証拠もなく、私の憶測に過ぎませんでした。なので、そちらの口から吐露してくれて助かりました」
「……誤解です、私は何も知りません」
「知っているはずです。三月前といえば、竹妃様が離宮で療養されていた頃です。その場に主上はいませんでした。……竹妃様の腹の子は、あなたの子ではないのですか──」
麗殊が核心に迫ったそのとき。
ガタンッ!
背後で重い音が鳴る。ハッとして音のした方を見ると、房室の外、半端に開かれた扉の隙間の奥で娘が腰を抜かしていた。
「陶鼓さん!?」
「陶鼓……」
麗殊と鎖徹がほとんど同時に驚きの声を上げる。
房室を覗いていた娘は、陶鼓だった。彼女は扉支えに力なく起き上がり、こちらへと詰め寄ってくる。
「竹妃様がご懐妊って、何の話ですか? しかも、鎖徹様の子って……」
陶鼓は震えた声で言い募る。突然のことに麗殊が動揺していると、朔が「この娘はずっと俺たちを着けてきていた」と囁いた。
──気づかなかったわ……。この人はどうして言ってくれなかったの?
不満げに朔を睨むが、彼は何も言わずに顎先で陶鼓を示す。
「気になって見に来たけれど、竹妃様が身重だというだけでなく、主上ではなく鎖徹様の子だなんて……! あなたは、竹妃様を貶めるつもりで私に話を聞きに来たのですか!?」
陶鼓は強い語調で猜疑心を露わにする。その剣幕は初対面の時よりも激しく、怒りが見て取れた。
麗殊は怯むことなく、努めて冷静に言葉を返す。
「紛れもない鎖徹殿が言ったのです。竹妃様がご懐妊されて三月だと。陶鼓さんも聞いていたでしょう」
「でも、竹妃様にそんな素振りは全くなかったわ」
「竹妃様は近頃悪心に悩まされていたそうですが、恐らくは悪阻です。鎖徹殿は主治医ですから、竹妃様の懐胎に気づかれたはずです。それからは、必死に隠していたのでしょう」
麗殊が言い返すと、陶鼓は益々眉間の皺を深くする。
「それが本当だとしても、主上の御子でしょう!? 鎖徹様の子だなんて有り得ないわ! だってこの御方はわたしと──」
陶鼓の言葉の途中で、鎖徹が「充媛様」と口を開く。
「私と竹妃様は医者と患者、主上の関係に過ぎません。いったい何をもってこんな濡れ衣を?」
憮然とする鎖徹を前に、麗殊は袖の中から紙切れを取り出した。
黄色の紙面には"──ことは、知られてはなりません。あなたを想っているからこそ──"と書かれてある。
「竹妃様の自室で文を見つけました。一度焼いた跡がありますが、書物に挟んで残してありました。密通を示す文が残されています」
「……こんなもの、いくらでも捏造できます」
「いいえ。この文には、医官が使用する桑皮紙が用いられています。……手跡からして、あなたが書いたものでは?」
作業卓に置かれていた名入りの調合記録をもう片方の指で摘み、二つの紙を鎖徹の前に翳す。どちらも比較的端正な字で、省略などの特徴的な筆遣いが一致している。
鎖徹は「それは、」と言い淀み、視線を逸らして、ぎりと歯を噛んだ。その表情から焦燥が滲み出ている。
すると、麗殊の話を聞いていた陶鼓が信じられないと目を見開いて、鎖徹の袖を掴む。
「本当に娘娘と関係を持っていたの!? 年季が明けたらお嫁にしてくださると言ったのは、何だったのですか……!」
「私が恋い慕っていたのは竹妃様だ……! 君が情を示してくるから仕方なく……竹妃様の侍女ともなれば邪険にはできないだろう」
「そんな!」
言い争う二人を見て、己の勘が冴えていたことを改めて思い知る。
視線を落とすと、端の方に置かれた嵩のある竹籠が目に入った。そこには、摘み取られた白い花が詰められている。
麗殊は再び陶鼓を見据え、口を開く。
「陶鼓さん。初めて会ったとき、あなたから茉莉花の香りがしました。竹妃様が昨日纏われていた襦裙からも同じ香りが。どこで染み付いたのだろうかと考えていたのですが……ここだったのですね」
鎖徹に迫っていた陶鼓は「へ?」と呆気にとられたような顔をして麗殊を見る。
「ここの茉莉花は開花してまだ間もない。おそらくは昨日か一昨日です。香りが染み付くほどとなると、開花した後の夜に近くにいる必要がある。……陶鼓さんは昨夜、鎖徹殿に会うため、この仮宿に訪れたのではありませんか」
「まっ、待ってください! 竹妃様の御衣からも香りがしたと……? いいえ、竹妃様は昨日は外に出られていないはず……」
「竹妃様も昨夜、密かにここへ訪れたのでしょう。悪阻で肉体も精神も病んでいる中、愛する人に縋りたいと思うのはおかしくありません」
