三十八、門出
七夕節の宴の日から一週間と少しが経った。
今日、麗殊は後宮を出て朔の屋敷に移る。
朔の屋敷は宮殿のすぐ側に建てられており、なんと、桃の木が生えているそうだ。今夜はそこで、小さな婚礼を行うことになっている。
麗殊は元々少なかった自分の荷物を纏め、桃晴宮の門を出る。
「短い間だったけれど、ここでの暮らしも悪くなかったわ」
桃晴宮を眺めながら呟くと、隣に立つ栖遥がくすりと笑う。
「こんなに、危なっかしくて食いしん坊なご主人様は初めてでしたね。これからもお仕えできるなんて、本当に光栄です」
「こちらこそ」
栖遥と炉辰はそのまま麗殊の世話係と護衛として、一緒に付いてきてくれることになった。心強い侍従たちだ。
麗殊は門の外から、庭に聳える椿の木を見上げる。
季節が巡り冬になれば、蕾が付き、花が開く。白い雪の上に咲く紅色はさぞかし美しいだろう。
けれど、麗殊はその景色を見る前にこの場所を去る。ようやく、紛れもない自分自身のための居場所ができたのだ。
「ふふ」
朔の屋敷に漂う桃の香りを思い浮かべ、麗殊はうっとりと頬を緩めた。
初めて訪れる朔の屋敷は、紅い装飾で彩られていた。婚礼のための飾りである。
既に房室の中にいる朔と会う前に、麗殊は別室で紅色の花嫁衣装に着替え、面紗を付ける。
なんと、この衣装は朧鳴帝が用意してくれたものである。これは、皇帝が元妃の婚姻を完全に認めたという証だ。
婚礼は特別壮大なものではなく、ほとんど二人だけで行う。
故郷の人間は呼ばなくていいと伝えたので、顔合わせはまだ先だ。というか、まだ下賜のことも母たちには伝えていない。これまた面倒なことになりそうなので、後回しにしているのである。
麗殊は面紗に視界を遮られたまま、栖遥の手を握り、朔の房室へと足を踏み入れる。
栖遥が出ていき、扉を閉めたので、完全に二人きりになる。
朔は見慣れない紅色の衣装を纏って寝台に腰掛けており、麗殊はその隣にゆっくりと座る。
「顔を見てもいい?」
「ええ」
小さく頷くと、朔が麗殊の面紗を外す。彼は花嫁衣装の麗殊を見ると、ふわりと破顔する。
「すごく綺麗だ」
「……ありがとう」
顔から火が吹きでそうなこの状況、数ヶ月前の自分ならば、到底信じられない光景だろう。今も半分夢心地だ。
その後、杯に注いだ酒をそれぞれ半分飲んだ後、互いに交換して飲み干す。この結婚が長く続くようにと。
入宮の際にはこのような儀式はなく、全て初めての経験だ。
──何を話せばいいのかしら。
悩んでいると、朔が「そういえば」と口を開く。
「主上が『気が向いたら司察局の女官として力を貸して欲しい』って言っていたけど……やらないの?」
「しばらくはいいわ。私も休みが欲しい。もう少しだけ異能のことは忘れて、あなたと過ごしていたいの」
「それは、随分と嬉しいことを言ってくれるな」
朔は照れくさそうに笑う。そんな彼に対して、麗殊は少し頬を膨らませて言う。
「でも、あなたは大医だから、日中は後宮に行くんでしょう」
つまり、無数の女たちと顔を合わせるわけである。それがなんというか、嫌というか、複雑な気持ちだ。
──これが、嫉妬というものなのね。
嫉妬の恐ろしさは身をもって分かっている。嫉妬に振り回されて、人を傷つけてしまうような女にはなりたくない。
麗殊が発言を撤回しようとした瞬間、朔は「いや」と首を横に振る。
「主上に言われたよ。妻を娶ったんだったら、後宮には来なくていいって」
「まっ、まさか、罷免されたの!?」
「何言ってるんだ。皇帝の主治医としての役目はそのままで、普段は后妃じゃなくて、武官たちの診察に注力することになったってこと。いざとなったら後宮に駆けつけるけど。あ、俸給は変わらないから安心していいよ」
「そこは心配してないけれど……」
朧鳴帝も色々考えてくれたらしい。その気遣いに、こそばゆい気持ちになる。
「そういえば、朔殿は主上と何か約束したの? 私の扱いについて」
「ああ。あなたに手を出さないで欲しいと──って、それ、主上から聞いたの?」
「ええ、もうずっと前に。襲われそうになったときね。昨日も聞いたけど」
麗殊が話すと、朔は眉間に皺を寄せ、がしっと麗殊の肩を掴む。
「待て、襲われそうになった……? そんな話、聞いてないんだが」
「未遂だから大丈夫よ。というか私も聞いてないわ。何よ、その約束」
そちらも隠し事をしていたのだから、お互い様ではないか。
そう訴えると、朔は額に手を当てて、弱々しい声を零す。
「仕方ないだろう、惚れてしまったんだから。主上は俺に甘いんだ。叔父の特権だな。まあ、過去の事件の負い目もあるんだろうけれど」
「ふうん……」
惚れた男が自分のためにあれこれと手を回していたと考えると、悪い気分ではない。
麗殊は密かにほくそ笑み、朔の方へと身を乗り出す。
「いつも思ってたのだけれど、あなたからはいい香りがするわ」
茉莉花の香りとは関係ない、朔自身のもの。彼の手首の紋様から漂う花の香りを嗅ぐと、心が安らぐ気がする。矯氏特有のものなのだろうか。
朔はすっと笑みを潜めて、麗殊の顔を覗き込む。
「それ、誘ってる?」
全て見透かすような琥珀色の視線から逃れるように目を背けて、口を開く。
「……これでも、恥ずかしい中で頑張ってるの。ちゃんと思いを伝えないとって。あなたはその……滅心散を飲んでいたから」
麗殊がおずおずと告げると、朔は目を丸くする。
真面目な顔をする麗殊に対して、朔は端整な顔をくしゃりと緩めて、ふふっと笑う。
「それなら、はやく効力が切れるように祈ってて」
甘い囁きと共に、形のいい唇が落ちてくる。
一度食まれた後、舌で控えめにつつかれる。唇を薄く開いて招き入れると、途端に酒の味が濃くなった。
とても美味しいけれど、頭がくらくらする。もっと食べたい、なんて。
優しい男の背にするりと腕を回して、目を瞑る。
──今の私は、自分の欲で、自分の人生を歩めてる。
どくりと強く脈打つ鼓動が、その証のように感じられる。
麗殊は身体に響くその音に耳を澄ませ、唇に触れる熱を精一杯受けとめた。
了




