表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/38

三十八、門出

 七夕節の宴の日から一週間と少しが経った。

 今日、麗殊は後宮を出て朔の屋敷に移る。

 朔の屋敷は宮殿のすぐ側に建てられており、なんと、桃の木が生えているそうだ。今夜はそこで、小さな婚礼を行うことになっている。


 麗殊は元々少なかった自分の荷物を纏め、桃晴宮の門を出る。


「短い間だったけれど、ここでの暮らしも悪くなかったわ」


 桃晴宮を眺めながら呟くと、隣に立つ栖遥がくすりと笑う。


「こんなに、危なっかしくて食いしん坊なご主人様は初めてでしたね。これからもお仕えできるなんて、本当に光栄です」

「こちらこそ」


 栖遥と炉辰はそのまま麗殊の世話係と護衛として、一緒に付いてきてくれることになった。心強い侍従たちだ。


 麗殊は門の外から、庭に聳える椿の木を見上げる。

 季節が巡り冬になれば、蕾が付き、花が開く。白い雪の上に咲く紅色はさぞかし美しいだろう。

 けれど、麗殊はその景色を見る前にこの場所を去る。ようやく、紛れもない自分自身のための居場所ができたのだ。


「ふふ」


 朔の屋敷に漂う桃の香りを思い浮かべ、麗殊はうっとりと頬を緩めた。



 初めて訪れる朔の屋敷は、紅い装飾で彩られていた。婚礼のための飾りである。

 既に房室の中にいる朔と会う前に、麗殊は別室で紅色の花嫁衣装に着替え、面紗を付ける。

 なんと、この衣装は朧鳴帝が用意してくれたものである。これは、皇帝が元妃の婚姻を完全に認めたという証だ。


 婚礼は特別壮大なものではなく、ほとんど二人だけで行う。

 故郷の人間は呼ばなくていいと伝えたので、顔合わせはまだ先だ。というか、まだ下賜のことも母たちには伝えていない。これまた面倒なことになりそうなので、後回しにしているのである。


 麗殊は面紗に視界を遮られたまま、栖遥の手を握り、朔の房室へと足を踏み入れる。

 栖遥が出ていき、扉を閉めたので、完全に二人きりになる。

 朔は見慣れない紅色の衣装を纏って寝台に腰掛けており、麗殊はその隣にゆっくりと座る。

 

「顔を見てもいい?」

「ええ」


 小さく頷くと、朔が麗殊の面紗を外す。彼は花嫁衣装の麗殊を見ると、ふわりと破顔する。


「すごく綺麗だ」

「……ありがとう」


 顔から火が吹きでそうなこの状況、数ヶ月前の自分ならば、到底信じられない光景だろう。今も半分夢心地だ。


 その後、杯に注いだ酒をそれぞれ半分飲んだ後、互いに交換して飲み干す。この結婚が長く続くようにと。

 入宮の際にはこのような儀式はなく、全て初めての経験だ。


 ──何を話せばいいのかしら。

 悩んでいると、朔が「そういえば」と口を開く。


「主上が『気が向いたら司察局の女官として力を貸して欲しい』って言っていたけど……やらないの?」

「しばらくはいいわ。私も休みが欲しい。もう少しだけ異能のことは忘れて、あなたと過ごしていたいの」

「それは、随分と嬉しいことを言ってくれるな」


 朔は照れくさそうに笑う。そんな彼に対して、麗殊は少し頬を膨らませて言う。


「でも、あなたは大医だから、日中は後宮に行くんでしょう」


 つまり、無数の女たちと顔を合わせるわけである。それがなんというか、嫌というか、複雑な気持ちだ。


 ──これが、嫉妬というものなのね。

 嫉妬の恐ろしさは身をもって分かっている。嫉妬に振り回されて、人を傷つけてしまうような女にはなりたくない。

 麗殊が発言を撤回しようとした瞬間、朔は「いや」と首を横に振る。


「主上に言われたよ。妻を娶ったんだったら、後宮には来なくていいって」

「まっ、まさか、罷免されたの!?」

「何言ってるんだ。皇帝の主治医としての役目はそのままで、普段は后妃じゃなくて、武官たちの診察に注力することになったってこと。いざとなったら後宮に駆けつけるけど。あ、俸給は変わらないから安心していいよ」

「そこは心配してないけれど……」


 朧鳴帝も色々考えてくれたらしい。その気遣いに、こそばゆい気持ちになる。


「そういえば、朔殿は主上と何か約束したの? 私の扱いについて」

「ああ。あなたに手を出さないで欲しいと──って、それ、主上から聞いたの?」

「ええ、もうずっと前に。襲われそうになったときね。昨日も聞いたけど」


 麗殊が話すと、朔は眉間に皺を寄せ、がしっと麗殊の肩を掴む。


「待て、襲われそうになった……? そんな話、聞いてないんだが」

「未遂だから大丈夫よ。というか私も聞いてないわ。何よ、その約束」


 そちらも隠し事をしていたのだから、お互い様ではないか。

 そう訴えると、朔は額に手を当てて、弱々しい声を零す。


「仕方ないだろう、惚れてしまったんだから。主上は俺に甘いんだ。叔父の特権だな。まあ、過去の事件の負い目もあるんだろうけれど」

「ふうん……」


 惚れた男が自分のためにあれこれと手を回していたと考えると、悪い気分ではない。

 麗殊は密かにほくそ笑み、朔の方へと身を乗り出す。


「いつも思ってたのだけれど、あなたからはいい香りがするわ」


 茉莉花の香りとは関係ない、朔自身のもの。彼の手首の紋様から漂う花の香りを嗅ぐと、心が安らぐ気がする。矯氏特有のものなのだろうか。

 朔はすっと笑みを潜めて、麗殊の顔を覗き込む。


「それ、誘ってる?」


 全て見透かすような琥珀色の視線から逃れるように目を背けて、口を開く。


「……これでも、恥ずかしい中で頑張ってるの。ちゃんと思いを伝えないとって。あなたはその……滅心散(めっしんさん)を飲んでいたから」


 麗殊がおずおずと告げると、朔は目を丸くする。

 真面目な顔をする麗殊に対して、朔は端整な顔をくしゃりと緩めて、ふふっと笑う。


「それなら、はやく効力が切れるように祈ってて」


 甘い囁きと共に、形のいい唇が落ちてくる。

 一度()まれた後、舌で控えめにつつかれる。唇を薄く開いて招き入れると、途端に酒の味が濃くなった。

 とても美味しいけれど、頭がくらくらする。もっと食べたい、なんて。

 優しい男の背にするりと腕を回して、目を瞑る。


 ──今の私は、自分の欲で、自分の人生を歩めてる。

 どくりと強く脈打つ鼓動が、その証のように感じられる。

 麗殊は身体に響くその音に耳を澄ませ、唇に触れる熱を精一杯受けとめた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