仮宿に茉莉花が咲いているのを見てから、陶鼓と鎖徹の関係に思い当たった。鎖徹の名を出したときのこの娘の動揺は、明らかに後ろ暗いものを隠している様子だったのだ。
実際、麗殊の勘は当たっていた。元々白かった陶鼓の顔から更に血の気が引き、唇を震わせる。
「まさか、私と陶鼓が二人でいるのを……?」
目は虚空をさまようように揺れ、かすれた声で「そんな……」と漏らした。
「うそよ、わたしのせいで竹妃様が……? 違うわ、そんなわけないもの!」
陶鼓は絶叫のような声を上げて、その場に蹲ってしまう。そして、両手で顔を覆って啜り声を上げた。
この娘は竹妃と鎖徹の関係を知らぬまま、自身も鎖徹と密通してしまったのか。心から主の死を哀しんでいたからこそ、悲痛さが増してくる。
密通による罪の意識、妊娠による心身の疲労、そこに裏切りの絶望も加わり、結果として竹妃はこの世を儚んだのだろう。
麗殊が竹妃に想いを馳せる中、朔が鎖徹に声をかける。
「鎖徹殿、滅心散はどうしたのですか」
「……」
沈黙、それだけが彼にできる僅かな抵抗だ。
──……飲んでなかったんでしょうね。
滅心散は男性の情欲と生殖的機能を抑え込む薬である。大医は常時これを服用することを条件として、後宮への出入りを許されている。しかし、滅心散は完全に機能を停止させるものではなく、服用を長期間辞めれば元に戻るという。
この条件は主従の信頼の証……鎖徹は朧鳴帝を裏切ったのだ。
「言い方が悪いですが、大医ならば腹の子を秘する方法は他にもあったはず。それをしなかったのは良心からですか」
「……竹妃様は近頃、私の煎じるものを召し上がりませんでした。なんとかしなければと頭を悩ませたのも束の間、今朝の事件が起きたのです」
「なるほど、そうでしたか」
朔と鎖徹の間で平然と交わされる会話の、なんと悍ましいことか。麗殊の表情が、自然と歪んでいく。
腹の子を秘する方法──要は、堕胎だ。薬は毒に転じる。大医ならば、妊婦に影響を及ぼす薬も心得ているはず……ということである。
鎖徹は観念したように白状するが、そこに良心の呵責は感じられない。対する朔も、顔色ひとつ変えずに応えている。
「朔様、お願いします! どうか主上には……! 私はただ想いを伝えたかっただけで、まさか御身を汚してしまうなどとは思ってもみなかったのです! 竹妃様だって、私に愛を囁いてくれた……!」
鎖徹がその場に膝を着き、必死の形相で朔に懇願する。
「金なら幾らでもあります。父の名だって! 父は前帝の寵臣だったはず、私を貶めては前帝の意思に反しますよ……」
「それは主上が決めることです」
「なっ、」
迷うことなく跳ね除けた朔に、鎖徹は愕然とその場に崩れ落ちる。
意味を成さない声を発しながら、身体を震わせる陶鼓、絶望をその顔に浮かべる鎖徹。阿鼻叫喚。こうなることは最初から承知していた。
人間の奥底を強引に暴くことは、多くの場合人間を苦しめる。朧鳴帝はなぜ、このような惨い謎を与えたのか。
朔は縋り付くような鎖徹の手を払い、麗殊の元へ歩み寄る。
「もう遅いし、後は俺に任せていいよ。自分の宮に帰るといい」
「いいえ、主上へご報告しなければなりません。私に与えられた問いですので──」
突然、踏ん張っていた足の力が抜け落ち、ふらりと身体がよろける。
──倒れる……!
と、麗殊は咄嗟に目を瞑ったが、いつまで経っても衝撃が襲ってこない。
恐る恐る瞼を持ち上げると、すぐ側から「大丈夫か」という声が聞こえてきた。麗殊が倒れる前に、朔がその胸と腕で支えてくれたのだ。
「えっ、あ、すみません……!」
驚いて飛び退けると、朔は薄く微笑む。
「構わないよ。ほら、この調子だと今日は休むべきだろう。報告は明日の朝にでもすればいい。一人で帰れるか?」
「は、はい」
麗殊はすっかり狼狽えてしまい、首振り人形のように何度も頷く。
すると、朔は意味深に目を細めて、麗殊から離れた。
──なに、なに……?
唖然と朔を見つめるが、彼は既に麗殊から目を背けて、作業卓で何事かを書き記している。
麗殊にとって、こんなに近い距離で男の人と触れたのは初めてのことだ。意外と硬い身体に受け止められたその感触が、まだ残っている。
冷静差を取り戻さなければ……と麗殊は頭を巡らせる。しかし、疲労と同様で限界を迎えたのか、脳は思考を停止してしまい、全く頼りにならなかった。




